1959(昭和34)年春&夏
1959(昭和34)年4月28日
右の写真は、私が4歳の誕生日を迎えてから約3週間後のものです。
ご覧いただいて分かる通り、私は左手を吊っております。正確な日付は分かりませんが、実は、家の四畳半の部屋の出窓から転落したことがありまして、その時に、左腕を骨折してしまった後の写真であります。
家は福島江という農業用水のために造られた川に面した道路から奥まった場所に建てられており、玄関の方は道路と同じ高さになっていますが、家の裏の方は、ちょっと低くなっているため、裏から見ると、盛り土をした上に家が建っているような形になっています。
四畳半の出窓の下は、盛り土をされている所の縁でありまして、そこまでの高さが1.5メートルくらいで、さらに、盛り土の縁から、裏の家の庭までも1.5メートルくらいの高低差があります。もうよく覚えていませんが、多分、私が落ちたのは、盛り土の縁の部分でありまして、裏の家の庭まで勢い余って転げ落ちたというようなことではなかったように記憶しております。
何れにしても、骨折したのは事実でありまして、落ち方があまり上手くなかったのだろうと思われますが、親父も仕事が休みで家にいたため、驚いた両親が、すぐさま、私を病院に連れていくことにし、親父が自転車に乗せて、確か、城内町辺りの吉田模型の近所の整骨院に連れていってくれたのだけははっきり覚えています。
この写真も、今までの何点かと同様に、自宅前のお隣りの家の外壁の前に立って撮られたものでありまして、注目したいのは、私が着物というか寝間着を着ている点であります。
私の記憶では、小学校の高学年くらいからは、夜、寝る時にはパジャマを着るようになっていたと思いますが、この頃は、いわゆる寝間着、着物スタイルのものを着て寝ていたものでした。腕を骨折して動くことを禁じられていたであろう私は、当然のように寝間着を着せられていたわけで、この辺りにも、時代というものを感じざるをえません。
1959(昭和34)年6月14日
左の写真は、上の写真から約1カ月半後のもので、私の左腕も既に完治しているようです。
この写真は、色々な意味で、この「60年代通信」の意図するところを象徴するような写真であり、既に、「60年代通信」ニュースレター版では、1996年9月号の1面トップでプライベート・フォト第一号としても使わせていただきました。
この写真のバックグラウンドについては、そちらをお読みいただければとも思いますが、簡単に、ご説明させていただきます。
私が育った新潟県長岡市の地蔵町というところは、いわゆる長岡市の旧市街地の一部ではありますが、旧市街地の周縁部に当たり、昭和30年代前半頃までは、周辺には、田んぼや空き地が沢山あるところでした。空き地には、昭和30年代の半ば以降、相次いでアパートやオフィス・ビルや大きな道路が造られることになるわけですが、それまでは、そうした空き地は近所の子供たちの格好の遊び場でありました。
そして、この写真が撮影された昭和34年6月には、何と、その私たちの遊び場だった広い空き地に、サーカスがやってきて、写真の背景にあるような大きなテント小屋が、ある日、突然、出現したのであります。もう、私たちハナ垂れ坊主の驚愕ぶりたるや、皆さんにも、想像に難くないのではないでしょうか。やってきたのは、シバタサーカスというサーカスで、多分、地元のシバタ観光がやっていたサーカスではないかと思われます。
原っぱや広っぱと呼ばれる空き地が、そこかしこにあった昭和30年代ならではの写真ということになろうかと思いますが、そうした原っぱや広っぱの話題は、「60年代通信」ニュースレター版1996年9月号で色々と書かせていただいておりますので、そちらに譲らせていただきます。
この写真で、もう一つ、注目していただきたいのが、私の足元でありまして、写真が小さいため分かりにくいかもしれませんが、私は下駄を履いております。今時は、4歳の子供が遊びまわるのに下駄履きというのは、まず考えられないと思いますが、当時は、こんな幼児の下駄履きは決して珍しくありませんでしたし、私が住んでいた地蔵町にも、靴屋ではなく、下駄屋というものが、まだ、存在していました。
上の写真の寝間着姿とともに、この下駄履きの写真も、また、時代を物語る写真と言えましょう。
1959(昭和34)年7月6日
左の写真は、上の写真から、さらに約1カ月後の写真ですが、私も姉も、すっかり、夏の装いであります。撮影場所は、やはり、自宅前の空き地でお隣りの外壁の前です。ちょうど、日中は、このお隣の家の外壁の前の空き地に陽光が差し込む状況になるため、写真を撮るには格好の場所だったのでしょう。
ということで、上2枚がどういう状況で撮影されたものかが、比較的はっきりと分かる写真だったのに対しまして、この写真は、この前後につながりのあるような写真もなく、どういう経緯で撮られた写真なのか良く分かりません。ただ、私も、姉も、それなりにこざっぱりした服を着せてもらっていますし、帽子をかぶっていることからも、どこかに出掛ける前だったのではないかと想像されます。
ちなみに、ザウルスのスケジュール機能が確認したところ、昭和34年7月6日というのは月曜日ですが、以前から書かせていただいている通り、ウチの場合、親父が国鉄職員で勤務も不規則でしたから、月曜日が非番であれば、当然、一家揃って出掛けることも可能になるわけです。何れにしても、上のサーカス小屋のテントを背景にした写真では、私も姉も非常に不機嫌そうな顔をしているのに比べると、二人とも、なかなかいい笑顔で写っていますので、どこか、私達が喜ぶようなところへ出掛ける前なのだろうと思われます。
あまり書くこともありませんので、昭和34年7月というのが時代的にはどんな時期だったのかを確認してみますと、まず、「長岡市政だより」の同月号では、昭和21年から続けられてきた戦災復興工事が昭和34年度で終了することや、市内で順次、舗装工事が進められていることなどが伝えられています。
また、60年代の経済史年表で、昭和33年から34年にかけての時期を見ますと、昭和33年の11月には、国鉄が東京/神戸間で特急こだま号の運転を開始、12月には日銀が1万円札を発行し、東京タワーも完成しています。明けて、この昭和34年1月からはメートル法が実施され、4月には皇太子(現在の天皇陛下)が結婚して、テレビの普及に拍車がかかり、6月には、岸首相が、閣議で所得倍増計画の検討を指示。さらに、この写真が撮影された7月には、社会党が安保改定阻止の国民運動方針を決定する、というような時代状況でありました。

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