「チョコで選ぼうGS日本一」
土居まさるさんが、今週の月曜日(1999年1月18日)に永眠されました。
私にとっては、土居まさるさんが担当された番組の中でも、最も印象に残っている番組「チョコで選ぼうGS日本一」を中心に、土居さんもパイオニアのお一人でいらっしゃった1960年代のラジオの深夜放送のことなどを振り返りつつ、土居さんのことを偲ばせていただきたいと思います。
順位 |
グループ名 |
得票数 |
001 |
タイガース |
141,118
|
002 |
テンプターズ |
74,267
|
003 |
オックス |
64,218
|
004 |
スパイダース |
45,956
|
005 |
ワイルド・ワンズ |
43,839
|
006 |
ヴィレッジ・シンガーズ |
34,892
|
007 |
フォー・リーブス |
31,926
|
008 |
ヤンガース |
27,245
|
009 |
カーナビーツ |
27,123
|
010 |
ジャガーズ |
26,823
|
011 |
アップル |
26,480
|
012 |
スケルトンズ |
23,097
|
013 |
ゴールデン・カップス |
18,763
|
014 |
アダムス |
15,517
|
015 |
ガリバーズ |
15,041
|
016 |
チェックメイツ |
13,728
|
017 |
フィンガース |
13,350
|
018 |
レッツゴーゴーツ |
12,692
|
019 |
モップス |
12,354
|
020 |
フローラル |
12,273
|
021 |
ブルー・コメッツ |
9,998
|
022 |
ブルー・インパルス |
9,168
|
023 |
シャウト |
7,540
|
024 |
リボルバー(USA) |
6,623
|
024 |
スウイング・ウェスト |
6,623
|
026 |
リンド&リンダース |
5,392
|
027 |
ピーコックス |
4,956
|
028 |
ビーバーズ |
4,597
|
029 |
イエスタディ |
4,540
|
030 |
タックスマン |
4,298
|
031 |
ロンリー・ジャックス |
3,450
|
032 |
パープルシャドウズ |
3,327
|
033 |
ライオンズ |
3,246
|
034 |
ポニーズ |
3,130
|
035 |
バロネッツ |
2,889
|
036 |
ピーターズ |
2,631
|
037 |
ザ・ラブ |
2,520
|
038 |
フォーク・クルセダーズ |
2,474
|
039 |
ダイナマイツ |
2,215
|
040 |
ザ・タローズ |
2,135
|
041 |
リリーズ |
2,129
|
042 |
シルバー・ローズ |
2,048
|
043 |
アンクル |
2,007
|
044 |
サイレンサー |
1,966
|
045 |
プレイズ |
1,947
|
046 |
エレファンツ |
1,938
|
047 |
キャラバン |
1,930
|
048 |
ヴィーナス |
1,913
|
048 |
ファンキー・プリンス |
1,913
|
050 |
ザ・Q |
1,903
|
すでに、「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」でも、土居まさるさんの逝去を悼むEメールを頂戴しておりますが、事実関係の確認をする意味合いから、1月18日付けの毎日新聞(夕刊9ページ社会面・4版)の死亡記事を引用させていただきます。
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「セイヤング」「テレビジョッキー」
土居まさるさん死去
「セイヤング」や「テレビジョッキー」の軽妙な語りと司会でテレビ・ラジオを中心に活躍した人気アナウンサーの土居まさるさんが18日午前7時10分に亡くなった。58歳。葬儀・告別式の日取りは未定。
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「お便りコーナー」でEメールを頂戴しているお二人も、「セイヤング」と「テレビジョッキー」に言及されていらっしゃいましたように、やはり、土居さんの代表的な番組ということでは、この2つということになるのでしょう。
そんな番組は知らないという若い皆さんのために、若干、解説をさせていただきますと、「セイヤング」というのは、文化放送の深夜番組であり、「テレビジョッキー」というのは、日本テレビが日曜日のお昼に放送していたバラエティ番組です。
土居まさるさんは、何といっても、やはり、ラジオの深夜放送の発展に大きく貢献された方なんだろうと思いますので、とりあえず、ラジオの深夜放送というものの歴史をおさらいさせていただきます。
ラジオの深夜放送の一番最初は、1954(昭和29)年7月に文化放送が始めたもので、この時は、深夜2時までだったそうです。さらに、いわゆる24時間放送(当初はオールナイト放送と呼ばれていました)ということでは、1959(昭和34)年10月10日のニッポン放送が最初だったと記録されています。
はじめは、深夜に働いている大人たちを対象に放送されていたのが、やがて、深夜に勉強する若者も聴取者として意識されるようになっていきます。その辺りの経緯について、『戦後史大辞典』(三省堂)では、次のように、解説されています。
「60年代に入り、テレビの普及に反比例してラジオ聴取が急激に低下する。民放ラジオ(局)は、少ない予算のもとでさまざまなスタイルの番組を試みたが、そのひとつに若者を対象とした深夜番組があった。聴取率と影響の低下のおかげで、従来の約束を無視し、アナウンサー(DJ)の語りのスタイル(用語とスピード)を変えたり、聴取者の投書を中心に番組を組んだり、DJが投書者に直接語りかけたり、タブー視されていた性的話題を取り上げたり、電話での対話をオンエアしたり等々の新しい試みがあった。この試みは、主として深夜の時間で行われたが、受験勉強ブーム、個室化、受信機のトランジスター化も促進要因になって、予想を上回る聴取率を達成し、放送内容が若者の話題になり、番組関連の本が編集・刊行されて、深夜放送なる番組ジャンルが定着した。60年代後半ごろのことである」
ちょっと、引用が長くなりましたが、私が中学に入った1968年頃には、すでに、ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」、文化放送の「セイヤング」、TBSの「パック・イン・ミュージック」は、すでに、それなりに定着しておりました。
私が住んでいた新潟県長岡市の場合、地元の放送局のBSNラジオは、TBS系ではありましたが、私が中学の頃は、「パック・イン・ミュージック」はやっておりませんでした。
それでも、昼間は聞こえない東京からの電波も、夜になると、何とか聞き取れるくらいの状況になるので、ほとんど、短波放送のモスクワ放送か北京放送か、はたまた、ラジオ・ピョンヤンかというようなノリで、糸井五郎さんやアンコーさんやカメさん、土居まさるさんや落合恵子さん、ナッチャコ・パックなどを、文字どおり、耳をそばだてて、聞き入ったものであります。ちなみに、昨年、私の勤務する会社が実質的に運営するイベントでは、現在、ニッポン放送の重役になっていらっしゃる、かつてのカメさんこと亀淵専務にお世話になりました。
BSNが「パック・イン・ミュージック」を放送するようになったのは、私が高校に入った時でありまして、ちょうど、水曜日の担当(だったと思います、確か)が北山修からよしだたくろうにバトンタッチされた週あたりから、モスクワ放送とか北京放送といったような情けない電波状況ではなく、ちゃんと聞けるようになったと記憶しています。その頃の「パック・イン・ミュージック」は、月曜日が小島一慶、火曜日が愛川欣也、水曜日がよしだたくろう、木曜日が野沢那智と白石冬美、金曜日が…、ン、誰でしたっけ、忘れました。で、さらに、暫くして、かぐや姫なんかもパーソナリティに加わるようになり、長岡でかぐや姫のコンサートがあった時、南こうせつが長岡でもパックが聞けることを確認してから、番組を聞いていることを前提にしたギャグを連発し始めたのを覚えています。
さらに、大学に入ってからは、最も聞いていたのが、笑福亭鶴光が担当していた土曜日のオールナイト・ニッポンでありまして、もう、この頃になると、さきほど引用した解説にあった「性的話題」や「電話での対話のオンエア」というのが当たり前になっており、電話を通した曲当てクイズでは、真夜中に平気で聴取者の家に電話をかけ、家人が迷惑そうに眠そうな声で電話に出てくること自体を笑いの対象にしたり、何回か以上鳴らして誰も出ないと、鶴光が「寝さらせーっ」と絶叫するなど、考えてみれば、メチャクチャな番組になっておりました。
ということで、いつものことながら、前振りが異様に長くなってしまいましたが、そういう深夜放送の長い歴史にあって、深夜放送の黎明期ともいうべき1960年代の半ば辺りから、文化放送の「セイヤング」のパーソナリティとして活躍されていた土居まさるさんは、やはり、その深夜放送という紛うことなき“60年代文化”の重要な担い手でいらっしゃったことは間違いありません。
その土居さんが、すでに、深夜放送のパーソナリティあるいはDJとして、その人気が定着していらっしゃた頃に担当された番組が、今回、取り上げさせていただく「チョコで選ぼうGS日本一」という番組でありました。
この番組は、以前、ブルーコメッツのページでも取り上げさせていただきましたが、明治製菓がスポンサーで、ハイミルクやデラックス、ブラックなどの板チョコの包み紙の裏に、自分の好きなグループサウンズの名前を書いて、封筒に入れて送ると、1枚が1票となり、その票数でGSの順位が決まるというものです。前にも書かせていただいた通り、確か、当時の板チョコは1枚30円か50円くらいだたと思いますが、私も、はじめは、そういう高い板チョコを買っておりましたが、そのうち、私の好きだったブルーコメッツの票数が伸びないことを知り、ハイミルクとデラックスとブラックが5つ詰め合わせになっている50円のチョコレートを買っては、普通よりも小さいチョコの包み紙に、せっせと「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」と書いて送るようになったのでありました。それが有効票だったのか無効票だったのかは知る由もありませんが…。
手元の資料によりますと、この番組は「GS人気投票」という名前で、1968(昭和43)年10月7日から翌1969(昭和44)年4月11日まで、日曜日をのぞく毎日午後8時から20分間放送されていたそうであります。
文化放送の番組ではありましたが、なぜか、この番組は、BSNでもやっておりましたので、私は、毎日、ブルコメの順位がどうなることかと、ドキドキしながら聞いておりました。
番組は、毎回、「明治製菓提供、チョコで選ぼうGS日本一」という土居まさるさんの歯切れの良い声で始まったのを、はっきりと覚えています。
このページで紹介させていただいている表は、その人気投票の最終結果ですが、番組では毎回、土居まさるさんが、物凄い早口で、それこそ機関銃のように、順位とグループ名と得票数を発表し、それを聞きながら、GS大好き少女やGS大好き少年たちは胸をときめかせながら、土居さんのアナウンスに聞き入っていたわけであります。
皆様も、このランキング表をご覧になりながら、「1位 タイガース 14万1118票、2位テンプターズ7万4267票、…」と発表する、あの歯切れのよい土居さんの声を思い出していただきつつ、土居さんを偲んでいただければと思う次第であります。
ということで、ここまで金曜日の夜に作らせていただきまして、この後、土居さんの画像や当時の深夜放送やTVジョッキーの画像なども探し出して、画像を入れ込んだ形でアップするつもりだったのですが、今日(1999年1月23日・土)、長男と次男と一緒に立川から玉川上水まで、新しく出来た「多摩都市モノレール」の試乗に出かけ、京王線/中央線/多摩都市モノレール/西武拝島線/西武新宿線/京王線と乗り継ぐ“西東京周遊ツアー”の帰り道から、激しい悪寒が全身を襲い始め、夕方、家に辿り着いた時には、発熱状態にいたってしまいました。全身の関節という関節に熱がこもっている感じで、体に熱い鉛が入ったような感じです。
さきほど、一旦、床を離れ、食事をするため、起きて来たところで、この文章を打ち込んでいます。
従いまして、このページは、まだ、製作途上ではありますが、今週末はデータ更新作業を行うことが著しく困難となることが予想されるため、アクセスいただいた皆様への言い訳ページとして、中途ハンパなまま、アップさせていただきます。
風邪がなおり次第、別宅での資料探しも含め、画像処理の作業などを行い、このページをブラッシュアップすることをお約束して、
再び、床に臥させていただくことにしますので、よろしくお願いします。
メールのアップ作業くらいは出来るかと思いますので、何か、おっしゃりたい方、どうぞ、遠慮なさらずに、メールをお送りください。
お待ちしております。
では、お休みなさい。
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