ピエロと殺人者(2)


 などと考えている所へ新宿行きの快速電車がやって来た。ガラガラの座席に寝そべるように坐る。少し寝るかと思うが流石に10時間も寝た後だ、眠くはない。アミ棚に忘れられた週刊誌を拾って読む。だいぶ古いやつだ。大見出しで『ポルノ俳優児玉 邸に特攻す!』とある。そうだ一つ年下の俺の友人、前野霜一郎はもう死んじまっていないのだ。
 俺が前野と最初に付き合ったのは、もう6年も前、藤田敏八監督の『野良猫ロック暴走集団'71』という映画だった。俺はセカンドの助監督で、あいつは郷英治率いる悪党集団の一員だった。前野が子役としては主役まで演じたベテラン俳優である事などまるで知らなかった俺は、やけに熱心にオーバーな芝居をするガヤがいると思ってよく怒鳴ったりした。「前野、このシーンはなあ、オマエみたいなその他大勢が目立たなくていいんだよ、何もしなくていいから一生懸命つっ立ってろ!」あいつの芸歴に比べればまるで駆け出しの助カントクのくせにデカイ態度で残酷なことを言っていたものだと思う。「キツイこと言うなあ」前野は怒るワケでもなく照れたように笑っていた。あいつは笹塚駅前のフトン屋の一人息子で、俺もその頃は笹塚のアパートに住んでいたせいもあってその映画が終る頃には俺たちはかなり親密な友達になっていた。A級ライセンスを持つあいつの運転するフェアレディで伊豆修善寺のロケ現場から笹塚まで、1時間ちょっとでぶっ飛ばして帰った事も何度かある。運転は本当に怖いほどうまかった。その翌年の春、ひょんないきさつで俺は国映の矢元プロデューサーのもと『センチメンタルジャーニィ』という350万円予算の和製洋ピン映画の監督をすることになった。ピンク映画界の遣り手である矢元氏は和製ピンク映画よりも興行的に期待の持てる輸入もののピンク映画(洋ピン)を国内で外人を使ってでっちあげて稼ごうと考えたわけだ。まだ日活ロマンポルノも登場する前の事で仲々意欲的な着想であった。当時巨匠若松孝ニですら200万予算で撮っていたのだから、あの業界では大作の部類の作品であったのだが、9割がた撮影を終えて、この幻の名画はパンクしてしまった。その間の事情はこの際関係ないから書かないが、この俺のカントク作品で前野は助監督兼通 訳兼運転手兼と八面六臂の献身的な活躍をしてくれた。「今回はオマエ役者じゃないぞスタッフだぞ、やってくれるか」アメリカ帰りで外人に強いという前野を俺は最初から頼りにしていた。役者じゃないぞという俺の言葉をあいつはちょっと悲しげな顔で聞いていたが、すぐに笑ってうなづくと「やりましょうゴジちゃん!」と両手で握手したもんだ。そうだ、街中で偶然出会っても遠くからこっちが照れるほどの大声で名前を呼び、人なつっこく手を振って駆け寄ってはオーバーに握手する奴だった。その後子供もできて正式に結婚した奴の恋人のヤンキー娘デビもこの映画の出演者の一人だった。典型的なプアホワイトの母子家庭を家出して前野と同棲していたのだが、下駄 をはいて銭湯に行くのが好きな頭のいい娘だった。俺のアパートでインスタントラーメンをすすりながら3日も寝ずに台本を英文にタイプしてくれたのもデビだった。you knowとfuckingばかりのブロウクンイングリッシュで少しややこしい話の通訳になるとあまり役に立たなかった前野は、ニコニコ笑いながらデビの肩を揉んでやっていた。それから何やかやで半年近く、しまい頃には本当に電車賃すら無くて撮影現場に来れないスタッフもあったほどの俺たちの映画はパンクしてしまい、素人に毛が生えたような映画集団ゴジプロダクションは解散した。誰もが無報酬でしかも結局未完成とあっては、まるで報われない苦しい仕事だったが、前野は「この次は頑張ろうよ」と逆になぐさめたりしてくれた。その後俺はまた日活へ帰って臨時雇いの助監督としてカチンコを叩き、前野はあいかわらず売れない役者だった。俺が安い家賃を求めて多摩の山奥の団地へ引っ越したせいもあって、もともと酒もバクチもやらないあいつとの付き合いは少しずつ疎遠になっていった。2年ぐらい後、これは本当の大作である蔵原惟繕監督の『陽は沈み陽は昇る』の中近東長期ロケに、あいつが通 訳スタント兼任の便利なスタッフとして参加していた頃も、俺はロマンポルノの現場で怠け者の助監督だった。主役の吹き替えスタントで腰を痛めて帰ったあいつのオミヤゲはインドで買ったという変てこなタバコとパイプだった。ミヤゲは嬉しかったくせに、それから半年以上もあいつが入院していた甲府のリハビリテーションセンターにとうとう俺は横着して見舞いに行かなかった。あいつの最大の不幸の一つは、おそらく人が良すぎるという事だったろう。人が良すぎる献身的な奴は何故かまわりから軽んじられる。6年ほどの付き合いの中で俺はあいつが怒ったのをたった一回しか見た事がない。前に書いたパンクした映画の撮影中のことだ。前野が無償で借りてくれたあいつの実家の営業用ワゴンに乗って数人のスタッフと中野あたりの混雑した道を次のロケ現場に急いでいた。撮影はトラブル続きでうまくいかず、みんな苛立っていたのだと思う。スタッフの1人が運転する前野に「その交差点右、右だよバカ、バカだなあオマエは」と言った。
俺も言葉使いが悪くて接頭語、接尾語のように人のことをバカバカ言うのだが、もとより深い意味があってのことではない。その時バカと言ったスタッフにしても悪意があって言ったワケではないのだ。突然前野は眼を吊り上げ顔を真っ赤にして怒りはじめた。「馬鹿かよお、ええ、この俺が馬鹿かよお!」俺は驚いた。普段「そうです俺は馬鹿なのです」といわんばかりの与太郎顔でニヘラニヘラ笑っている前野がその程度の事で怒るなんて思ってもいなかったのだ。「バカ」と言ったスタッフに「ゴメン」と言わせてその場はおさまったが、青ざめた顔で黙々と運転する前野の横顔を見ながら、俺ははじめてこのお人よしの鬱屈した自意識に触れたような気がしていた。「ああこいつも俺なんかと同じなんだ、上手に生きる生き方がわからなくてウロウロしてるんだ」と。あれから5年、あいつの自意識の中でいったいどんな欲望がふくらみ、萎み、そして弾けたのだろう。ネズミ講のような怪しげな商売をしていたかと思うと、いつの間にかパイロットの免許を取って「一緒に飛ぼうよゴジちゃん、最高だぜ」と誘ったり、あいつの「生きがい」を求めての試行錯誤はあくまでも行動的だった。元日活企画部の南原幹雄氏の小説によれば、前野は児玉 誉士夫の自伝『悪政、銃声、乱世』を映画化する企画を本気で進めていたという。それがあいつの発見した「生きがい」だったとすれば、日本中をあげての痴呆的な児玉 攻撃の渦の中で、あいつの偶像は落ち、「生きがい」の喪失は「死にがい」の模索に短絡したのだろう。前野は「死にがい」を発見したのだ。児玉 との無理心中という形で。右でも左でもないあいつは、決して靖国神社に祀られることなどない最後の特攻隊員として特攻し黒こげに炎上して死んだ。今あいつはあいつが夢想したように“ヒーロー”たり得ているだろうか。答えはおそらく否だ。ピエロを自覚しない気狂いピエロとして、遅れて到着した月光仮面 としてあいつは果てた。ではピエロはやはりヒーローたり得ないのだろうか。俺にはよくわからない。あいつの行為の意味については色々な人が色々なことを言っている。本誌先月号の菅原文太氏の一文などは、“筋金入りの怠け者”から見たある若者の死に対しての洞察として非常に的確なものだと思うが、俺自身の正直な気持はどうしてももっと感傷的なものになってしまう。仲間に置いてけぼりを食ったような妙な寂しさを禁じ得ないのだ。「一緒に突っこもうよ、ゴジちゃん」誘われれば、悲鳴をあげて逃げまわったに違いないくせに。しかし前野よ、どうせ突っ込むんなら児玉 なんてケチな事を言わないで皇居に棲んでいるあの顔面神経痛のジイサンの上に突っ込めば良かったんだよ。そうさ「天皇陛下万歳!」と叫んで。いやいや、それもまた道化芝居にすぎないだろうか。

 

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