長谷川和彦×斉藤久志『助監督経験の意義』(2)



斉藤●屈辱感を味あわないと相手を叱れないという気分はわかるんですが、今、ゴジさんが言ったことと、僕の考えは真逆にあります。つまり、8ミリでは監督が神だったのに、プロになったらそうではなくなったという気分の方が強いんです。
 プロのスタッフとやると、それぞれの自意識が存在するじゃないですか。で、それぞれの職能の意味もありますし。そのことが単純に8ミリやってた時の気分からすると、自分の映画が侵食されていく気がしてくるんですね。8ミリではフレームを管理したり、俳優の立ち位 置を決めたりするのも全て監督だった。監督が全部決めてスタートしてたのが、キャメラマンが俳優の立ち位 置を指示するみたいなことでさえ、何か自分の映画じゃなくなっていく感じがしたんです。
 8ミリ兄ちゃんが、初めて他人の金で映画を撮った時の挫折感って、だいたいこれだと思うんです。大げさに言うとスタッフがすべて敵に見える感じなんです。本当は、映画にとってプラスになることをやってくれたり、言ってくれたんだって今はわかりますが、そのことは何本か撮っていくうちに学んだ部分で、助監督をやっていればその段階でわかってたんだと思うんです。王様的なこととは真逆の気分で、「カチンコの恥」の必要性を非常に感じたんですよね。

長谷川●「カチンコの恥」というたとえで俺が言うのは、現場でタコやっても大抵のことはごまかせるんだけど、カチンコだけはそうはいかないってことなんだ。
 カチンコといってもシンクロ撮影のカチンコ叩いてなきゃ駄目。日活もロマンポルノになってから全部アフレコになったんだよね。アフレコ撮影のカチンコは「恥」なんかかかないからね。現場のどっかで音がしてればいいんだから、「ヨーイ、はい、カチン」がどこで鳴ってもいい。ボールドだけ別 にナンバー入れるわけだから。
 シンクロ撮影の時は、少なくても30人から40人はいる全スタッフが、ある瞬間、カチンコに神経を集中するわけじゃないか。カチンコには「映像と音をシンクロさせる」という機能性はもちろんあるが、特に日本映画の場合は、ある種の「儀式」の意味が大きいと思う。儀式を自分の具体的なカチンという行為で進めるわけで、緊張するよ誰でも。アメリカはひどいからね。監督が「キャメラ」っていったら、撮影部がカメラをまわして「ローリング」って答える。すると助監督がカメラ前にゆっくり出てきて、こんなでかいボールドをカチンと叩いて引っ込んで、再び監督が「アクション」って言うまでに大体30秒はかかるもんな。俺ら、「3コマで打て」って言われてたもん。打てるわけないだろう(笑)。ま、「フィルム代倹約」という実に日本的な「貧困ゆえの儀式」には違いないんだが。
 その儀式に参加して、俺も泣きこそせんかったが、泣きたい気分は味わったね。例えば、アップなのに俺がカチンコの粉を吹かずに打ったことがあった。いざ俳優が台詞を言う時に、その目の前でチョークの粉が舞っとるわけだよ。「勘弁してよ、助監督さん」って高橋英樹に言われたな。「どうした、今村プロ、カチンコぐらいしっかり打て!」なんて、照明のおっさんに怒鳴られたりさ。どうもスミマセンって、書き直してまたやるんだが、今度はナンバーを書き間違えたりする。それと「ナンバー、送りね」ってスクリプターに言われるんだけど、「送り」って用語がわかんないとかね。
 ふれこみだけは、助監督歴3年みたいにして来てるんだが、実は俺、今村プロではカチンコ叩いたことがなかった。『神々の深き欲望』(68)では土方の弁当運びだし、『にっぽん戦後史・マダムおんぼろの生活』(70)はドキュメンタリーだったから。ドキュメンタリーでも、たまにインタビューの時には打ったりするんだが、劇映画の現場みたいに頻繁にではない。だから、カチンコなんかとっくに卒業したんだというツラをしながら、実は震えとった。カチンコやらされたらどうしようって(笑)。

斎藤●「カチンコの恥」というのは、純粋にカチンコの恥なんですか?それとも、助監督として、美術パートや衣装さんとコミュニケーションを成立させていくことが映画を作るうえで重要だということも「カチンコの恥」という言葉に込めているのですか?

長谷川●もちろん両方の意味だけど、でも「カチンコの恥」を乗り越えてれば「コミュニケーション」なんか、とっくに成立してるよ。助監督って仕事の大半は、いわゆる「技術」じゃないだろう?カチンコだけは実に具体的な「技術」であり「職能」なんだよ。上手なほどいいわけだ。確かに、カチンコがタコで、盛り上がってた芝居がパーになることはあるわけ。打って隠れようとしたら、テーブルひっくり返してパーとかね。俺みたいな図体でかいのは不利なんだ。隠れる場所が、大体苦しいわけだから。でも、照明部とか小道具とかの兄ちゃんが出てきて、「教えてやるよ、ホラ」とか言って教えてくれる。日活撮影所なんか、小道具ったって20年もやってる人がゴロゴロいるから、実に上手かったりするわけだ。
 そうやって教わってるうちに、職能者同士としての認め合いができるんだ。「ゴジも家で練習してたらしい。だいぶ、打てるようになったよな」と言われると、素直に嬉しい。オーバーに言えば、自分も活動屋の端くれになれるってことは、俺のやった映画修行の中では凄く大事だった。
 簡単に言えば「カチンコも打てないのに、映画の中味について意見は言えない」みたいなさ。多少打てるようになると、監督やスタッフが相談してる時に、自分も意見言って参加することが少しはできる。俺だって、最初から馬鹿デカイ態度の助監督だったわけじゃないんだよ(笑)。
 でも、俺は結果ラッキーだったんだ。カチンコ1本しか叩いてないしね。小1年の間に、サード、セカンド、チーフとやって、4本目には「幻のピンク映画」監督しちゃったから。割とクィックにそのステップを踏んだんだ。今、お前が言った、衣裳だとかスケジュールだとかは、1年の間に一応やらされたから。で、コレはやればやれるわけだよ。そんな難しいことじゃない。日常生活、社会生活の延長だからね。実は、カチンコのような、ある種の技能を必要とするもんの方が難しいし大事なんだと思う。
 もちろん、「カチンコが上手い」からって立派な監督にはならんだろうが、「カチンコの恥」を乗り越えて監督になったヤツは、最低限「タフ」だとは思う……思いたいね。

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