【シンポジウム採録】

「カチンコの恥をかいたことのない奴を信用しない」
助監督経験の意義

長谷川和彦●映画監督×斎藤久志●映画監督

2000年2月25日 「東京国際フォーラム・PFFシアター/2 月 斎藤久志監督映画講座〜助監督経験の意義〜」より(構成:編集部)


『映画芸術』 2000年冬号 p.140~149


斎藤●僕は1985年に『うしろあたま』でPFF'85に入選したのですが、その入選が決まるか決まらないかという時に審査員だったゴジ(長谷川)さんから直接自宅に電話を頂いて「助監督をやる気があるか」と聞かれたんです。それは願ってもないことだったので、「やります」と言って、「連合赤軍」の脚本作りに助監督の立場で参加しました。
  当時はまだディレクターズ・カンパニーがあり、現場もやらずに、不遜にもディレカンから半年くらいは給料までもらってました。ゴジさんは、脚本作りでは僕みたいな人間も対等に扱ってくれて、意見を言わせてもらったり、かなり贅沢な経験をさせてもらいました。だから本当の意味での助監督ではなかったんです。
  僕は『フレンチドレッシング』(97)で劇場デビューしましたが、結局、助監督の経験はないんです。「カチンコの恥をかいたことのない奴を信用しない」と、僕はゴジ(長谷川)さんに最初に言われ、怖いながらも経験しとくものだろうと思っていたんですが、幸か不幸か、僕がついてから十数年、ゴジさんは映画を撮らなかった……。
 例えば、僕の翌年に同じようにPFFで入選した成島出が、やはりゴジさんについてたんですが、彼はその時、上についていた先輩助監督のつてで、助監督を経ていったんですよね。彼がそういくならば、僕は反作用的に8ミリでもいいから撮り続けてやるという気分になったのもあったのですが。だけど、いざ監督として現場を経験した時に、やっぱり8ミリ兄ちゃんの脆弱さを少なからず実感したんです。助監督、つまりゴジさんの言う「カチンコ」をやらずに来た悔しさもありますから、自分への戒めとして、今、ゴジさんが撮るならば、カチンコ叩きたいと本当に思っていて、その気持ちも込めて、今日はゴジさんに来ていただきました。
 で、早速「カチンコの恥をかいたことのない奴を信用しない」という発言について、聞きたいんですが。

長谷川●今日来てる人の中にも、自主映画をやってる人はかなりいるんだろうが、俺が学生の頃は、自主映画って今のようにポピュラーなものじゃなかった。はっきり言えば、金持ちのボンボンのお遊びである、と。こっちはメシを食うだけで目一杯なのに何を8ミリなんかやってやがる(笑)と、嫉妬と軽蔑と劣等感みたいなものが、ないまぜにあった。そういう人達が作る大学映研の映画はたまに覗いてみたけど、俺には難しくて全然わからないんだ。全く自分に入ってこない。それで映画の勉強とか、映画のサークル的なことも何もせずに、麻雀とアメラグばかりやってたんだけど……。
  俺が大学3年になった頃には、いわゆる映画5社はどこも助監督を募集してなかった。映画やりたくても、自主映画もやらない、映画会社も駄 目じゃ、やりようがないよな。それで、シナリオ研究所という若手の中堅監督が数人、ゼミを開いてるところに行ってみた。浦山桐郎、篠田正浩、吉田喜重、熊井啓さんもいたかな。その中で、浦山桐郎っていうおっさんが一番呑んべぇで、面 白そうだった。そこが、俺にとっては、映画を実際にやる人との最初の接点になったわけだよね。とは言っても、浦山さんも仕事してないし、助監督にすぐなるというわけにはいかなくて、大学4年か5年のときには、仕方ないからテレビ局でも行くかと思ってた。受けたら落ちたに決まってるけどね(笑)。
 それが、ある日突然、浦さんが電話で「今日1時から幡ヶ谷の公民館で今村プロの助監督試験があるから受けに行け」って教えてくれてね。「いや、しかし、まだ、卒業してないし」とか「今年、フットボールでキャプテンで」とか、うじゃうじゃ言ってたら、「君、そんなことは、試験受かってから考えたらどうかね」と言われて受けに行った。結果 、「体力だけはあるだろう」で採用されたんだね。それで映画世界で生きることが始まるわけで。そういうベースがあるもんだから、自主映画、8ミリ映画には根本的な違和感があった。
 30でデビューした頃に、8ミリ兄ちゃん達の作品を見て、ゴジと学生監督がしゃべるという雑誌の企画があったんだが、その時に7、8本見た中で、2本だけ面 白くてね。1本は、石井聰亙の『高校大パニック』で、1本が黒沢清のドラキュラがどうとかいう、何かわけのわからんもの。その2本が面 白くて、対談の席で「君らはこれから、どうすんの」って聞くと、石井は「僕も1本撮ったからには監督ですから、長谷川監督に負けないように頑張ります」と言うんだな。これはこれで、明解だ。黒沢清は、昔からそうなんだが、自信のなさそうなおどおどして、でも実はやたら落ちついてる感じで、「現場があるんでしたら、僕は現場の勉強がしたいです」と言ってた。それで、その頃準備してた『太陽を盗んだ男』(79)で、製作の一番下で弁当運びでもやるかって誘った。俺自身も助監督試験受けて今村プロ入った割には、最初の1本は製作やらされて、何でもやらなイカンから、助監督だけやるよりも数等勉強になったしね。そう思って黒沢も1番しんどい製作の下に付けてみたんだけど。
 
脚本を書く時は、キャッチボールがわりに側に人を置いて書くのが、俺は楽なタイプの監督なんだよね。その時は、チーフ助監督の相米慎二と、他は全部とばして黒沢の二人を側に置いて書いた。相米はホンヤとしては全く役にたたない奴で、学生運動上がりのせいか論文ばっかり書くんだな。一方、黒沢はやたらディテールばっかり書くんだ。その両方置いとくと、なかなか都合が良かった。黒沢のディテールも大半は使えないんだが、1個だけ使った。沢田が、池上季実子に尾けられている時に、突然、ビルの側面 を押さえる芝居をする。あれは、マルクス兄弟らしいんだが、別に誰もそう思わんだろうし、変な思いつきだから使ってみた。そういう多少照れくさそうに、だけどしっかり文字にして提案するみたいなことは、俺のように普通 に助監督やってきた人間にはなかなか無かった。もうちょっと、職能者として現場でうろうろしてたわけで。
 そういう黒沢との付き合いもあったから、自主映画上がりのお兄ちゃんて、自分が思ってるほど役立たずじゃないんだと思い始めた。それでも、素人のアマちゃんという思いは強かったけどね。 わかりやすい話で言えば、村上龍。彼が「限りなく透明に近いブルー」でデビューしたのと『青春の殺人者』(76)が同じ年だったから、雑誌の対談で知り合った。龍は当時から映画やりたがってて、俺は「それならお前、1本や2本、助監督やったほうが、絶対にいいよ」って。「監督というのは現場で独裁者でなきゃ駄 目なんだ。それには助監督でひどい目にあったり、ある種の屈辱を感じる経験をしといたほうがいいぞ」って忠告したんだ。「他業種の人間が、他業種で得た力でもって、監督をポンとやったりする時は、特に悪い意味で舞い上がる」とも言った。スタッフはどんな馬鹿な監督が来ても、その監督を絶対扱いしてくれるから、大抵の奴は勘違いして、自分が偉いんじゃないかと思ってしまう。そう思って作った映画は大抵、タコでね(笑)。アイツほどいろんな才能があってやれる人間が、なぜタコ映画しか撮れんのか。原点で俺の映画が入るのを待ちきれずに、自分で『限りなく透明に近いブルー』(79)を撮っちゃったからな。その次にヤツが『だいじょうぶ、マイフレンド』(83)という映画を撮ってる頃、撮影所で久しぶりに会って話すと、「毎日が楽しくて仕方がない」って言うんだよ。俺の経験では、撮影中は苦しいばっかりだった。もっとこうしたい、ああしたいと思いながらも、結論出してOK出して前に進んでいくしかない。楽しいわけないんだよ。9.5苦しくて0.5ちょっと楽しいことがあって前に転がるぐらいが、自分の実感だったから。龍が「楽しくってたまらないっすよ」なんて言ってるんで、コイツ、ろくな映画作らないんじゃないかと思ってたら、案の定……。村上龍という人間がせっかく持っている能力が、キッチリ出きらない体質/状況になっちゃうんだろう、村上組という撮影現場自体がね……。
 それと、面白い奴を助監督にしてそいつから吸収したいということが、俺にはあるんだ、きっと。今はゼロでも俺がゼロだった時よりは、こいつら作家だからなあ、という思いが自主映画の人に対してある。だから、嫉妬と羨望と劣等感も含めて、見上げる気分は今でもあるよ。斎藤に電話した時だって、そういう気はあった。既に作家なんだから、よりタメで付き合えるという感じだね。 ただ職能助監督をやってるだけの奴は駄目なんだ。マネージャーみたいな根性の奴いるよ。アメリカ映画なんか大半がそうで、夏はカウボーイやって、冬はハリウッド来て助監督という「職業」をするわけだよな。別 に監督になる気もないわけだ。そこまで極端じゃないだろうが、日本にもいるんだ、そういう悪い意味で無欲な助監督。作家予備軍的な気分がないまま職能やってる奴はいらないって昔から言ってた。

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