INTERVIEW 長谷川和彦

『死に顔を見ていないから、
パキさんも孟さんもオヒゲも
まだ、生きてるんだ』

聞き手/荒井晴彦

『映画芸術』 1998年春号 p.128~140


「嫌な奴」の助監督になって

荒井 ゴジとパキさんの出会いってどうだったの?

長谷川 知り合う前の印象というか先入観は、俺、非常に悪かったんだよ。俺は浦さん(浦山桐郎)との付き合いがスタートじゃない。シナリオ研究所で浦さんのゼミとったのが映画との最初の接点だから。その縁で今村プロにも入ったんだし。その浦さんがボロクソにけなすのを聞いてたから。68年かなあ、日活で4人の若手監督(浦山、斎藤光正、河辺和夫、藤田)によるドキュメンタリーをやってて、浦さんと光正さんは「方針違う、わしらはやめる」とゴネて降りた頃だ。結局、藤田・河辺監督で映画は完成したんだけど、その経緯を浦さんが憎憎しげに言うんだ。「あいつら『にっぽん零年』というタイトルにしたらしいぜー。ケッケッケ、やだねー。キザだねぇ。まあ、パキらしいじゃねえか」って。「パキ」というのは「パキスタンの皇太子に似てる」とこから付いたあだ名らしいんだが。要は、軟弱なキザ男であるという誹謗をしまくってたんだ。面 識もない俺は素直に「そりゃ嫌なヤツに違いない」とインプットしたんだね(笑)。
 その後、俺は、今村プロでは食えんからダイニチ末期の日活に行って、1本時代劇の助監督が終わって「何でもいいから、また仕事をさせてくれ」と先輩助監督たちに頼んでた。すると「お前、パキさんについてみるか」って岡田(裕)、伊地智(啓)さんあたりが言うんだ。「ん、パキさんて、あれか。浦さんが馬鹿にしてたあの東大の仏文か?」という思いはあったんだが「まあ、何でもいいや、贅沢言ってらんねえ。ガキも生まれちゃったんだし」と、サード助監督でついたのが『野良猫ロック暴走集団'71』だった。ついてみたら、うーんノノなんか、思ってたより鈍臭い人でね。決してキザで嫌なヤツではなかった。ともかく言語不明瞭で、何言うとるか、よく分からんのだよ(笑)。
 俺は今村プロに3、4年いて、今平さんだけがカリスマの世界にいたから、監督っていうと全てそれはイマヘイのことでさ。それが撮影所へ行ったら、何だ、監督なんて何十人もいるじゃないか。それが俺には1番解放感があったな。なんかホッとしたよ。その上ほとんど言語障害的な藤田パキ監督だろう?今平が監督なら、このオッサンは何なんだろうって。いや、訥弁なりの愛嬌は十分あるんだが、なーに考えてんのかよく分からんし、なんも考えてねえんじゃねえか、こいつ、みたいな感じもあってさ。
 初めてパキさんと仕事して、何が1番面白かったかっていうとね、この映画をどうしようという意見がさ、通 るんだよ。要するに「ホン直しをしながら映画を作るんだ」という雰囲気が現場全体にあるんだ。これは新鮮だった。俺みたいなペーペーの助監も役者もどんどん意見を言うんだ。地方ロケやってると、パキさんが酔っ払って寝た後も、(原田)芳雄だ(梶)芽衣子だ誰かの部屋で夜中まで飲んだくれて、「じゃあ、明日のシーンはこうするか」みたいなさ、監督いねえところで、勝手に決めるんだよ。で、翌日「パキさん、今日のとこ、こうなってるから」って言うと「ど、ど、どうなってんだ」とちょっと慌てたりするけど、怒らずに聞いてくれるんだ。こっちも作家性で言ってるわけじゃないから、意地張ることもない。要するに、取込むか取込まんかはパキさんの自由だし、取込まれれば「ほらな、面 白れぇだろう」というふうに楽しいしさ。
 日活系の監督の現場って、今平さんでも、それが無かったわけじゃない。ただ、監督の質が違うから、取り込みの方法論が違うだけで。「どんなペーペーのスタッフでも意見は言って智恵は出せ」という空気は、他の撮影所よりも強かったんじゃないかな。日活ロマンポルノも含めて、その後新人がぼろぼろ出たのは、その伝統があるからだよ。助監督の時から「自分も作り手の1人なんだ」っていう自意識は自然に植えつけられる撮影所だったと思う。パキさんの場合は特に、言語不明瞭な分、まわりで翻訳したり、彼が悩んでることを形にして、スタッフに伝えていかないと、前へ進まないんだよ。だから、俺なんかも作り手サイドにいることが当然のように動けたんだろうな。それはやっぱり楽しいやな。ともかくパキ組ちゅうのは、最初からたいして期待もしてなかった分、意外な喜びがあったね。だからその後何本もつくようになったんだな。

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