'77が俺たちの年であるために』(2)



監督はフリー化されているか

藤田 日本映画独特のシステムだろうね、やっぱり。

長谷川 うん。システムの問題だよ。映画の場合、監督は即企画プロデューサーでなければ仕方ないと思う。プログラム・ピクチャーが商売になった時代は、ともかく終ったわけだ。そうすると、監督が同時に企画プロデューサーでなきゃならないわけだけど、企業というのはそれを許さない。企画があって、ホンがあって、それで監督が決まって撮らされるというのは、完全に日本のプロ野球でしかないわけだよ。堀内は肩が治ったらしいから投げさせてみろ、ということにしか過ぎない。それだと、やっぱり頑張れる限界があるですよ。グランドを作るという作業から始めた場合、それをやめたら意味がなくなるから、一応頑張れる。俺は今回一本目ということで、これを撮らなきゃ、十年間何をやってきたんだということがあったから、頑張ってみたけど、それだけじゃ持続しないからね。今日はパキさんとの対談だから、一つだけ偉そうなことを言おうと思って来たんだけど、いま企業内で“中堅”といわれている監督たちが、一回みんなおん出されたらいいと思うんだ。俺はおん出された既成事実があるから、簡単に言えるんだけどね。そうすると中堅がいなくなるから、ローテーションを埋めるために新人がでますよ。十人出れば、その中に一人ぐらいはおもしろいのがいるよ。例えばパキさんにしても、クマ(神代辰巳)さんにしても、サク(深作欣二)さんにしても。この何年かのエースである人たちが、やりたいものだけをいつもやってはいないよね。外へ出たからといって、やりたいものだけやれるわけじゃないにしても、深作欣二が外に出て「仁義なき戦い」を六本も七本もやるとは思わないんだ。やっぱり、映画というのは本来、企業が余剰な金を持っていて、何をかけてもヒットしていて、余剰なものだからそれができたんだけど、いまは逆に企業のほうが制約が大きいからね。

藤田 だけど、いまのゴジの発言は、ごじとも思えないほどの青臭い論理だな。出れば……ということではないわけだよ。企業内でもやり、外でもやればいいわけだから。企業内にいて給料をもらって駄 目になるなら、最初から駄目だということでしかないわけでね。俺が何度か日活を出ようと思ったのは、そういうことではないんだな。つまり、会社の制約がきびしいから出ようということじゃなくて、ある程度自分を追い込もうとする意図操作があってそうするんだから、意味が違うんだ……。

長谷川 青臭いといえば青臭いし、てめえがおん出されたから言えることなんだけどね。俺だって、もう半年だといわれてれば日活で半年待っていたよ。それがなくなったから出たに過ぎないだけで、出たから言えることだというのはある。確かに、いまパキさんが言ったように、企業内にいても外にいても撮る人は撮るんだし、撮れない人は撮れないんだけど、そんなら出たほうが自由だと思うんだな。

藤田 それが違うんだな。自由であるというのは何かということだな、映画製作において。

長谷川 例えば日活にいる限り、投げなきゃいけないグランドが多摩川グランド、後楽園、甲子園とあるんだけど、ホーム・グランドがあるわけだね。そうすると、年に一回ぐらいはそこで投げてみせなきゃいけないわけですよ。年に一回では済まない人のほうが圧倒的に多いわけだ。パキさんだって、また今年一年なんにも撮らなきゃ、野球選手と同じだから、「おたく、やめろ」ということになるですよ、やっぱり。ただ、そのグランドがはたしててめえが投げたいグランドかというのが、当り前のことだけど、常にある。俺がえらそうに言うのは、グランドを作るところからやった方が、仕事はきついけど、たいていあとではおもしろいから。どんなグランドができるか、三角ベースのグランドしかできないかもしれないという、予測できないことはあるよね。そういう意味で、そのほうが楽しいというんだよ。楽しいというか、おもしろいこともあるだろうと思うんだ。例えばポルノという厳然たる、ある制約を持ったグランドがあるわけだな。どんな映画でも制約があるから、それがたまたまポルノであるというだけのことだと言えば、そうだけど、必ずしも自分が取捨選択できる制約ではないからね。日活でも、パキさんだから一年ゴロゴロしていられるわけで、そうはいかないからみんな撮っているわけだ。パキさんを始めとする何人かの中堅になった人は、ゴロゴロしていても作家であり得るけれども、そうじゃないことのほうが普通 だからね。

藤田 それはやっぱり個人特有のものだからね。まあ、「撮れ、撮れ」とせっつかれれば、それなりに焦るだろうけど、撮りたいものは場所がどこであれ撮りたいわけで、そういうのが出てきたときに焦るわけ。僕は生来、怠け者だからね、そういう意味では。

長谷川 しかし、俺もわからないな。日活でつぶされたシャシンがもし撮れていれば、俺だって何を言っているかわからないし。ただ、今回やったような形は経験できなかったわけだ。それは日活作品を監督するという体験ができなかったことと同じなわけだけどね。同時に二つは生きられないから。だから言えることではあると思うけど、俺が基本的に言いたいのは、監督はもっとフリー化したほうがいいということなんだ。未だに、田中登が東映へ行って撮るというのが話題になるのはおかしいという気はあるね。

藤田 だけど、もうフリー化せざるを得ないと思う。その現象は松竹を始めとして出てきてくると思うけどね。まあ。今回、ゴジの場合は結果 的というか、途中でもそうだけど、恵まれたスタートだったよ。それは何かといえば、ゴジの持っているタレント性、スター性だと思うんだな。

長谷川 ウーン、そうかな。

藤田 そうだよ。映画ができる前に一つのパーティーができるというのは、異常なことだからね。(笑)それに負けるかと思ったけど、その重圧を一応はねのけた。その意味で、いまの時点では大型新人といえると思う。非常にいいことだと思うね。

長谷川 いろんな監督と割と深く付き合えたから、そういう意味ではラッキーに映画をやってきた人間かもしれないですね。

藤田 映画界特有の人間関係、ゴジの場合だと川島雄三、今村昌平、浦山桐郎と続く人間関係を非常にうまく利用しただけだと思うな。(笑)

長谷川 そうかなあ、利用した気はないんだがな。

藤田 いや、無意識にだよ。

 

二十代と三十代

長谷川 正直言って三十で若いなんて言われるとは思ってなかったからね。二十代なら、ヒョッとしたらそれだけで書いてくれるかもしれないというのはあった。何しろ宣伝費がないんだから、それで少しは商売になるだろうというのはあったよ。今年は二十代の新人が企業の端っこみたいなところで出たらしいと。そういう楽観もあったけど、三十男が若いと書かれるとは思わなかった。

藤田 恥ずかしいことないかね、三十男が若いと言われるのは。(笑)

長谷川 というより、腹が立ったね。「こいつらおちょくっているのか」という感じはしたよ、そういうことを記事にするところが幾つかあったから。

藤田 現実にそういう事態があるわけだからね、アングラは別 として。

長谷川 その記事にしたって、作品の紹介はしないで、三十の監督ということだけでしょう。もし二十九歳で書かれたら、気持が落ち着かなかったろうと思うけど、図々しさがつくものね、やっぱり。たかだか一日の違いで二十九から三十の人間になるわけだけど、「なに言ってやがる」という気にはなれるからね。もちろん俺は自分で若いと思ってるけど、単純に年齢が三十だから若いと書かれることと、俺が若いとい思っている思い方と違うんだな。実際、三十という年齢は、俺はもう若くはないと思ってる。要は精神年齢の問題であったりするわけでね。

藤田 ゴジの場合は、三十でも知り過ぎているんだな、いろんな経験をして。だから、新人という感じではないんだよ。

長谷川 おそらk,現在三十歳で企業が育てた監督はいないですよ。日活が助監督とるのを再開したのは、もうちょいあとだし。。要はいないんだから、出れば珍しいということはあるわな。百人の中から一人出てきたという感じじゃないわけだから。

藤田 若さ、若さということで売られると多少こちらも反発するわけでね。やっぱり、ゴジは三十にしては老けているよ。俺は四十五にしては若いと思っているけど。

長谷川 俺は三十にしては若いと思っているけどね。それはパキさんが四十五になるからそう思うんですよ。

藤田 いや、シャシンを見て言ってるわけだ。

長谷川 あっ、シャシンのことか。

藤田 そうだよ。シャシンしかないわけだから。精神年齢はだいたい同じぐらいだと思っているね。(笑)

長谷川 それじゃあ二十二か。(笑)俺は日活がいまでもいい会社だと思うのは、監督を含めたスタッフの精神年齢が低いですよ。

藤田 撮影所自体に活気があるから、みんな年をとらないんだな。でも若さということでいえば、俺なんかとゴジが全く違うところは、二十代で監督するということにすごく固執しているということだな。もちろん、時代が違うということもあるけれど。俺なんかいつ映画をやめようかと思ってた時代があったから、何が何でもという気はなくて、フイッと転がり込んだチャンスに、ヒョイと出たわけでしょ。

長谷川 やめて、何かやろうという気はあったわけですか。

藤田 そうでもないんだけど、十二年、撮れそうなにおいがまったくないまま来ているわけだから。最初の三十二,三年の時期に蔵原(惟糸善)さんとかイマヘイさんが出たあと、浦山(桐郎)さんの時代になって、そのあとがプッツリ切れているし、上に助監督がいっぱいひしめいていた。

長谷川 パキさんなんかはどうだったか知らないけれども、俺はせからしいのかな。日活は映画でいえば大企業だね、一応。そういうところにいたことがないから、やっぱり気持がせからしくなるわけですよ。撮ろう、撮ろうと思っていないと……。思ってたって、ほとんど撮れないわけだから。だから三,四年も助監督をやれば、誰だって監督してみればいいんだというのは、絶対正論には違いないんで、二十代ということにこだわっていたんじゃなくて、トウが立つのはいやだと思っていたんだね。まだよくわからないうちに映画を撮らないと、自分で修正したり、批判したりする目があんまりついちゃうと、ばからしくて撮れないから。こうやれば、こう言うだろうとか、こう思うだろうとか、こういう反応をするだろうとか、テクニックをいろいろ覚えちゃうと、おもしろくないですよ。動かし方を覚え過ぎたおもちゃみたいなもので。どのネジを巻いたら、どっちを向いて走るのかわからないほうがおもしろいんでね。それと、三十代というのは実感がなかったわけですよ。僕が映画を始めたのは二十二歳の時で、年だけは早かったでしょだから、どう間違っても三十までには撮れるだろうと思ってた。また、三十ぐらいまでには撮らなきゃ何のために乞食しているかわからないというのがあったしね。「監督して何ぼのものだ」という気が、やっぱりあるじゃないですか。ただ五年ぐらい過ぎると、ぐうたら助監督でいばっていたほうが楽しかったりするんだな。最終的に責任ないしね。日活みたいな、いろんな意味で温かいところにいると、気持いいんですよ。でも、いわゆる才能うんぬ んじゃなくて、一回も自分の責任でオモチャを走らせたことがないと、やっぱりつまらないでしょう。だから、三十になったときはかなりショックだった。それは映画を撮る、撮らないということじゃなくてね。パキさんでも、今度五十になると、ちょっとショックじゃないかな。(笑)

藤田 助監督と監督とは、まったく違う商売だからね。一本でもやりかけたら、やっぱり足を洗えない、みたいなことろがある。僕も半分やめるつもりが、一本やったから、この商売に入ったわけだ。ゴジの場合は、ピンク映画でその間に一本やっているわけよ。やりかけて破綻したにしてもそのおもしろさというのは、実感としてかなり強く残ったと思うだ。それがだめになって、出戻りで助監督をやっているうちに、年齢がだんだん三十に近くなってきた。そのへんが、特別 だろうと思うんだ、三十代と二十代という年代をかなり意識したというのは。あんなに意識せんでもいいだろうと、こっちが見ていて思ったけどね。(笑)

長谷川 やっぱり、すごいくやしかったからね。二十五で監督になっていいと思っていたし、なるべきだと思っていたから。助監督を始めて、ちょうど三年目ですよ。それまでに映画は四本くらいしかやっていない。イマヘイさんのを二本やるだけで、二年かかっているからね。そのあとパキさんの一本と小沢さんのを一本、東宝の下請の「おくさまは十八才」というのに一本ついただけで、知らんといえば、こんなに知らんやつはいないわけだ。実際は三年でも、その間に五本しかやってないわけだから。いま思えば、ままごとみたいなことをあっていたわけだけれども、当り前のことだけどあの時でなければ撮れなかったものは、、もう撮れないわけだ。パイオニアになろうとか、そういうんじゃなくて、生活的に贅沢じゃなくてもいいから、生き方はわがまましていたいというのがあるから。やってみてつまらなかったら、別 なおもしろいことを探したいというのがあるんだな、やっぱり。これは女みたいなものでさ、やってみないとわからないんだけど、いつまでもやらしてくれないから、意地になってやろうとする。今度の映画なんか、普通 だったら壊れるような危機が五回はあって、俺はあんまり頑張り屋じゃないんだけど、珍しく頑張ったですよ。これを流したら、一回もセックスしたことがないまま終るという感じがしたからね。

藤田 そのへんがゴジのゴジらしいところだな。

製作システムを変えたい

長谷川 そういわれればそうかも知れない。それともうひとつ、一本撮って感じたんだけれど、製作会社と配給会社が同一なのは、おかしいと思うんだ。配給会社があれば、製作会社は別 になくてもいいんですよ。配給はマーケットだからおそらく今の形態はくずれずにたいてい会社になっちゃうでしょう。そうすると製作会社というのは、一人の個人がいれば良かったり、一つの組があれば良かったりするわけじゃない、その都度。そうなっていくことが当り前だとは思うね。製作は作家集団の形をとることもあるだろうし、プロデューサー集団の形をとるときもあるだろうし、作家個人であるときもあるだろうけどね。それでもマーケットは残るんだから、ブロック・ブッキングは持続していけるわけですよ。配給体制まで完全につぶしたら、映画がなくなるからね。アメリカ映画がおもしろくなったのは、撮っている人間が個人に近い人間になったからだと思うんだな。

藤田 監督とプロデューサーだね。

長谷川 うん、最終的に撮っているのは監督であるわけだし、監督とプロデューサーがまず、いなきゃならないわけだ。それが製作と配給が一緒だと、あてがいぶちのローテーションでやらざるを得ないし、その弊害が一番出やすいわけだな。東宝と松竹は別 にして、東映は田中登を呼んで撮らせたけれど、日活はサクさんを呼んで撮らせたかというと、それはない。そういう流動性はこの二社に関してはないですね。考えてみれば、アホウのようなことだと思うわけだ。ある企画によっては、東映が漏っている配給のマーケットのほうが強い場合があるよね。ないしは、日活が漏っている配給のマーケットのほうが強い場合もあるわけですよ。必ずしも、その会社の肌合に合った人だけがその会社で監督をやっているわけじゃないと思うし、会社にしても、東映はヤクザ映画から実録、そして「トラック野郎」に変わり日活も小百合からポルノに変わっているんだから。そういう意味で配給会社が製作会社を兼ねているというのは、もう俺は持続しないと思うよ。短絡化もしれないけれど、一線の監督が皆「やーめた」といってフリーになれば、何かが変わってくるという気がするんだね。たわごとに過ぎないといわれればそれまでだけど。

藤田 ゴジのいっていることは真理かもしれないけど、遠大だな。(笑)会社をつぶそうということでなけりゃ、意味ないわけでしょ、それは。

長谷川 いや、配給会社として残っている限りは、配給でゼニが返ってくるんだから。

藤田 確かにそういう意味では配給会社になればいいわけだ。粗なれば、作り手のほうがもっと発言権が大きくなるわけだし……。

長谷川 だから、配給会社しか日本にはなくて、製作するのは個人であったり集団があったりすればいいわけ。アメリカはそれに近くなりかけたわけだけど、日本はトコトン駄 目にならなかったわけですよ。東映にしても日活にしても、製作と配給を兼ねる会社がまだあるんだから。俺のようにそこからおん出された人間には、十年、遅れているという感じはするわけですよ。だって、撮っている人間の八割ぐらいは不満に思いながら撮っていたんじゃ、やっぱりつまらないでしょう。とはいうものの、俺なんかと違ってパキさんにしてもクマさんにしても、日活という会社のぐうたらな長兄というか、次兄みたいなところがあって、四十五になって家出はしないわけだよね、家に対する責任があるからね。二十年ないし二十五年そこで生きてきているわけで、俺なんかたかだか五,六年、日活の臨時雇いでやってて言う実感とは違うというのは、もちろんわかるんだけどね。日活が「ふざけるな」というだろうけれども、日活でいま撮らないか、といったら、俺はすぐにでもとりたい。ただ、ああいうふうになっている限り、絶対に撮らさないですよ、僕には。だって、あれだけアナーキーに見えても日活ぐらい外部の監督を入れない会社はないからね。山本薩夫さんは別 だけど。(笑)

藤田 そうでもないんだけどね。河辺和男は、日活で撮ろうと思えば撮れたわけだから。

長谷川 しかし、結局、事実問題としては撮らなかったわけでしょ?

藤田 それは本人の問題だからね。そう決めつけることではないんだよ。それとさっきゴジがいったアメリカ映画についてなんだけれども、企画が企業にけられても、それでもなおかつ、やりたいということだけでやったシャシンが当たったということが、やっぱりすばらしいよね。キネ旬のベスト・テンに入った「タクシー・ドライバー」にしても「カッコーの巣の上で」にしても、企業に提出した企画がそのままスーと通 ったとは思えない作品だし。それがいまの日本映画のシステムの中でできるかといったら。やっぱりできないですよ。

長谷川 一番大きいのは、マーケットが狭いということじゃないかな。向こうは、一本当てたら、次の製作費ぐらい簡単に出るわけでしょう。監督に著作権がないというか、パーセンテージの契約になってないというの、どだいおかしなことだよね。パキさんの「八月の濡れた砂」でも封切りの打ちこみは五人だった。もう屁のようなもので、僕は助監督をやっていたんだけど、あのときはくやしいというより、来るときが来たという感じがあったよ。「さようなら、さようなら」という感じだった。かといって、どうしようという展望もなかったわけだけどね。長い目でみれば、あのシャシンはすごい稼いでるんだけど、いくらあのシャシンが稼ごうが、藤田敏八が映画を一本つくるだけの金も、彼には入ってこないんだな。そうなるとべつに真面 目に映画をつくらなくてもいいわけで、「映画やめた」といって。家建てて、馬を飼って遊んでてもいいんだけどね。要するに、映画というのはオモチャなんだから、そのオモチャの鶏が卵を生んじゃった、というようなおもしろさがなければいけないんだけれども、それがないわけですよ、今の日本映画には。

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