対談 長谷川和彦VS相米慎二

東宝映画『翔んだカップル』をめぐる
うるさいおとなたちの映像美学


「月刊シナリオ」1980年8月号 p.8〜17



(1) 新人監督相米慎二―私生活も人生もない人間です。はじめまして。

長谷川 相米(そうまい)さん、いよいよ一本立ちで、これからは俺も前より威張れるな。俺の助監督であったといっても、俺は全然尊敬されてなかったですからね。

相米 そんなことはない。ちゃんと立ててましたよ。今日は僕の映画の為にすみませんね、忙しいところを。

長谷川 本業の方がね。本業は四人でやってるからね(笑)。ところで、幾つになった?

相米 三十二歳ですよ。原作者、ライター、監督が同い年なわけ、こんどの映画は。

長谷川 ああ、子供がたくさん、どうでもいいのがゴロゴロ生まれた年なんだな。戦後ベビーブームの。2個上の俺の年は少ないわけだ、昭和二十年、二十一年っていうのは。俺が三年で五クラスあった時、一年は十二クラスあったからな。緑中学ってな、あの優秀な不良学絞では。拓郎くんが一級下におったな。

相米 ゴジ(長谷川氏の愛称)との最初というのは、幡ヶ谷ですね。今村プロの時の。

長谷川 そう。俺が二十四か五ぐらいで、幡ヶ谷の火弊場のそばの一軒家……一軒家っても廃屋だけど、それを二万円で今村プロが事務所に借りてた。俺らは住む所ないからそこに管理人夫婦と称して一万円で住み込んだわけ。そしたら、二万五千円の給料から一万円キッチリ引くんだな(笑)。一万五千円で暮らしたわけだ。非道いもんだよ。そこで.ゴロゴロしていた頃に、変なおにいちゃんがいつの間にかときどき来ているわけだよ。あれは、俺の女房の女友達のダメなヒモをしていたわけだな。

相米 ちょうど十年ですよ。

長谷川 そうか。はやいもんだ。俺は二十四歳だったんだな。お前は何かね、何をしとるやつかよく分らんだね。学生か学生くずれか、そんなもんだろう。あの頃から同じような風貌でね、こんなのが、一般 の健全な家庭(笑)に入りこんで来てだね、四畳半の隅の方で、クックックックッ笑いながら酒飲んでる、これは怪奇ものですよ。

相米 順応性があるんですよ、俺は。

長谷川 お前のヒモの才能には一歩を譲るよ。そのうち独力で日活へもぐり込んだんだな。俺は何もしてやっていない。俺がピンクやってる頃はまだ日活へ入ってないな。

相米 ロマンポルノの端境期あたりかな。最初テレビのシリーズものの助監督やらされた。

長谷川 俺はダイニチのケツの方から日活へ先に入ってた。だけどこいつはパカなんだよ。助監督経験ないやつでも三年とかホラふいて八万円貰うわけ。こいつは正直に初めてですって入っちゃって当時最低の四万五千円な。初めてでもいいわけだよ。いえ、いろいろやっていますっていえばむこうはどうせ分りゃしないんだから(笑)。四万五千円で四年ぐらいやったんだろう。しかも月額じゃなくて一本につきだから、ヘタすると二ヶ月で四万五千円ってこともあるわけだ。ロマンポルノはどの組についたんだ?

相米 曽根組とか、神代組とか。

長谷川 あの頃スタートした助監督の中では、めずらしく<カチンコの恥>を知っているよな、相米は。ポルノはオールアフレコだからもうカチンコ誰も打たないわけだし、俺なんかもあんまり打ってないけど。あれ打つと自分は何者でもないということがよく分かる、何もできないんだというくやしさとね。シンクロあがりで恥をかいていない助監督はどっかひよわいね。

相米 このあいだ、評論家の山根貞男さんと話してて、特別 にその話したわけじゃないけど、ゴジが日活辞めた時のことまざまざと思い出してね。

長谷川 神代(くま)さんの『青春の蹉跌』のゼロ号の日だよ。俺がキャンセル喰らったのは、インの一過間前だった。『燃えるナナハン』という仮題だけついてたんだけど、あと一晩徹夜すれば一稿があがるという時でね。パキ(藤田敏八拡督)の『妹』の併映作の予定だった。パアーだよ。単純に組合が俺を嫌忌したんだけどね、あれはやっばりトロだとかマグロだとかいってね。

相米 あの時一番くやしかったな。

長谷川 めずらしくお前が“きれいなビラ作ってやっちゃおうか”って言ってね。嬉しかったね。ただ政治ごっこにしかならんから止そうということになったけど。当然『……ナナハン』やったら助監督に付いてくれることになってたし、俺が二十八歳で撮れば、その半年後にはお前も撮れていただろうし、俺たちはもっと違うシャシンでデビューできてた。それが一番くやしいな。

相米 撮れないよりは撮れてよかったというのが大前提としてあるとして、あの頃、少なくとも五年前の俺らにとっては、やっばりATGよりロマンポルノだったし、東宝映画よりもロマンポルノだったし……。

長谷川 そう。作家が作家であるためにはどうしてもロマンポルノだった。相米にとっても俺にとっても性を赤裸々に描くということで清水の舞台から突き落とされる、それは作家としてのアナーキーな場を作るし、こうあらねばならないという手本があるわけじゃないからめいっぱい自分が問われるわけさ。まあ、俺と柑米は力なくしてその場を追われたわけだ。日活出てATGで『青春の殺人者』を撮ることになって、相米は誘うと二つ返事で来てくれた。これも、嬉しかったね。当時外部の作品に契約のまま一本だけ付くということはよくあった、だけど、ゴジの組に付いたらもう日活には帰さないと、当時はまだ撮影所長は黒澤満氏の時代か、誘ったけどビビッて残ったやつもいるわけだから。

相米 ゴジがというんじゃなくて、居てもしようがないと俺自身が判断したんだ。見当ついてたよ。どうせいても契約助監督は監督になれそうもないって。

長谷川 残ったやつらもその後一、二年のうちに殆んど整理されたな。で、その後俺はキティと組んだ。相米もやってきた。映画のプロがいないので伊智地啓プロデューサーをひっばり込んだ。一緒にキティでゴロゴロしてたけどなかなか撮れない、だけど、お前はよその組行って助監督してたもんな。

相米 寺山組だよ、『草迷宮』というゲイジュツ映画。

長谷川 羨ましかったね。このヤロー、現場やってやがるって。二年ぐらい現場やってないとキツイもんだよ。二十二、三歳からずうっと、時々の撮影現場があって、それとダメな日常を縫っているという感じだろ。それが、ダメな日常だけがずうっとあると、これは疲れるよ。寺山組を相米が頑張って仕切ってるなんて風の便りを聞くと、俺も早く撮らなあかんと思ってね……。


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