長谷川和彦 黒い雨と今村昌平を語る(2)


オーエにならなくて済んだ

荒井 その頃、もう今村さんとこで助監督をやってたの?

長谷川 そう。2万5千円の給料すら満足にでないとこでさ(笑)
 まあ、パーセンテージじゃ言えないけど、幸か不幸か、生き急ぐ気分を胎内被爆が支えてはいたよ。綺麗に言えば、いつ死んでもいいと思ってた。“猫より面 白い”って言われてグウの音もでないってのを、ひとつの具体だとすればね。“そうか、今なら勝負出切る”って気がしたんだよ。俺は大江ほど偉くないから、自分の個的な問題を全宇宙の問題には出来ないから、奇形児が生まれたら、今なら俺がこの手で殺してやれるって、強暴な気分になれた。それは誰から責められるものでもない、俺自身の問題で、その俺がやるんだからいいと思いながらさ。
 ただね、生まれた時は五体満足でさ、2つ、3つ、になって頭がコレだって分かったら、どうしようってさ。これほど怖いもんなかったよ。俺、末っ子だから自分の愛玩するものは欲しい方だった。高3で学校では生徒会長や応援団長やって威張ってた頃も、捨て犬を拾ってきて愛玩してた。その犬が俺と散歩中に車にはねられて死んだんだ。その犬を一晩中抱いて、泣いているようなガキだったもんな。犬ですらそうだろ。まあ、犬だからこそっていうのもあるけど。もし子供が生まれて1歳でも2歳でも、おかしいって分かったら、何が首絞めて殺すだよ。おそらく俺は、死ぬ までそいつを抱えて生きているだろうと思う。しかも俺は、大江のようにそれを立派に宇宙の問題にまで表現できる筈もない。 俺は大江ファンだったから、俺らの時代は大なり小なりそうだったけど……(大江の)ファンの一人として生意気に言うと、大江の小説は「個人的な体験」から事件的に変質したんだと思う。非常に無責任に言えば“クソでも食らえ”というのが無くなったんだよ。そりゃ大江の“クソでも食らえ”だから、非常に知的なんだけど。“僕はもうクソでも食らえとは言わない”みたいなさ。そういう風に世界のことを思えないって言うかさ。子供を抱いて地獄――と言うとオーバーになるけど――へ降りたんだよな。あの人は偉いよ。そのことを小説に書くことで支えたわけよ。 でも、俺は絶対そんなに偉くないと思っているから本当、怖くて……今更、女房にそんなこと言えなくてさ。(今村プロから)出稼ぎで日活に行ってて、高橋英樹の「風の天狗」のアップの日に、慶応病院で生まれたって言われて……行こうと思ったら行けたんだけど、怖くてさ……行けなかったんだ。女房のオフクロから五体満足だって聞いて、それでもまだ行けない。嘘かもしれないとかさ。2日ぐらい後で行ったんじゃなかったかな。 その赤ん坊がもう18歳になって、俺よりでかくなって、高層ビルの窓拭きやって食いながらロックやるって言ってるから、まあ俺は大江にならなくて済んだんだ(笑)

今村昌平の「ここより他の場所」

長谷川 そういう、僕にとっては、「個人的な体験」があって……凄い良識的な「黒い雨」があって……これを世の大多数が誰も理解しない映画だと言ったら、俺は “そうじゃないだろう、少なくとも真面目な映画じゃないか”という立場に立つを思うよ。だけど今、その真逆だとすればね。アタマに『文部省特選』ってタイトルが出て、お客さんも良心作だと思って見にくるオジさん、オバさんだったりすると……一言、苦言を呈したくはなる(笑)

荒井 乱暴な言い方をすると、原爆をいいなんて、どんな人殺しでも言わないだろうってことなんだよ。そういうテーマの映画って、よくあるじゃない。反戦とかヒューマニズムとか。そういうものに対して発見がないんだ。誰しもが悪いっていうことやる映画でね。今村さんはあの映画で何をやろうとしたのか。原爆は悪い、良くない、これは常識でしょ。もうひとつ踏み込んで何かを掴んで出してくれるのならいいけど。あの映画はそうじゃないと思えて。 今村さんは、詠嘆的な悲惨さをやる人じゃなかったんだよね。建前と本音というと、建前との相剋を描きながら、本音の側に立っていこうというところがあったと思うんだよね。例えば「赤い殺意」でも、いわゆる、浮気なら浮気をやりながら、妻の座もしっかり守っていこう、みたいなね。

長谷川 俺は足掛け4年ぐらい今村さんの下で働いてたし、最初に映画(「青春の殺人者」)やったのも今村プロだったから、これまた特殊な観客なんだろうけど。 俺は「赤い殺意」が好きでさ。ああいう可笑しさというのを、それまでの映画では見なかったから。春川ますみと西川晃が、布団にもぐって夫婦のセックスをしている。その“お父ちゃん”“お母ちゃん”って答える間が、決して彼らを見下してるんでもなく、見上げてるんでもない。そして、それは間違いなく可笑しいわけよ。凄くパワフルな笑いでさ。こういう笑いってあるんだなって。

荒井 それは「にっぽん昆虫記」にもあったよね。

長谷川 俺は「にっぽん昆虫記」の方が理屈で作ってる気がしたな。

荒井 高3の時、ポスターを見てエロ目当てで「にっぽん昆虫記」見に行って、裏切られたというか……こりゃ芸術だぞと。ベルイマンもそうだったけど。

長谷川 俺が大学1年か……松竹ヌーベルバーグがあって、大島渚もいたわけだが、俺は今平の映画が圧倒的に面 白かった。大島渚の映画は俺ら田舎出の青年には、ある種の背伸びと共に面 白がる必要があった。よく分かってない政治的なことも、分かったような気になってみなくちゃいけないって。

荒井 話は違うけど、後年、飲んだくれて朝帰ったら、机の上に『長谷川和彦、ATGでデビュー』って、(新聞の)切り抜きが置いてあるんだよ。長谷川和彦30歳っていうのをオフクロがチェックしたんだな。プレッシャーをかけるっていうか(笑)“お前、いつまでも何やってんだ”みたいなさ。でも、運動は運動でもアメラグやってた奴だと知って、なんだ、って思ったよ。

長谷川 学生運動は当事者じゃないな、俺は。連合赤軍を映画にしようとするくらいだから。荒井みたいな当事者は嫌だろう、あんなモノ(笑)

荒井 俺、もう考えるのも嫌だって感じかな。

長谷川 俺は麻雀とアメラグだけのノンポリフーテンだったよ。それでも自分の知っている奴が安田(講堂)で捕まったりして、マジに俺はこんなんでいいのか、なんて思ってた。アメラグの後輩たちもデモぐらい出なけりゃって感じでさ。アメフトのヘルメット被って出るんだよ。民青と反民の違いも知らない連中がだぜ(笑)ともかく少しでもデリケートな人間なら、まっすぐ卒業するのが恥ずかしくて、関係ないのに留年してた時代だったんだよ。そんな俺がこだわってんのは、フーテンみたいにしてた人間が、例えばああいう時代を描くとどうなんだろうと。ただ、一番気になるのは『あの頃』と『現在』が、いかに一本の映画の中で結びついて、夢あるいは悪夢としての『未来』を見せてくれるのかってことだろう。俺が永い間『赤軍』にこだわってるのも、それが見えそうに思えるからなんで……。
  今平さんの「黒い雨」を何故、今? と思うじゃない。それは一番に出てくることだから、答えが用意されていると思うと、それが見事にないんだよ。

荒井 作家的モチーフとか、そういうのかな……。

長谷川 いや、60年代というのは、いくら時代の気分というのがあっても、そこから無縁でいられる人はいたじゃない。ゲバ棒持ったって、徴兵じゃないんだから。「戦争」は「運動」なんかより、数倍強引に全国民を巻き込むわけでさ。今村さんは、20歳ぐらいで終戦を経験している人だからさ。この戦争に対して、いつか俺がなんか表現せにゃならん、と思ってたんだよ。今村さん“俺は徴兵にとられるのが嫌で工業高校へ行った”って、俺に言ってたからさ。そういう人間が、あの時代、あの戦争を自分なりに片づけたいっていうのは、非常によく分かるんだよ。企画を思ったのは、30数年前らしいじゃない。その時の気持ちは分かるんだ。「ええじゃないか」の時も、映画が出来たのは13年程してからでさ、しつこい人だから(企画を)温めてたとは思うけど。
 井伏鱒二は、俺と同郷の金持ちの息子でね。今平さんは医者の次男坊じゃない。二人共、俺たちから見れば古き良きインテリゲンチャーの階級なんだよね。恥というか何か感じるよな。インテリがそれを克服するには方法が二つあって、そこを飛び出して全然別 の生き方をするか、そこに居直ってその中で人の横に立って手を繋げるか、だよな。二人共、たいてい飛び出した方だよ。親を選んで産まれたわけじゃないから、彼らのせいではないんだよ。だけど、こうやって老境に入って長年の重いっていうもので撮ってみると、彼は人々の横にはいないよな。『上』と言ったら、今平さんは、“俺は死んでも人の上になんかいない”と言うと思うんだよな。でも、横っていうものはそういうもんじゃなくて、横を知らないんだよな。それは『大衆』って言葉で『人々』と自己を区別 してきた世代の限界みたいなもんだと思う。横になりたかった人には違いけど。井伏さんは物書きで、どう言ってもインテリゲンチャーだと思わざるを得ないけど、今村さんは(映画の)現場にいて、自分は日雇い労働者以下だなんて、横になった錯覚をするわけでさ。井伏鱒二ってボンボンと今村昌平ってボンボンが、どっかで通 底してたっていうのは、とても理解しやすいことではある。

荒井 今村さんがいつも田舎の大衆を描く、ところが、東京生まれの東京育ちと知った時、びっくりしてさ。ゴジが大島渚の映画を見て、背伸びしなくちゃいけなかったのと同じように、俺は今村昌平の映画を理解するのに背伸びする感じだったな。これが大衆の原像ですかと。

長谷川 実際は逆でね。今平が都会者で、大島が田舎者だったわけだよ。面 白いもんだよな。そういう意味では、みんな『ここより他の場所』を目指していたんだよな。ここより他の場所を目指すから若者なんだ。映画であろうが小説であろうが、関係ないんだよ。 ただね、ここより他を目指す目指し方というのが、今平さんていうのは、俺が今村プロに入った頃、「神々の深き欲望」の頃までは本当に機能してた。この人は本当に『ここより他の場所』へ行ってるんじゃないかって思える迫力があった。
  大塚の耳鼻科のダメ息子が――徴兵が怖くて、行きたくもない工業高校へ行った奴が、演劇を足掛かりに映画に出会って――手と足でもがいて偶発的にみつけた『自分の場所』って感じがあったよ。今村プロに4年いて分かったことは、今平さんて、俺なんかが見たこともない小市民なんだよ。まるでクソ真面 目な小姑みたいな人でな(笑)なんで、こんな男がああいう映画を撮るんだろうって。俺が付き合った「神々の深き欲望」は、映画としてはもうパワーダウンしてたと思うけど。単純に言うと、あの頃から今平はチンポコが立たなくなったんだよな。奇麗に言えばリビドーが弱まったんだ。それ以前の今平さんの映画が面 白かったのは、異常な小市民倫理観と、異常なリビドーとが上手く混じりあわずアンバランスに存在してて、“それでも俺はそれを形にする”と、のたうっていた今平のウンコみたいなものだったんだよ。で、そのウンコみたいなものは凄くパワフルだったんだ。彼もまた“ウンコで文句あるか”と自信に満ちてたしな。「にっぽん昆虫記」を評論家が“村落共同体における自我の目覚め”とか書いているけど、そんなこと思って見てるわけじゃなくて、ただ圧倒的に面 白いから、俺、今平は凄いと思ったわけでさ。

荒井 映画って、民俗学とかフィールドワークがどうとかじゃないところに 力があるから。「神々の深き欲望」は言葉というか、民俗学が前面にきちゃってる。

長谷川 チンポコが立って仕方がないって時の男ってのは、なかなか面 白い存在なんだと思う。元来、女より男の方が体じゃなくて、頭でモノを考えるっていうか左脳的思考をする生き物なんだろうけど、チンポコが立つ時って、男でもより右脳的になるんじゃないかな。音楽をするように映画を作ることができるんだ。“映画は理屈じゃねえ”ってチンポコが叫ぶみたいなさ(笑)
  彼が「神々の深き欲望」以降10年間も映画を撮れなくなったのは、単純に今まで自分の中の片方の雄であったリビドーが大人しくなっちゃったからだと思うな。それで、どうすりゃいいんだって困っちゃったんだ。根が正直な人だから。
 俺、彼の本音の部分は割と知ってる気がするしは好きなわけよ。4年ぐらいだったけど、助監督とは名ばかりの付き人みたいな生活をしてたわけだから。外見とは裏腹に、内心まるでウジウジした駄 目者意識の次男坊なんて、自分との共通部分を含めて、自己愛に似た愛情すら今でも感じてる(笑)

荒井 学生の頃、今村昌平の映画を見て、今村プロの扉を叩いた?

長谷川 違う、違う。本当はミュージシャンになりたかったんだ。本気だったんだぜ。

 

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