収録石燕妖怪一覧 その六
 青鷺火 邪魅 雲外鏡 赤舌 ぬうりひょん 加牟波理入道 毛倡妓  野衾 

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青鷺火  P281
 「由緒の寺院に龍宮より龍燈をささげにつかはさる青鷺の位火」
 続百晦 国書版P130  「青鷺の年を経しは、夜飛ときはかならず其羽ひかるもの也。目の光に映じ、嘴とがりてすさまじきと也。」

 鷺がヒカリモノの怪となる話は数多く残っていますが、この絵もそれを表したものだと思われます。藤澤氏の解説は石燕のそれとは関係なく、実際に残っている話を参考に書かれたものと見ていいでしょう。
 ちなみに龍灯というのは龍神が灯す火のことで、海などから現れる怪火の類です。
 隣のページには陰摩羅鬼が載っています。


邪魅  P283
 「魑魅(ちみ)の類にして妖邪の悪気を代表する怪物」
 続百明 国書版P156  「邪魅は魑魅の類なり。妖邪の悪気なるべし。」

 藤澤氏は石燕の解説を、ほぼそのまま使用しています。新たに加わった点といえば、「代表」という箇所だけでしょうか。しかし名前からして、悪いモノを象徴しているようではあります。
 水木氏はこの妖怪を、「毒気を吐いて気分を悪くさせるもの」という具合に、疫病神的に解釈していますが、これはおそらく「悪気」という部分から連想したのでしょう。
 ちなみに「鬼太郎」に登場した邪魅は、なぜかデザインが魍魎になっていました。もともと「魑魅魍魎」で括られるからでしょうか。


雲外鏡  P287
 「照魔鏡は怪しき変化の形を写し雲外鏡は古鏡自然の怪をなす」
 徒然下 国書版P312  「照魔鏡と言へるは、もろもろの怪しき物の形をうつすよしなれば、その影のうつれるにやとおもひしに、動出るままに、此かがみの妖怪なりと、夢の中におもひぬ。」

 石燕の解説は、「照魔鏡に妖怪が映っているのかと思ったら、実は鏡の妖怪でした」という意味のようです。なんだか冗談のような感じですが、たぶん冗談なのでしょう。
 藤澤氏の解説は、普通に照魔鏡と雲外鏡の比較形式で書かれています。
 鏡の怪異譚は現代でもさかんに聞きますが、漫画の中などでは、この雲外鏡は鏡の妖怪の代名詞として使われていることもしばしばあるようです。


赤舌  P290
 「何物か至りて関口を開き悪業の田を流す其主怪こそ赤舌なり」
 百鬼風 国書版P88  解説なし

 狩野派の絵巻に描かれた妖怪の一つで、もとは「赤口」という名でした。その頃は当然ながら、石燕の絵のように舌は強調されておらず、ただ大口を開いた化け物といった感じです。名が「赤舌」と改められ舌が強調されるようになったのは、石燕以降でしょうか。なお、これらは陰陽道で言うところの「赤口」「赤舌神」を表したものと考えられています。
 さて、赤舌といえば水門をいじくる妖怪として有名ですが、これも藤澤氏の解説が発展したもののようです。山田氏は『東北怪談の旅』の中で、水争いを戒める妖怪としてこれを登場させました。これはおそらく、「悪業の田を流す」という部分がヒントになっているのでしょう。水木氏は初期の解説で、これをただのいたずら妖怪として扱っていましたが、後に山田氏の話を流用しています。
 ちなみに佐藤有文氏は、長い舌で人を捕えて食べてしまう妖怪であると解説していました。もとが不吉な妖怪であることを考えると、意外とこちらの方が似合っているのかもしれません。
 隣のページにはぬうりひょんが載っています。


ぬうりひょん  P291
 「まだ宵の口の燈影にぬらりひよんと訪問する怪物の親玉」
 百鬼風 国書版P84  解説なし

 石燕の表記と国書版の読みに従って「ぬうりひょん」としましたが、本来は「ぬらりひょん」であり、現在一般に知られている名も、もちろん「ら」の方です。やはり狩野派の絵巻に絵が残るのみの妖怪で、身なりが立派で後頭部が異様にでかい禿頭の老爺という以外には、特に情報はありません。岡山の方には同名の海坊主の類が伝わっていますが、これとの関連性の有無は不明です。
 そういったわけで藤澤氏の解説は、例によって絵から想像したものと思われます。「妖怪の総大将である」という水木氏の解説は、ここから来ているのでしょう。また、現代では主流になった「人の家に勝手に上がりこむ」という特徴ですが、こちらも水木氏が少年誌上で解説する際に、絵から連想したものと考えるのが妥当のようです。
 隣のページには絵巻仲間である赤舌が載っています。


加牟波理入道  P296
 「不浄場の手洗ひ鉢に鳥怪の如き手品を見せる加牟波理入道」
 続百晦 国書版P143  「大晦日の夜、厠にゆきて『がんばり入道郭公』と唱ふれば、妖怪を見ざるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠神の名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日の談なるべし。」

 「郭公」と書いて「ホトトギス」と読みます。これは当時、二つの鳥が混同されていたためだそうです。
 とりあえずは便所の神とされていますが、便所でホトトギスの鳴き声を聞くと不吉だとされ、『諺苑』では件の呪文を大晦日に思い出すのをよくないこととしています。その鳥を口から吐いている入道が本当に神かどうかと考えると甚だ疑問ですが、『甲子夜話』では、入道の頭を取って左袖に入れると小判になる、とありますから、必ずしも不吉な存在と言い切ることはできないようです。朝蜘蛛と夜蜘蛛のようなもので、諸説あったと見るのが妥当かもしれません。
 とりあえず藤澤氏の解説には、神様らしき点は見受けられません。
 隣のページには同じ巻の妖怪である毛倡妓が載っています。


毛倡妓  P297
 「遊女屋の抱へに似せて廊下の障子などに毛を摺り歩く毛倡妓の怪」
 続百晦 国書版P147  「ある風流士うかれ女のもとにかよひけるが、高楼のれんじの前にて女の髪うちみだしたるうしろ影をみて、その人かと前をみれば、額も面も一チめんに髪おひて、目はなもさらにみえざりけり。おどろきてたえいりけるとなん。」

 石燕の解説はそのまま当時の怪談本にでも出てきそうなものですが、今のところ出典らしきものは分かっていません。ですからもちろん石燕自身が創ったという可能性もあります。
 藤澤氏はやはり遊女の姿をした怪としておきながら、見た目で驚かすという部分を省略し、「毛を摺り歩く」といった具合に行動に膨らみを持たせました。こちらはこちらで、なかなか不気味なものに仕上がっています。
 隣のページには加牟波理入道が載っています。


  P299
 解説なし
 続百雨 国書版P112  「一名を旱母といふ。もろこし剛山にすめり。その状、人面にして獣身なり。手一つ足一つにして走る事、風の如し。凡此神出る時は、旱して雨ふる事なし。」

 なぜだかは分かりませんが、これだけ解説がありませんでした。
 石燕の画図百鬼夜行シリーズには中国の妖怪が何点か載っていますが、これもその一つです。「魃」と書いて「ひでりがみ」と読ませるのは、『和漢三才図会』のような当時の文献に依るのでしょう。原本では山精、水虎と隣り合っており、登場する妖怪達の並びにある種の法則性があることが窺えます。
 なお、「かみ」と読ませてはいますが、実際は怪物のようなものだったそうです。


野衾  P300
 「むささび(※)の種にして蝙蝠の如く全身に毛生ひ翅も肉にしてよく火焔を食ふといふ怪物」
 続百明 国書版P159  「野衾はむささび(※)の事なり。形蝙蝠に似て、毛生ひて翅も即肉なり。四の足あれども短く、爪長くして、木の実をも喰ひ、又は火焔をもくへり。」

 石燕の言うとおり、ムササビのことです。高知県に同名の妖怪が伝わっていますが、そちらは塗壁の類であり、これとは別物と見ていいかもしれません。『桃山人夜話』には、コウモリが年を経て野衾になり、さらに年を経ると山地乳という妖怪になると書かれていますが、ここでいう「野衾」もムササビのことのようです。
 ムササビは別名を「モモンガ」とも言いますが、これは漠然とした「お化け」を表す言葉でもあります。つまりムササビは狐狸同様、怪しい動物と考えられていたことが分かります。また石燕は百々爺という妖怪も描いていますが、これもモモンガの類のようです。
 さらにコウモリとの関連性が指摘されているように、当時はコウモリとムササビは同種のものであると考えられていました。そのため野衾や百々爺がコウモリの化物の姿で描かれている例も存在します。
 藤澤氏は「ムササビと同種の怪物」ということで手を打ったようです。

 ※「むささび」の漢字が出ないため、ここでは仮名にしておきました。むりやり二字で表すと、「鼠吾」となります。


  P304
 「酒屋の軒に訪づれて人真似に酒を求めるといふ獺の怪」
 百鬼陰 国書版P37  解説なし

 狐狸同様、化ける動物としておなじみの存在であり、地域によっては河童の類のような扱われ方もしています。
 藤澤氏が解説している内容は、実際に石川県の伝承に見られるもので、水木氏も解説の中でそれを使用しています。もっとも絵では酒樽のようなものを持っており、背景には徳利の置いてある家もありますから、これが酒を買いに来ている図だとすれば、やはり絵から連想したものと考えてもいいかもしれません。
 隣のページにはが載っています。


2003.5.5 update