ホーム :「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」 :続日本紀「文武紀」の「記事」移動の痕跡について :


「文武紀」の年次移動について(総括)

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 以上から「六九七年」から「七〇〇年」までは「五十二年」、「七〇一年」から「七〇三年」までは「五十五年移動」、「七〇四年」から「七〇九年」までは「五十七年」移動というように、時期によって施された「改定」や「潤色」の年数が異なる事が推定され、同年時の記事が複数年に分散させられていることが判ります。

 「利歌彌多仏利」の後継者と考えられる、「伊勢王」(実は「文武」)の時点で一旦この段階までの史書が成立したものと考えられ、それは「律令」施行などと同じ事情による事業であったと考えられます。(天武紀にある史書編纂事業記事がこれを指すものと思われます)
 また、この時点では「評制」の施行が行われたことが確実となっており、これと同時に「難波副都」建設や、推定される「筑紫都城」の整備、「都督府」整備などがあったと思料され、これらは「律令」の公布・施行が前提の政策と考えられるものですから、それに併せてこの段階で「史書」の作成が行われたとしても不思議ではありません。 
 その後「伊勢王」以降の史書が「編纂」されたと思料され(これが「続日本紀」となる)、これは「聖武天皇」までが書かれているというのですから(この事は「聖武天皇」も「「九州王朝」に連なる人物(王権)であることを示すものかもしれませんが)、かなり遅い時期になってから「編纂」が成されたものと思料されます。これに関しては当然「聖武」以降の時代が想定されますから、「聖武」の後継である「孝謙天皇」ないしは「淡路廃帝」(淳仁天皇)時代付近での「史書編纂作業」が考えられますが、それが「菅野真道」達の手によるものであったという事となる訳です。
 これらが「現行」の「日本書紀」として大幅な「粉飾」が行なわれたのはやはり「嵯峨天皇」の時代のことではなかったかと考えられ、その時点で存在していた「日本紀」と「続日本紀」を大幅に書き換え、「北朝」の権威により、思想と行動を統一した内容に書き換え、改定したものと思料します。


(この項の作成日 2013/08/09、最終更新 2013/08/13)

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