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国号変更について

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 従来「八世紀」に入ってからの遣唐使(粟田真人等)が派遣された際に、「唐」の官僚から「国名」が変更になっていることを聞かれ、それに各々答えたことが「旧唐書」や「新唐書」に書き留められたものと考えていましたが、早い時期に国号は変更され、しかもそれは「八世紀」に入る前に唐へ伝えられていたという観点の新知見を得たので、そのように訂正することとします。

 「新唐書」には以下のような記述があります。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
 長安元年〔二〕,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」

 この「新唐書」のこの部分は(というより「編年体」で書かれた史書は基本そうですが)、「歴代」の倭国王を列挙しながら、随時その時点(治世)に関連すると思われる「情報」を適宜挿入する形で記事が構成されています。そのようなことを踏まえると上の記事から以下のことが推察されます。

 「天智」「天武」「總持」と続いたところで「咸亨元年」記事が挿入されています。この「咸亨元年」は「六七〇年」を意味しますから、これが「時系列」に基づいているとすると「六六〇年代」という時点で既に「總持」(これは「持統」と思われている)まで、「代」が進行していることとなります。
 また、その「挿入記事」である「咸亨元年」の「賀使」の文章中に、「後」という表現がされており、このような書き方は「年次」を表すそれ以前に書かれた「年号」や「干支」などから切り離すための文言と考えられ、それがいつかは明確ではないものの、「長安元年」記事の前に挿入されていますから、「粟田真人」の遣唐使以前に別の遣唐使が派遣されているらしいと推定できます。そして、その時点で「倭国」から「日本国」への国名変更を説明していること。つまり「国名変更」は「文武」の時代の「粟田真人」の遣唐使以前のこととなると思われ、「總持(持統)」段階であるらしいことが理解できます。
 また、この「新唐書」に対する理解は「旧唐書」からも裏付けられます。「旧唐書」においても、時系列に沿って記事が構成されているのは一目瞭然であり、それによれば「国名変更」についての情報は(以下のように)「貞観二十二年」記事と「長安三年」記事」の間に書かれているのが注目されます。
 これは「新唐書」も「旧唐書」と同様に「長安三年」までの間の情報がそこに書かれていると理解するべきではないでしょうか。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。
 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。
 長安三年、其大臣朝臣眞人來貢方物。…」

 いずれにおいても「長安年間」の事として記された「(粟田)朝臣真人」の遣使以前に「国号変更」が伝えられていたことを推定させるものと思われ、「日本国」への国号変更というものが、一般に考えられているような「八世紀」に入ってからのものという理解が、実態とはかなり乖離するものではないかと疑われることとなります。

 また「新唐書」「旧唐書」に書かれた内容によると、「日の出るところに近いので」、「倭国自ら名称変更した」、「其の名が雅でないので」、「日本は旧小国であり、倭国を併合した」などと各自が答えたとされます。
 重要な点は、この証言が外国史書に書かれたものであることです。「粉飾」などの心配のない情報であり、信頼性は高いと考えられます。また、聞かれて「虚偽」を答えなければならない必然性もないと考えられ、これらの証言には高い確度で「真実」が含まれているものと考えられるものです。また各々答えのニュアンスが異なっているのが注目されます。
 この「遣唐使」(賀使か)が述べた「変更理由」を考察すると、「『倭国』が自ら変更した」という証言からは、「名称変更」した「倭国」は「自分たち(「遣唐使」たち)の王朝」ではない、というニュアンスを感じます。つまり自分たちとは違う「倭国」というものがあって、それが「名称変更」したものを「私たち」が継承したというニュアンスでを感じます。
 また、「『日本国』は、名称変更した『倭国』を『併合』した」と言っていることなるわけですが、このことは自分達「日本国」の王朝が「すでに名称変更して『日本国』となっていた」「倭国」を併合した、という意味合いと理解されるわけですが、さらに、ここが重要なところなのですが「『日本』は旧小国」という表現は、現在の「日本国」の中枢をになう勢力が「元々支配していた地域」というものは、現在の「日本国」の中心地域(「畿内」)ではあるが、それは本来は「倭国」の内包する「諸国」のひとつであったものであり、「大義名分」のある国ではなかった、と言う事を意味すると思われるのです。つまり「現在の」「畿内」は「倭国」が「倭国」として存在していた時代には「旧小国」でしかなかった地域である、と言っていると考えられるのです。

 以上のことは、「倭国」がその「首都」を移動したこと、移動した先が「旧小国」であった地域であること、移動した時点か或いはその前に「倭国」から「日本国」へ国号が変更されたこと、現在の「日本国」はその「旧倭国」であるところの「日本国」が「遷都した先に存在していた旧小国」に「併合」された「後継」であること。「倭国」から「日本国」への「国号」の変更と、「倭国」の地を「旧小国」が併合する(つまり「権力」及び「大義名分」の移動)には「時間差」があること等々を意味していると考えられます。
 つまり、「倭国」がその都を遷し、「日本国」へ「国号」が変更された後「幾ばくか」して「旧小国」であるところの現「日本国」中枢により「併合」されたことになったものと考えられます。
 「併合」というような事態が発生するためには「血筋」が絶えるというような事が起きたものと見られ、そのため有力な諸国王の一つであった「近畿王権」に「大義名分」が移動するという事となったと見られます。
 これらの事を推察すると「国号変更」(「倭国」から「日本国」へ)はこの「遣唐使」を派遣した「總持」によるものではないかと考えられます。

 それに関連して「日本書紀」の前に存在したと考えられる「日本紀」もそうですが、史書名に「日本」という名称(国号)がついているのが注目されます。これら「日本書紀」「日本紀」とも「歴代」の「中国」の史書の例に漏れず「前史」として書かれたものと思料されます。
 「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。
 「漢書」は「後漢」に書かれ、「魏志」は「晋」の時代に書かれ、「隋書」は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、「日本紀」が書かれた理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。それは「続日本紀」において「大宝」という年号が「建元」されたと書かれていることからもわかります。
 「中国」の例でも「禅譲」による新王朝創立の場合(たとえば「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など)は「改元」されており、「天子」が不徳の時、「天」からの意志が示された場合(天変地異が起きるなど)それを畏怖して「ゼロ」から再スタートするために「改元」するものです。そして、それにも従わなければ「天」は有徳な全く別の人物に「命」を下し「受命」させるものであり、この場合は「建元」となります。
 このようなことを考えると、「禅譲」はまだしも「天」の意志に沿っているともいえるものであり、この場合は「改元」されることとなります。つまり、「禅譲」は「前王朝」の権威や大義名分を全否定するものではなく、「改元」は妥当な行為といえるでしょう。
 たとえば「旧唐書」などに、「初唐」の頃に「江南地方」(旧「南朝地域」)などを中心に各所で「皇帝」を名乗り「新王朝」を始めたという記事が多く見受けられますが、それらは全て例外なく「建元」したとされています。これらの新王朝は「受命」を得たとし、新皇帝を自称して「王朝」を開いているわけですが、そのような場合には当然「建元」されることとなるわけです。このことの類推から、「日本紀」という史書の国号として使用されている「日本」は「前王朝」のものであり、それとは別に全くの新王朝として新しく「日本」が成立した
と見るべきこととなります。この場合、「新王朝」と「前王朝」の国号が同じなのはその統治の中心領域が同じだからです。
 このように「新王朝」が造られた場合は、「首」や「頭」のすげ替えのようなものではなく「中身」がそっくり入れ替わったと見るべき事となるでしょう。(そうでなければ「禅譲」と言い得るからです)つまり「体制」全体が入れ替わったものであり、官僚なども多くは共通していないこととなる可能性があります。
 この様な推論は「旧日本国であるところの倭国王権」の主体が元々「筑紫」にあり、「新日本国王権」の主体が「近畿」にあったという、いわゆる「九州王朝論」に根拠があることとなります。
 そして、「前王朝」の名前を「冠」せられた史書が「日本書紀」であり「日本紀」であった、ということは「總持朝」の時代の国号が「日本国」であった、という事にならざるを得ず、「国号」が変更されたのは「總持朝」の時代であったという「旧唐書」や「新唐書」からの解析と整合することとなります。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2014/05/15)


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