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「日本」という国号と「朱鳥」の関係

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 時代は下がりますが中国の「清」の時代「鐘淵映」という人物が撰んだ書物に「歴代建元考」というものがあります。これはこの時点で知られていた国内外の「元号」について書き表したもので、その中の「外国編」の「日本」のところには以下のようにあります.

「持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后因主 國事始更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和」

 つまり、彼らの「知りうる範囲の知識」では「日本」と国号を変更したのは「持統天皇」である、というわけです。この記述は上に述べた「旧唐書」に書かれた事を分析した結果と合致しており、国号変更に関する推察を補強するものです。また、この記事では「国号変更」の時期としては「朱鳥改元」と同時であると書かれているようです。
 そもそも「書紀」では「大化」が「改元」と書かれています。この「改元」は「禅譲」という「王朝交替」を裏に含んでいると思われます。
 上に述べたように「禅譲」の場合には「改元」され、前王朝の大義名分などはそのまま新王朝に継承されます。このことから、この「書紀」の主張は「七世紀半ば」に「旧王朝」から「新王朝」への禅譲が行われたという事ではないでしょうか。そして、その際に「倭国」から「日本国」へ「国号」が変更されたと言うことと理解できるものです。
 そもそも「国号変更」が「王朝交代」などの事象を伴わないと考えるのは不可能といえるものであり、そう考えるとこの時の改元は「大化」ではなかったこととなるでしょう。なぜなら「大化」の本来の年次は「六九五年」であると考えられるからです。そうであれば「歴代建元考」が言うように「朱鳥」がその時「改元」された元号であったという可能性は否定できなくなると思われます。それは「倭」から「日本」への変更と「朱鳥」が「あかみとり」という「訓読み」であることとはつながっていると考えられることからもいえることです。
 「倭」から「日本」への変更は「倭」が「雅」ではないと理解したからとされていますが、「倭」というものが「倭国」が自ら名乗ったものではないと言うことが根底にあることをこの時点で意識したのではないでしょうか。
 この「倭」というのは「古」から続く由緒あるものではあるものの、自称ではなく「中国」側から見てつけられた名前であると思われ、そのことを意識したものではないでしょうか。そうであればこの時「国号」として採用された「日本」は「音」ではなく「朱鳥」と同様」「訓」で呼んだものと思われ、「ひのもと」と呼称したものではないかと推察されるものです。

 そもそも「朱鳥」とは「四神」つまり「青龍」「玄武」「白虎」とならぶ「獣神」であり、「天帝」の周囲を固めるものでした。その起源は「殷代」にまで遡上するとされ、その時点では「鷲」の類であったとされますが、(※)その後「鳳凰」やその意義を持った「雀」などの「鳥」とされるようになったものです。

《全唐文/卷0217》代皇太子請停幸東都表 崔融(唐)
「臣某言:臣聞乘雲駕羽者,非以逸樂其身;觀風設教者,將以宏濟於物。故後予胥怨,幾望湯來,吾王不遊,?思禹會。伏惟天皇察帝道,敷皇極,一日二日,智周於萬幾;先天後天,化成於四序。雖鴻名已建,銘日觀而知尊,而膏澤未流,禦雲台而不懌。市朝之邑,天地所中,四方樞會,百物阜殷,爰降恩旨,行幸東都。然以星見蒼龍,『日纏朱鳥』,清風用事,庶彙且繁,桑翳葉而眠蠶,麥飛芒而?雉。…」

「全唐詩」 卷169 李白
「草創大還贈柳官迪[??]」
「天地爲?籥,周流行太易。 造化合元符,交媾騰精魄。 自然成妙用,孰知其指的。 羅絡四季間,綿微無一隙。 日月更出沒,雙光豈云隻。 ?女乘河車,?金充轅軛。 執樞相管轄,摧伏傷羽?。 『朱鳥張炎威』,白虎守本宅。」

「論衡」物勢篇第十四 王充
「…東方木也,其星倉龍也。西方金也,其星白虎也。『南方火也,其星朱鳥也。』北方水也,其星玄武也。天有四星之精,降生四獸之體。…」

「淮南子/天文訓」
「…南方,火也,其帝炎帝,其佐朱明,執衡而治夏。其神為?惑,其獸朱鳥,其音?,其日丙丁。…」

 以上のような例を見ると、そもそも「朱鳥」は天球上の明るく輝く赤い星からのイメージと思われ、そこから転じて「火」や「火炎」の意義が発生したものでしょう。「五行説」では「火」であるとされています。また、「鳳凰」は「火の鳥」ともいわれ、火の中から再生するともいわれており、「不死鳥」のイメージも併せ持っています。
 位置的には「うみへび座」のアルファ星「コル・ヒドラ」がそのイメージの原初的背景にある星ではないかと思われます。この星は二等星でありそれほど明るくはありませんが、周囲に明るい星がなくその意味では目立つ星です。また色は確かに「赤」く見えます。(天文学的には「赤色巨星」に分類されています。)
 その位置する方位は「南」とされ、また「日」(太陽)に纒りつくともいわれますし、また「鳥」というものと「太陽神信仰」とは関係が深いという説もあるようです。
 つまり、この「朱鳥」という年号名は「太陽」を指向したものであり、それが「日本」という国号になった時点での「改元」として選ばれた理由であると思われ、この両者には「太陽神信仰」あるいは「日神崇拝」という形で深い関係があると考えられるものです。
 
 「歴代建元考」での表現、すなわち「國事始更號日本仍用朱鳥紀」というものの意味が「朱鳥」改元と「日本」国号変更との間に「関係」があることを推察させるものであることはつながっていると思われます。そうすると「持統紀」の「飛鳥浄御原宮」の命名の下りは、実際には「国号変更」の文章ではなかったかと推察されることとなるでしょう。つまり「戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」という文章は「戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名国曰日本。日本。此云比能母騰」のような記述が本来ではなかったかと推察されることとなるわけです。(書紀内の童謡に使用されている万葉仮名からの類推)こう考えれば「仍名」という書き方には不審な点はなくなります。
 この「朱鳥」の持つ「火」や「日」のイメージは「肥の国」にそのままつながっているように見えます。「肥の国」は「不知火」とも言われ「日」でもあるのです。このことからこの時の「王権交替」の実質というのは「肥の国」からの権力移動を示すものであり、「總持」(持統)の朝庭は「肥の国」から迎えられた「王」であり、これは一種の禅譲であったと思われ、その際に「日本国」という国号へ「変更」「改定」したこととなると思われます。
 さらに当時の感覚としては「朱鳥」とは「中国南朝」をも意味するものと考えられていたものではないでしょうか。そうであれば「持統紀」に「元嘉暦」使用が謳われているのは理由のあることとなります。

 ただし、「国号」の変更については「三国史記」で「六七〇年」の項に書かれていることや、「百済禰軍」の墓誌に「日本」が登場し、その墓誌が書かれたのが「六七八年付近」であるらしいことが推察されていますから、「書紀」に書かれている「六八六年」の「朱鳥改元」とは整合しないこととなります。「金石文」とも言うべき「百済禰軍墓誌」の存在がある限り、第一に「書紀」の記載の方を疑うべきであり、これが「本当に」「六八六年」なのかが問われるべきと思われます。
 また「佛祖統紀」の中に収められている「世界名體志」の中には「唐」の「三代皇帝」「高宗」が「高麗」を滅ぼした際に「倭国」が「賀使」を派遣し、その際に「日本国」への国号変更を伝達したと受け取れる記事があります。

(「大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)
「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」

 この記事に従えば「三国史記」の記事とは矛盾がなくなります。また「藤原京」の下層条坊遺跡の始源が「六七〇年付近」であることも関係があると考えられます。
 この時点で「藤原京」が造られていたとすると、(全体完成は遅れるとは考えられるものの)この「藤原京」そのものの存在意義と「国号」変更とが強く関連していることとなるでしょう。
 この事に関係していると考えられるのは「九州年号」の項でも述べたように「天武六年」に「赤鳥」が「筑紫」から献上されたと言う記事です。この「赤鳥」は「赤烏」と同じではないかと考えられ、「太陽」のシンボルとされます。これが献上されたことと「朱鳥」という年号の採用とは関係していると思われると同時に、その「太陽」のシンボルという意義から「日本」という国号が選ばれたという可能性もあるでしょう。

 そもそも、この「日本」という国号は実ははなはだ「由緒」正しいものであったと思われます。つまり、「日本」という名称は以前から存在するものであり、「總持(持統)朝廷」もそういう意味で、「伝統」と「由緒」に則って「日本」と国号変更したものではないでしょうか。
 「日本」という名号は古くから「九州」に存在していたものであり、元々「肥の国」を意味する言葉であったと思われます。(これについては「筑紫」の別名であったという考えも以前持っていましたが、それは「肥の国」から「筑紫」へと王権の所在地が移動した歴史を踏まえていませんでした。)
 現実に「筑紫」には「日本」(ひのもと)という地名が今でも存在しています。那珂郡や早良郡などに「日本」(ひのもと)という「字地名」が現存しているのです。
 他にも、長崎県(壱妓)、山口県、奈良県などにも各一、二カ所、「日本」(ひのもと)という字地名がありますが、多く見いだされるのは「筑紫」であり「博多湾岸」なのです。
 しかし、上に見たように本来は「日」の国、つまり「肥」の国(特に「肥後」)を表す言葉であったと思われ、それが「倭国王権」そのものを表象する用語として使用されていくようになったのではないでしょうか。つまり、「古墳時代」は「肥後」が「日の本」であったと思われ、それは「隅田八幡」の鏡の文言の解析からもいえることと思われます。つまり、既に述べたように「隅田八幡」の銘文にある「日十大王」は「日本大王」の書き誤りと思われ(「本」と「夲」)、その時点で「日の国」を「日本」と自称していたことを示すものと推察されますが、「古墳時代」が終わり、統一王権が「東国」も含め統治、支配するようになると、それ以降「日本」は「筑紫」の別名として、あるいは「ほめ言葉」として、あるいは「枕詞」として使用されるようになったものと思料されます。

 この「日本(ひのもと)の」という枕詞は「万葉集」で出てきますが、「大和」に対して使用されています。「万葉集」によれば「六七〇年」の「天智朝」においての「日本国」創立とともに、「倭」の音として(読みとして)「やまと」が使用されるようになります。(「倭」の読みは「キ」のある地名を以てその読みとすると言うルールがあったものと思われ、それ以前は「倭」と書いて「ちくし」と発音したと考えられます。)
 現存している「万葉集」は、その性格から言っても、またその成立年代から言っても「八世紀」以降に主として編纂されたものと考えられ、「持統朝」以前の「原初型」とはかなり様相が異なるものと考えられますが、それ以前の「原・万葉集」では「日本」という言葉は「筑紫」に掛かるものであったのではないかと考えられます。
 つまり、本来「首都」のある場所にかかる枕詞であったと考えられ、その「元々」の首都が「筑紫」であったとすると「枕詞」としても、「筑紫」にかかるものであったと考えられますが、その後「八世紀以降」の「書紀」の「潤色」などの際に「大和」に掛かるものに変えられたという可能性が高いものと推察されます。
 あるいは「持統天皇」が「藤原宮」に遷都した際の「改元」された元号である「大化」というのが、実は「大和」(ないし「太和」)であったという場合があり、この時点で「大和」に掛かる「枕詞」になったのかもしれません。(六九五年で「大和」改元としているのは「海東諸国記」「襲国偽潜考」があります)


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2014/06/14)


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