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「法隆寺」と「三十三間堂」

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「法隆寺」は元々「元興寺」であり、それは「勅願寺」であって、そこには「営造法式」が適用されていたと考えられることとなったわけですが、それはまた「観世音寺」と「太宰府政庁」にも言えることが判明しています。
 ただし、「観世音寺」と「太宰府政庁」は、各部の寸法から逆算すると、南朝の「三等材」で作られており、「格」(等級)が異なっています。

 ところで、(後で詳しく述べますが)現在京都市内に存在する「三十三間堂」については、「平家」が寄進したものがそのまま残っているのかどうか、諸説はあるものの、推定ではこの「筑紫」の「観世音寺」に「既に」移築されていたものを、更に「京都」へ移築したものと考えられます。
 この「三十三間堂」と「法隆寺」(元興寺)との間に関係があるというのは「玉虫厨子」という「千躰仏」をレリーフしてある「金堂」の完成模型を見ても推測できます。
 この「千躰仏」については「書紀」の「六五〇年」という年次に「詔」により「漢山口直大口」が「刻む」という事が書かれています。つまり、「詔」を受けて作製していた「千躰仏」がこの年完成したと読めます。(「白雉元年」(六五〇年)という「年次」と「刻む」という動詞が連結されていることから、この年に刻んだと理解されるものです。)

 そもそも「法隆寺」はすでに見たように「解体修理」等の所見からは、「六世紀末」の創建とみるべきであると考えられ、それに併せて「三十三間堂」と「千躰仏」も作られたと考えるべきと思われます。それは「隋」の「文帝」が「三十三天」の加護により「天子」となったという逸話の影響ではないかと考えられ、「隋」の「文帝」への傾倒がこの「三十三間堂」と「千躰仏」を造る契機となったものではないでしょうか。
 「三十三間堂」を解体修理した際の断面図に書かれた寸法については「桁行梁」の位置での「身舎(もや)寸法」と「庇寸法」が「曲尺」で各々「16.0988尺」と「11.0325尺」、全幅として「54.2625尺」と測定されていますが、これに対して「米田良一氏」は、その研究で使用した「換算尺」(1尺=28.1cm)を適用し、各々「17.5尺」、と「12尺」、全体合計で「58.5尺」とされました。
 ところで、「法隆寺」は「殿堂法式」であるとされ、「一材寸法」として「26.95cm」という数字が得られていました。しかし、「三十三間堂」はその構造から見て「庁堂法式」であり、「一等材」や「二等材」は使用されなかったと見られます。これに「三等材」が使用されているとすると、上記寸法は「一材寸法」として「22.2cm」が基準長として使用されたはずであり、当てはめて計算してみると「身屋寸法」で「21.97262尺」、「庇寸法」で「15.05787尺」、全幅として「74.06098尺」となり、いずれも「22尺」「15尺」「74尺」という「完数」に非常に近い値が得られます。
 これを完数と見たときの「誤差率」としては、各々0.124%、0.0824%、0.3858%となりますが、「曲尺」や「米田流」の値をとったときよりも優秀な値が得られています。
 「曲尺」の場合の誤差率は各々「0.6172%」、「0.2955%」、「0.4861%」となります。「米田流」ではやはり各々「0.805%」、「0.8645%」、「0.0185%」となり、全体として「三等材」という前提の計算が最も整合していると思われます。ただし、全幅としては「米田流」が最も優秀のようですが、完数と言うより0.5尺が余計につくあたりに疑問を感じます。
 そもそも設計の際には「全幅」というのは基本中の基本として(敷地との兼ね合いもあるため)押さえられていたはずであり、それが「0.5尺」がつくような寸法となるとは(そのような寸法を初期値として考慮するとは)考えられないと思われます。
 それら寸法の他の重要な要素が「帰納的」に計算される場合があるのを除いて、「全幅」は純「完数」になるであろうことを考えると、「庁堂法式」で建てられていると考えた場合が最も論理的であることとなるでしょう。
 このことから、「三十三間堂」に「三等材」が選定されたことはほぼ間違いないと考えられますが、その意味では「観世音寺」の「本堂」などと同一の「材」で作られていることとなります。しかし、本来「本堂」や「仏塔」などと「その他」の部分は「材」が異なるのが通常であり、「観世音寺」に当初からあったとすると、等級が同じであること自体が不審であると言えます。
 これは「法隆寺」のように「本堂」(金堂)と「五重塔」の方が「等級」が上である場合に有り得ると考えられ、この「三十三間堂」は本来「法隆寺」ように「二等材」や「一等材」で「本堂」などが建てられていたその付属物であったことを想定させるものです。
 可能性としては、本来「法隆寺」の寺域内に存在していたらしいと考えられるわけですが、実際には「観世音寺絵図」その他の史料から「三十三間堂」は「観世音寺」の敷地内に合ったものであり、そのことから「筑紫」に存在していた時点で、既に「観世音寺」敷地内へ「移築」(移動)されていたということを示すものと考えられます。
 この時点における「筑紫」都城の「条坊区画」の長さとしては九十メートルであったと言う事が考古学的に確認されており、「三十三間堂」はその長さが「百メートル」を越えるものですから、「区画」からはみ出てしまうこととなります。このため、「寺域」全体としては「二区画」を占有することが必要ですが、それは現「観世音寺」の遺構からも確認できます。

 「太宰府条坊」の「復元図」などを見ると「都城」の北東隅に位置する「観世音寺」遺構はちょうど「二区画分」を占めており、ここには「三十三間堂」と思われる「大房」が存在していましたから、それによりかなり大きく場所を必要としていたことが分かります。
 つまり、元々「三十三間堂」が存在していた「法隆寺」敷地内においても「二区画分」(東西方向)を占有していた可能性が高いと思われることとなるわけです。
 「筑紫都城」においては現在の「通古賀地区」に「宮域」があったと推定されているわけですが、「法隆寺」もこの至近にあったことが推定され、有力な場所としては「現在」の「左郭南方部」の「般若寺跡」とされている場所や、「都城」の外としては「塔原廃寺跡」などが挙げられます。

 前述したように「法隆寺」という寺院は「元興寺」として建てられ、「勅願寺」として「筑紫」に存在していたと考えられるわけですが、「書紀」では「天武紀」の「六七九年」に「寺名」を「定めた」という記事があり、これは「三十四年遡上」と考えられますが、実際には「六四五年」に出されたものと推量され、この時点で「元興寺」は寺名変更され「法隆寺」へ変更になったと理解されます。
 この「寺名確定」の「詔」では、「通称」について「正式名称」を制定したものと考えられ、たとえば「斑鳩尼寺」は「法興寺」という正式名称がこの時点で付与されたと考えられます。

 「法隆寺」の前身が「斑鳩寺」ではないのは「地下の遺構」から明瞭であり、「斑鳩寺」は「六二〇年」「庚辰年」に火災により「焼亡」してしまい、その後「更地」となっていたことと理解されます。
 そして、「七世紀半ば」になり、「半島情勢」の悪化や「東国」統治の徹底のために「難波」に「副都」を設けるとともに「筑紫」都城についても、拡大強化を図ります。そのために「筑紫宮殿」を移動させる事業に着手し、これを完成させるとともに、「法隆寺(旧元興寺)」を移動させようとして解体し、「三十三間堂」だけを先に移築完了した時点で「半島情勢」が急展開したものと思われます。そのため「法隆寺(旧元興寺)」の部材は長年解体されたまま「放置」されていたものであり、また「都城」の片隅には「三十三間堂」だけが取り残されて建っていたものです。


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/05/06)


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