「法隆寺」の「金堂」の外陣に「四天王」像があります。この「四天王」像について「水野孝夫氏」の研究があります。以下はそれに準拠します。
それによると、「四天王像」は、その足元に「邪鬼」を踏みつけていますが、その「邪鬼」は両手は高く差し上げ、何かを掴んでいるような形になっています。(実際には何もつかんでいません)
これは何を意味するかということは平安時代に書かれた「別尊雑記」という当時の寺院などの本尊などを写した「図象集」を見ると分かります。そこには当時「難波四天王寺」にあったといわれる「四天王」像が描かれており、そこでは踏みつけられた邪鬼が「四天王」の武器である「戟」とその「鞘」を両手に握っているのが分かります。
「法隆寺」における「四天王」像に踏みつけられている「邪鬼」も、本来その上の「四天王」の持つ「戟」と「鞘」を握っているはずなのですが、実際には何も握っておらず(空間の配置が違っていて握ることができない)、不自然な状況となっているのです。このことから、法隆寺の「邪鬼」と「四天王」像は統一的に(同時に同一人物の手により)製作されたものではないことがわかります。
ところで、「一一四〇年」に「大江親通」が著した「七大寺巡礼私記」には、「法隆寺の四天王像は四天王寺の像を写したものである」と書かれています。また「一二三八年」頃に僧顕真が著した「古今目録抄」(聖徳太子伝私記)でも、「四天王寺」の「四天王」と「法隆寺」の「四天王」は同じである、と伝えています。
「別尊雑記」に描かれた「難波四天王寺」の「四天王像」を見ると、「邪鬼」の上に「直立」して立ち(踏みつけているというわけではなく)、中国南北朝自体の様式と思われる武人の姿を表しているらしい服装やその表現方法など、基本的に「現在の」「法隆寺」の「四天王」像と確かに非常によく似ています。
法隆寺の「四天王」像は美術史的には「推古仏」と同時代のものと考えられており、「百済観音像」、「夢殿観音像」などと同様に古いものと考えられますが、「法隆寺」の資材帳には記載がなく、当初から「法隆寺」に存在したものかは不明とされています。
以上の事から、色々な可能性が考えられますが、これらから言えることは「四天王寺」の方が「法隆寺」より「古い」という認識を多くの人が持っていたことではないでしょうか。
実際「法隆寺」は「若草伽藍」後に作られた後代のものであるのに対して「四天王寺」は「聖徳太子」の御願により作られたとされており、古くから存在していたとみなされていたものです。
現在の難波「四天王寺」は後に再建されたものですが、創建自体は「法隆寺」よりも古く「五九三年」と伝承では伝えられています。
つまり、「法隆寺」が造られるときには「すでに」「四天王」像はあったわけであり、それを真似て(と言うより基本として)「原・法隆寺」(元興寺)にも作成されたのではないでしょうか。
その後「四天王寺」は幾度も戦災に逢い、現在は当初のものは全く残っていないと考えられており、この平安時代に描かれた「別尊雑記」によってのみ当時の姿が分かるのです。
この「四天王寺」の「四天王像」(それは「法隆寺」の「四天王像」も同様となるわけですが)は、その「意匠」から考えると、「南北朝」時代の「士大夫」(というより「武人」)の服装を模しているとされ、「百済」的ではないとされます。このような「意匠」は「南朝」の「漢文化」の影響を「北朝」が受けた中で作られたものとされ、「北朝」に起源があるものと考えられています。
「四天王寺」はその建築様式がいわゆる「四天王寺式」というものの代表であるわけですが、この様式は「高麗」から「百済」へとつながる形式であり、「飛鳥寺」同様「百済」の影響により建てられていることは明らかと思われますが、「四天王像」に関しては「北朝的」であるとされているわけです。
また、「法隆寺」の「四天王」像については、その形式などから「創建時」の物とは考えられるものの、「移築」時のトラブルのため(「邪鬼」像が破損ないしは紛失したものか)、近畿「明日香」に移築されてからかなりの間「金堂」には「立って」はいなかったのではないかと推察されます。(資材帳に記載がない理由もそのあたりが関係しているのではないでしょうか)
完成時より後のある時点で「邪鬼」像が他から招来されたものと考えられますが、「四天王」像との組み合わせに難があり、結果的に異質な姿となったと考えられます。
招来された「邪鬼」は大きいものであり、これは本来は足を開いて文字通り踏みつけている姿の「四天王」像が乗っていたものと考えられ、(この事から元々この「邪鬼」とそれが乗っていた「四天王」像は「天平」以降のものと推察されます)そのため「推古朝」の姿をとどめていると考えられる「古い」「四天王」像とでは手の位置と「戟」や「鞘」の位置が異なっているのです。この「邪鬼」が将来された時点で「四天王像」も建てられることとなったものと見られ、それはかなり後代のことではなかったでしょうか。
こう考えると「別尊雑記」の絵と現「法隆寺」の「四天王」像とが非常によく似ていること、「邪鬼」に関連する状況が違うことの説明になると思われます。
そもそも「四天王」とは「金光明経四天王品」にあるように「釈迦」を守護する「持国天」「広目天」「多聞天」「増長天」の四天をいい、「邪鬼」を踏みつけ、武器などをかまえた武将の姿で表わされるものです。
「利歌彌多仏利」により「阿毎多利思北孤」が「釈迦」に擬されていることは前述しましたが、この「四天王」像を配置した「四天王寺」も「阿毎多利思北孤」のために建立されたものと思われ、この「四天王像」の守護する相手は「釈迦」ならぬ「阿毎多利思北孤」であると思料します。そう考えるとこの「四天王」は実際の「阿毎多利思北孤」配下の有力者を模したものという可能性もあるでしょう。
ところで、この「法隆寺」の「四天王像」(広目天)の「光背」に作者として「漢山口直大口」という「名前」が書かれています。彼は前述したように「難波宮殿」建設の際に「奉詔」して「千躰仏」を刻んだとされています。
「白雉元年(六五〇年)…是歳。漢山口直大口奉詔刻千佛像。…」
この「千躰仏」に関しては「法隆寺」の「玉虫厨子」に「千躰仏」が「レリーフ」されています。「玉虫厨子」は「金堂」の完成模型と言われていますが、実際の「金堂」には(法隆寺全体としても)「千躰仏」はありません。つまり、この「千躰仏」がどこにあるかが問題となっていたのです。しかし「千躰仏」を刻んだとされる「漢山口直大口」は、「四天王像」も刻んでいるわけですから「法隆寺」に非常に関係の深い人物であることが分かります。この事から「千躰仏」も必ず「法隆寺」のどこかにあるはずであると考えられますが、それは「三十三間堂」という形で「筑紫」都城の「王宮」の至近に存在していたものであったものです。(これについては後述)
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/04/06)