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「瓦編年」について

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 「九州」では「四一八年」の仏教伝来以降「倭の五王」の時代の後半(「済」「興」「武」のころ)はすでに「仏教」文化がかなり浸透し、「鬼道」につながる「古神道」勢力もかなり根強かったとはいえ、「仏教」に対する理解もかなり深くなって来つつある時期であったと考えられます。それを示すように前述したような「九州年号」に関連する事実(「法師」の出現や「万葉仮名」の完成など)も現れ、遅くとも「六世紀」の初め頃には「寺院」なども「九州」では作られていたのではないかと考えられます。
 もっとも「九州」における「古代寺院」というものは、ほぼ「未確認」であるわけですが、それには一つ「理由」があるようです。それは「古代瓦」の「編年」の問題です。
 すでに「瓦」の編年についても疑問が出されています。(1)

 従来の「瓦」についての考え方は「『中央』の寺院が、当代における社会的実力からも、現実に残る遺構・遺物の上からも、さらには対応する文献史料の上からも、年代決定の基準とならざるをえない。」(「九州古瓦図録」九州歴史資料館)というわけであり、まず「中央」ありきなわけです。「中央」を「近畿」というように「アプリオリ」に決めてから、それに合うように「考古学的状況」を「理解」するという作業で「年代」を決めているわけであって、「非学問的」であることを自ら「暴露」しています。こういう「逆立ち」した方法論で「真実」は決して決められませんし、判明するものではありません。
 考古学とか古代学とは「過去」の「日本」がどのようなものであったかを、遺跡や文献などから「頭の中に」再現する作業であり、それにより「決定されるべきもの」の一つが「当時の政治中心」はどこであったか、と言う事です。このような重大なことを決定するのに「予断」や「先入観」があってはいけないのはいうまでもありません。
 そういう意味でいうと、「古代の瓦」の系統は「一本の線上」にあるものではなく、「複数」の系統が考えられるべきものであり、かつその「発信源」としても「複数」あったと見なければならないと思われます。

 それによれば「瓦」の分類から考えると、「古いタイプ」と従来考えられている「単弁軒丸瓦」は「明日香」タイプであり、「後期型」とされる「複弁蓮華文軒丸瓦」は「九州型」なのではないかという疑問が提唱されています。そして調査・研究の結果「九州」の「六世紀後半」の「古墳」から、「複弁蓮華文」が「型」から「押し出された」「馬具」などが出現していたのです。
 また「書紀」に「その場所がわからない」とされた「長安寺」と考えられる「朝倉寺」の遺跡から「複弁蓮華文軒丸瓦」が発掘されています。この寺の創建年代は「六世紀」半ばと考えられ、「近畿」に「仏教」が伝来して余り時間が経っていない時期と考えられ、この寺の創建に「近畿王権」が全く関わっていないことは明確です。
 他にも多数の「廃寺」がありますが、「中央」との関係に束縛され、「六世紀前半」と明確に創建が確認された「寺院」というものの存在は現段階では確認されていません。
 
 正倉院文書の中には「( 七三八年) 筑後国から、『造同( 銅) 竈工人』が献上させられた」という記事が残っています。この職人達は「東大寺」の「廬沙那仏」(大仏)建立の際に必要な「造銅」技術を伝えるために「筑紫」から輸入したものの様です。(「東大寺」の「大仏」は貢納十四年後の「七五二年」に「銅」が鋳込まれています)
 なぜ「筑紫」に「造銅職人」がいるのかというと、その「需要」があるからであり、「寺社」につきものの「銅製品」を「鋳造」する技術者が筑紫では必要であったし、また存在していたものです。
 また「古墳」から発見されることがある「銅鋺」(「仏」や「僧」に奉仕する斎(とき)の道具として使用されるもの)についても、出土場所と年代について、「初期」の「銅鋺」の分布が「九州」に濃密であり、年代も「五世紀後半」と推定されるものがある事が確認されています。)
 これらの事実に対して、従来の「見解」は「寺院」の「発生」は「近畿」が先行し、これが「九州」など各地に伝搬していく、と言うものなのです。このような理解・解釈が確認される「事実」と大きく食い違い、「矛盾」であるのは明らかです。
 実際には「寺院」に関する「全て」について「筑紫」(九州)が先行すると考えられるものであり、「国内」の「寺院」の「淵源」も「九州」にあると考えるべきでしょう。では「筑紫」(九州)にそのような「寺院」建築の「証拠」があるのでしょうか。

 たとえば「書紀」には「推古紀」の記事として「全国に寺が四十六ある」と書かれています。しかし「書紀」にその寺の名称が書かれているのは「二十三」箇所であり、全体の半分だけです。内訳は「明日香十七」、「摂津三」、「山城一」、「近江二」となっていて、圧倒的に「明日香」の寺しか名前が出て来ておらず「九州」の寺院は(あったとしても)全く名前が出ていないのです。しかし、「九州」にも寺院は(当然)あったわけであり、名前の書かれていない残りの寺院のうち、かなりの数が「九州」の寺院であった可能性が高いと考えられます。
 現在「九州」では「廃寺」や「寺院址」が数多く確認されています。しかし、これらの寺院が「いつ」「廃寺」となったのかは「書紀」はもちろん「続日本紀」にも「全く」記載されていません。しかし、現実に「廃寺」や「寺院址」があるわけですから、「いつか」の時点ではこの地上に「寺院」として存在していたものと考えられるわけです。

 「九州倭国王朝」に関係すると考えられる「寺院」については「八世紀」に入ってから「露骨」な「締め付け」がありました。
 たとえば、「川原寺」という寺院がありました。この寺は「天智天皇」が彼の母親とされる「斉明天皇」を弔うために元は「川原宮」だったと考えられている場所を「寺」に改造したもの、と考えられていますが、(現在も「白瑪瑙石の礎石」が残っており、大変珍しいものです)しかし「八世紀」に入ると「藤原京」から「平城京」に遷都することなった際には「大安寺」、「元興寺」(この「元興寺」は「法隆寺」ではなく現在の「飛鳥寺」の直接の前身寺院と思われる)、「薬師寺」等は新都に移築(移転)されることとなりましたが、「川原寺」は移築されず、その地に残されました。
 さらに、天平勝宝元年(七四九)「聖武天皇」は施物墾田を諸寺に施入しましたが、「法隆寺」、「川原寺」、「四天王寺」は「貧弱な」量の施入に過ぎませんでした。
 加えて、同じ年の七月、「諸寺墾田地限」が定められましたが、やはり「川原寺」、「法隆寺」、「四天王寺」、「平城薬師寺」などが非常に少ない面積しか墾田することを許されなかった事実があり、これらの寺院が低い扱いであるのは、これらの寺院が「九州倭国王朝」に非常に関係の深い事が関係していると考えられ、「新日本国」政権の恣意的な処置と考えられるものです。
 「近畿」における「九州系」寺院でさえ、この扱いであったわけであり、「九州」の「当地」の寺院に対してはより「厳しい」扱いとなったものと推察されます。(「寺封停止」あるいは「廃棄」処分など)このように「収入」が断たれた「寺院」は「廃寺」となるしかないわけであり、「九州」に「由緒」などが不明の「廃寺」の多い理由もこのようなものだったと考えられるものです。

 これら各種の事実が指し示すことは、「仏教」文化そのものが「近畿」からの「伝搬」として考えるという従来の立場は「破綻」していると言わざるをえないということです。
 これらの考え方の根底にあるのは「五世紀以降」の「日本列島の『盟主』は『近畿』の王権である」という一種の「テーゼ」であり、それは「無証明」で使用されています。
 つまり「倭の五王」以降の「近畿」の巨大古墳について、これがその古墳の大きさに見合う巨大権力の存在証明というように考えているわけですが、「前方後円墳」の「淵源」から考えても、「九州」にその権威」の根源があったことは明白であり、決して「近畿王権」の権力が「何に依拠することもなく」存在していたのではないのです。
 そう考えるとこの「五世紀」という「倭の五王」の段階においても「九州」に「権力」の中心があったことは確実であり、「古墳文化」の衰退と「仏教文化」の受容と発展という歴史の歯車の回転において「九州」の果たした役割が非常に大きいことに留意する必要があります。「仏教文化」の受容は即座に「古墳」に代表される倭国の古典的文化との決別ですから、これが真っ先に行われた地域こそが「倭国」の中央たる地域であると理解できます。それは「西日本」であり、「筑紫」です。


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/04/06)

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