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仏教文化の受容の地域差について

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 「法隆寺」と「元興寺」が同一である可能性について言及したわけですが、そう考えた場合、「寺院」は南朝形式であるにも関わらず、「本尊」は「北朝」系のものであると言う、一種の「パラドックス」が発生することとなります。
 たとえば、「建築技術」などは「筑紫」は他の地域に比べかなり先行していることが指摘されており、逆に言うと「南朝」(あるいはそれ以前の「魏晋朝」)と通交している期間に習得した技術が筑紫地域に留まり、他の地域へは伝わっていなかったこととなります。(すでに見た「如意寶珠」信仰も同様であったもの)
 「北朝系」の仏教文化というものを「王権」として受容することとなったのは、「南朝」が滅び「隋」が成立した後、「遣隋使」を派遣したというタイミングであったものと見られ、この時点以降「北朝」系の文化を「王権」として「受容する」ということになったと見られます。
 例えば「筑紫」などで確認される「瓦」の早い時期のものはほとんど「複弁蓮華紋」であり、それは「北魏」から「隋」に始原があるものですから、これらの「瓦」に関する知識と技術が「北朝」から取り入れたものであることを示します。それは「瓦」以外の「十七条憲法」や「冠位制」などの「制度」にも現れているといえます。

 これに対し「近畿」では「百済」から「仏教文化」が伝来したため、「百済」で主流であった「単弁(素弁)蓮華紋」が伝わったと考えられます。それは「百済」から「瓦博士」などを将来していることでも判ります。
 そもそも「単弁(素弁)蓮華紋」という形式の瓦は本来「南朝系」のものであり、それが「百済」に伝わったものが「近畿」に伝来したことを示しています。(特に「梁」の時代に瓦や建築様式などが「百済」へ伝来したと見られます)
 このように、「近畿」地域では「百済」から建築技術者や、瓦技術者などを導入し、その時点以降「倭国王」から発せられた「寺院」建築指令に応えていき、「高句麗」などの流れをくむ「百済様式」寺院(「四天王寺」などの一連の寺院)が次々と造られていくこととなったわけです。
 「近畿」の寺院が純粋に「百済系」(南朝系)と言うより「高麗」の影響を受けた部分があるというのは、例えば「建物」の「基礎」の施工法に現れており、「近畿」では地中深く埋めるという「北朝的」な技術が採用されていることに現れています。
 「北朝」のある「華北」の地は基本的に「寒冷」であり、そのような場所にあっては「地下深い基礎」であっても「木部」の腐食はそれほどの進行ではなかったと考えられますが、「南朝」のあるような温暖な土地では、無視できないほどであったと見られ、それもあって「基礎」を地上に出して、木部に埋設部分が全くない方式が早期に確立したものと思われます。
 これはその土地柄で有効な技術が個別に発達したことを示すものであり、それが「倭国内」においても「区分け」されているように見えるのです。つまり「飛鳥寺」などの近畿の寺院では「北朝的」な「基礎」の上に「南朝的」な建物が建っていて、その上にまた「南朝的」な瓦が乗っていると言うこととなります。
 これに対し「基礎」を地上に出す技術は「南朝」的であり、「魏晋朝」から「筑紫」(倭国九州王朝)へ伝わった技術と思われます。そのようなものを採用していると思われる「元興寺」では「基礎」及び「建築技法」などは「南朝的」、「瓦」や本尊及び「四天王」像などは「北朝的」と分けられていることとなるわけです。


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/04/14)

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