「書紀」の記事の中で日付入りの記事について(計一六六三件あります)調べてみると、興味深いことがわかります。以下「貝田禎三氏」の研究(「古代天皇長寿の謎」六興出版) に準拠します。
この日付は「干支」で表されているわけですが、この日付を「日」について着目してその分布を調べてみると、「推古紀」の前後で明らかに様相が変わっているのがわかります。
「推古紀」以前では、一部の天皇を除き、一日から十五日までの日付しか記載されていないのです。言い換えると十六日から三十日までの日付の記事が存在しないのです。(1)
しかし「皇極紀」以降はこのような偏りは見受けられません。
この理由となる事はいろいろ可能性が考えられますが、(たとえば記事の内容そのものに偏りがあるのではないかとか、日付の偏りに別の意味があるのではないかとか)いろいろな調査の結果はいずれの可能性も否定するものでした。
なぜ日付に偏りがあるかの可能性としてもっとも有力なものは「この時代の一月は十五日までしかなかった」というものです。つまり推測される古い暦では一月は十五日しかないし、また一年は六ヶ月しかないようなものであると思われます。
また同様に「月」に着目して「書紀」を点検すると「日」と同様に偏りがあるのがわかります。「推古紀」以前には一月から五月までと七月から十一月までに記事が集まり、六月と十二月の記事が極端に少ないのです。
これらからも以下のことが考えられると思われます。つまり、古代の日本では今の昼に当たる時間が一「ニチ」にあたり、夜に当たる時間は別の一「ニチ」でした。また、新月から満月までが一「ツキ」で、満月から新月までがまた一「ツキ」という具合であったもののようです。さらに、六月と十二月に日付記事が極端に少なくなり、避けられているようであり、「六月の大祓」「十二月の大祓」という月の特性が関係していると思われ、冬至から夏至までの一「トシ」と夏至から冬至までの一「トシ」という具合に、太陰暦の半年ごとに年の切れ目があるように思われます。つまりすべてが通常の太陰暦の半分であったと思われます。
「書紀」の編者がこの事に気が付かず、残っていた記録の数字をそのまま太陰暦(「儀鳳暦」と「元嘉暦」)に当てはめた結果月の前半の日付しか出現しない状況になっていると思われます。
これは「魏志倭人伝」の「斐松之」の注による「二倍年暦」そのものである、と考えられます。
「魏志倭人伝」には南朝劉宋の「斐松之」が校定した刊本がありその中では「魏略」という書物からの引用が書かれているものがありますが、この「魏略」は「二八〇年」「魚拳」により書かれた魏の歴史書で、陳寿がまとめた「三国志」に先立つこと二〜三年の書物です。(現在は失われています)
以下が「魏志倭人伝」の「斐松之」の注が引く「魏略」の記事です。
「魏略曰 其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」
この記事は既に述べたように「貸食」の期限とも関連していると思われ、「春耕」から「秋収」までを一年とすると云う「決まり」があったものと見られ、それに基づき「利息」などが計算されていたと見られます。
一般には太陰暦が普及していなかったとすると、この「貸食」の規定(慣習)による「一年」が生活全体を規定していたとも考えられ、これが「暦」の代わりをしていたとすると、やはり「春耕」から「秋収」までを一年として、その「裏側」とでも云うべき「冬期間」に別の一年があったと見るべき事となるでしょう。(その期間については「結縄」により日数を数えていたものではないでしょうか)
「不知正歳四節」と言う注は「倭国」だけのものですから、他国と違い「倭国」では「二倍年暦」が行われており、それは「倭国」の「稲作」に伴う伝統的な慣習であったと考えられます。
「漢」の頃、「干支」を導入し、「年」を数え始める以前から、この「二倍年暦」は国内にあったものと考えられ、これを使用した「祭祀」が国内で継続されてきていたものと考えられます。そして、「干支」及び「暦」(太初暦ないしは後漢四分暦)が導入されても、宮廷内の「祭祀」や「起居注」のような記録は全て「二倍年暦」で行われてきたものと考えられ、それは「元嘉暦」が伝わったと考えられる五世紀半ば以降についても同様であったものと考えられますが、「七世紀」のはじめに「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の時代になって、大きく変化したものと推察されます。
一般には「五世紀」の「倭の五王」の頃に中国から太陰暦(元嘉暦)が伝わるまで、倭国に「暦」なし、と考えられてきていました。この「元嘉暦」が伝わった後については、宮廷記録や諸々の交渉などについて、この新しく伝わった暦を使用して記録され、それは「書紀」成立時にも確定した記録として残っていて、それにより「書紀」などが書かれたものと推測されていたのですが、「元嘉暦」伝来以前(五世紀半ばより前)については、説話は残っていても「日付」に関する記録はない、と思われていたのです。
しかし、「書紀」の日付が物語るものは、書かれた記録として(あるいは口承として)日付が残っていた可能性があると言うことです。
当時導入された「後漢四分暦」も宮廷内で使用されていた「時期」もあったかもしれませんが、従来の「二倍年暦」に取って代わることは出来なかったものと思慮されるものです。そのため「記録」としては「二倍年暦」しか残っていなかったのではないでしょうか。
そして、「書紀」編纂時に、その日付記録を、太陰暦(儀鳳暦)に換算しようとして「処理」を誤った可能性が高いと考えられます。
もし、十五日までしか日付がないのが「書紀」編者の故意(作為)であるとすると、一部の天皇には三十日まで日付記事がある事が逆に奇妙な話になります。全ての天皇紀にまんべんなく日付が散らばっていないのは、真実の反映と考えられると思われます。
このことは日付を換算(古暦から太陰暦へ)する担当の人間にはすでに理解できなくなっていた事を意味するものであり、「彼」には(彼らには)古暦についての「共同体」としての記憶が失われていた、という事が考えられます。
「書紀」をまとめたのは「近畿王権」の人たちであり、彼等には古暦(二倍年暦)が理解できなかったと思われるわけですから、遡って言うと彼等は「魏志倭人伝」の「倭国」の人たちではない、といえると思われます。
倭国王「阿毎多利思北孤」と「摂政」である「太子」「利歌彌多仏利」は「遣隋使」を送り、「隋」から多くの制度を導入しました。ただし、「柵封」はされなかったため、「暦」については自前で用意する必要が生じたものです。そのための知識を身につけた「天文官」を配員し、「暦」の作成を開始したもの思われます。それまでは、宮廷記録(「起居中」のようなもの)を古暦(上記二倍年暦様のもの)によって記録していたのですが、それを止め、この「太陰暦」による記録へと変更したもののようであり、これ以降については全てが「太陰暦」で記録されるようになったもののようです。
「但計春耕秋收爲年紀」という表現からは、この「二倍年暦」が稲作と深い関係があることが分かります。この暦(二倍年暦)は紀元前に「倭国王朝」が建国された時点以降使用されていたものではないかと考えられ、「光武帝」より金印を収受するなど「後漢」と関係ができて以来「太陰暦」(四分暦)が王朝内で使用されるようになった模様です。(二中歴による)
しかし従来の「二倍年暦」による「日読み」も口承(暗記)者により継続して記録され、使用されていたと思われます。
稲作と王朝の継続には深い関係があり、二千年以上経過した現在の天皇家の行事にも、数々の稲作関連のものが遺存しているわけですから、当時としてみれば「暦=日読み」が王朝にとっての重大な行事(行政)であったものと考えられます。このような中で日付とそれにリンクした宮廷行事を記録する、ということが王朝の伝統と正当性の保持に一役買っていたものと考えられます。
太陰暦導入に当たっては改めて「暦博士」のような人材も配置されたのでしょうが、「王朝内の地位」という点では従来の「日読み」者のほうが高かったであろう、と考えられます。もちろんその地位を巡る葛藤は王朝内であったでしょうが、急に新参者に取って代わられることはなかったものと思われます。
それがこの「利歌彌多仏利」の時点で「完全」な「太陰暦」使用となり、「宮廷内記録」も「口承者」ではなく「暦博士」による「暦」が使用されるようになったものと考えられます。
そして、それを示すように「書紀」の「皇極紀」以降は「日付」の偏りは全くなくなります。日付は一日から三十日まで「満遍なく」散らばっており、それは「完全」な「太陰暦」に基づいて書かれていると考えられ、「古暦」に基づくものではなくなっているものと考えられます。
これは前項で見たように「占星臺」と「漏刻」が置かれ「本格的」に天文観測が始められ、「暦」を自力で作ることが可能となったことを示すと考えられ、そのため「日付記事」が「三十日」まで現れることとなったと思料されます。
一般には「書紀」に使用されている「暦」は「元嘉暦」と「儀鳳暦」であり、「五世紀」後半に「南朝」で「元嘉暦」が造られて以来「書紀」の最後までが「元嘉暦」で書かれていて、「元嘉暦」が伝来する以前の時代には逆に「七世紀」に「新羅」から伝来した「儀鳳暦」が使用されていると考えられています。(この点は後で見るように「誤解」であり、「儀鳳暦」はあくまでも「唐」から伝来したものであり、「新羅」では「儀鳳暦」ではなく「麟徳暦」が使われていたものです)
しかし、上で見たように「書紀」の「暦」は「旧暦」(倭暦)を「元嘉暦」に「変換」したものが「推古紀」まで使用されており、「皇極」以降になって初めて「完全」な「元嘉暦」で書かれているのです。
このことは「古事記」が「推古記」で終わっていることと深い関係があると考えられ、「原・古事記」が編纂されたと考えられる「利歌彌多仏利」の時代、「旧制度」のかなりのものが廃止されたことと対応していると考えられます。
廃止されたものの中には「薄葬令」に基づく「前方後円墳」の築造もあったものであり、ここで行われていた「祭祀」の廃止と「太陰暦」採用との間には深い関係があると考えられるものです。
この「祭祀」の際には、亡き倭国王及び歴代の倭国王の「古記録」(誄(しのびごと)のようなものでしょうか)を読み上げるような「セレモニー」が行われていたと推察され、その際には「倭暦」(二倍年暦)に基づいた「読み上げ」が行われていたものではないでしょうか。
そして、「前方後円墳」が廃止になり、その様な「祭祀」も併せて行われなくなると、「倭暦」も顧みられなくなり、「宮廷内記録」も全て「太陰暦」に置き換えられることとなったものと思料します。
(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2014/09/24)