ホーム :「阿毎多利思北孤」王朝 :隋書倭国伝 :倭国の諸情報 :


その他風俗

前へ 次へ

 この「隋書倭国伝」では「魏志倭人伝」と同様「氣候温暖、草木冬青」とあり、また「人庶多跣足」とありますから、冬でも滅多に雪が降らず、「裸足」でも歩けるような温暖な気候であるように書かれています。これも「近畿」というより「九州」の内陸部の方が明らかに似つかわしいと思われます。
 
 また婚姻に関する風俗で「嫁に入るときはまず『火』を跨ぐ」という風習が書かれていますが、婚姻儀礼には、しばしば祓(はら)い清めの意義をもった呪術的儀礼が伴っていた事を物語るものです。
 現代は同じような風習はさすがに残っていませんが、古代でこの「嫁入りの時に火をまたぐ」という習俗が集中的に分布していた「関東地方」と「長野県」では、それに加えて左右に掲げられた松明の間を花嫁にくぐらせる形式の儀礼も行われていました。
 これは「文化のドーナッツ現象」とでも言うべきものであると思われ、「地方」である「関東」や「信州」地方に遺存している文化は本来「筑紫」の文化であったと思われ、それは「諏訪」と「宗像」の関係を考えると分かることでもあります。
 また、「筑紫」など同様、「君」姓である「上毛野氏」の存在があります。彼等は後の「百済」への軍派遣の際にも関東から唯一の勢力として「将軍」として派遣されるなど、「王権」との距離がよほど近かったと思われ、「風俗・習慣」などにおいても共通のものがあったと考えられます。
 またこの風習は中国東北地区の満州族の間にもつい最近まで行われていたものでもあるという研究もあり、「北方系」の習俗のようでもあります。このようなものは「新羅」を通じて伝わったものではないかと考えられ、「筑紫」を含め、これらの地域と「新羅」の関係を考えさせるものです。)

 また「毎至正月一日、必射戲飲酒」とあり、「大射礼」が行われていたようです。これは一種の矢当てコンテストであり、後の「筑紫」宮殿以降の宮廷でも熱心に行われ、かなり賑やかな催しであったようです。
 これが行なわれた日付は「一日」とされていますが、後の宮廷行事としての「射礼」はおよそ「十七日」前後の日付が選ばれていたようであり「八世紀」以降は正式に「十七日」となったとされます。
 ちなみに「書紀」で「射礼」記事が出てくるのは「大化二年」記事が最初であり、以降「不連続」に現れます。この「隋書倭国伝」記事によればもっと早期から行なわれていたようにも見られ、「七世紀前半」の「空白」が理解しにくいところです。これについても「書紀」の記事には「移動」が考えられるものであり、本来の年次はもっと早かったのではないかと考えられます。(詳細後述)
 この「射礼」は当初は「ゲーム」的感覚であったようですが、後には「軍事的緊張」が高まると、実戦的なものとなったと見られ「命中率」に応じて褒賞が出るなど、競争的雰囲気の中で行なわれるようになった模様です。

 また「食事」の際の方法として「藉以柏葉、食用手餔之。」と書かれており、「柏」の葉っぱで食事をしていたことが書かれています。
 後に「有馬皇子の乱」事件の際に、捕らえられた有馬皇子が刑場に連行される途中詠んだという「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」という「辞世」の歌がありますが、この時代になると「笥」という食器に盛っていたようです。これは「遣隋使」などが持ち帰った知識を導入したものと思われます。しかし、宮廷で「食事」を担当する人の職掌を「膳部」と書いて「かしわで」と読むなど、名称としてはその後も遺存したことがわかります。(ここで彼が「椎の葉」に盛って食事をしている意味は別途述べます)
 
 また、「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」と書かれており、活発な半島との接触が書かれているようです。ただしこれは「倭国」からの使者の自称である可能性が高いですから、全て事実と考えるのは早計であり、ある程度身びいきがあったと考える必要があるでしょう。
 また、ここには「高句麗」との関係が書かれておらず、関係が疎遠であった可能性を示唆しますが、それは「元興寺」の丈六仏を造る際に「高麗」から「黄金三百二十両」を調達したという「書紀」の記事と明らかに反するものです。これはその「大興王」が本当に「高麗王」なのかという点で疑問が惹起されるものではないでしょうか。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2014/09/13)

前へ 次へ
倭国の諸情報 に戻る