各種の史料を見ても、「孝徳朝」或いは「難波朝廷」「難波長柄豊前大宮御宇」という名目の元に「評制」が施行されたらしいことはほぼ確実となっています。それは疑う余地がありません。この事から(例えば「古賀氏」は)「七世紀半ば」に「評制」が施行されたとするわけです。しかし、このような「難波朝廷=七世紀半ば」とする考え方には、「実は」確たるものがないと思えます。
意外に思うかも知れませんが、実際問題としては「孝徳朝」が「七世紀半ば」であるという「証明」はどこにもないのです。もちろん「書紀」「続日本紀」等にも「絶対年代」は書かれていません。
各種史料に表されているのは「干支」と「九州年号」或いは「近畿王権」の年号だけなのです。ですから、「年次移動」は割と簡単に行えます。(「書紀」などの編集段階での話ですが)
煎じ詰めて言うと「正木氏」の「三十四年遡上研究」もそれが成立する余地は「絶対年代」が書かれていないという一点にあります。年次を動かして考えられるのは、記事自体がそのような性質を元々持っているからです。
これは「年輪年代測定」など「絶対年代」を特定できる、或いは狭い範囲に追い込める精度の高い測定法によってのみその記事の信頼性を担保できるのであり、それ以外では結局の所、年次を特定する、或いは「絶対視」することは決して出来ないことと考えます。「瓦編年」や「土器(須恵器)編年」では、どこかで「書紀」と「リンク」して考えていますから、完全に「書紀」「続日本紀」から「フリー」となるような方法論を駆使しなければ、従来の観念から逃れることは出来ないと思われます。
例えば「古賀氏」のブログの中にもそのような「呪縛」ともいえる部分が垣間見えます。
「…次にその時期についてですが、「難波朝廷天下立評給時」とありますから、「難波朝廷」の時代です。『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。九州王朝の「行政文書」が原史料と思われますから、そこには九州年号が記されていた可能性もあり、7世紀中頃であれば「常色(647〜651)」か「白雉(652〜660)」の頃です。いずれにしても『皇太神宮儀式帳』成立時期の9世紀初頭であれば、その時代の編纂者が「難波朝廷」と記す以上、孝徳天皇の時代(7世紀中頃)と認識していたと考えられます。…」(古賀達也の洛中洛外日記 第601話 2013/09/29「文字史料による「評」論(3)」)
ここには「『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。」と書かれており、「難波朝廷」が「七世紀中頃」であるということが(遺憾ながら)「無批判」に認定されています。(一種の「思い込み」と思われます)
しかし、「天武」「持統」の両年紀に移動の可能性が指摘されているのに、「孝徳紀」が無傷であるとアプリオリには断定できないはずです。
また、「難波朝廷」という言い方或いは「名称」は「九州王朝」という観念に附属していると考えるべきと思われます。なぜなら「難波朝廷」は「九州王朝」の「副都」とされているのですから。そうであれば各種史料(例えば「皇太神宮儀式帳」など)に「難波朝廷」と出てくるものについては「書紀」と切り離して考えるべきであり、「難波朝廷」が「七世紀半ば」のことなのかどうかは「書紀」の記述にかかわらず別途証明が必要な事項と考えます。
少なくとも、「難波朝廷」を「七世紀半ば」とする「決定的証拠」はないこととならざるを得ません。というより、そのような点に着目して「書紀」等の史書の記事を眺めてみると、逆に「難波朝廷」が「七世紀半ば」ではない、という「徴証」或いは「傍証」が多く得られるのを確認できます。