「書紀」では「天武紀」に「諸国限分」を行った記事があります。
「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
この記事によれば「諸国」とありますが、実際には「限分」されたのは全て「東国」です。それは以下の記事が証明しています。
「(天武)十四年(六八五年)秋七月乙巳朔辛未条」「詔曰。東山道美濃以東。東海道伊勢以東諸國有位人等。並免課役。」
この中の「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国」という言葉からは、「分限」されたのが「東国」諸国であったことを示しています。これは「評制」施行のために「境界画定」作業を行なったことを意味するものであり、その労苦に報いて「課役」を免除するという措置を下したものでしょう。これは「東国」に対する一種の懐柔策であると思われます。
もともと、各地域にはその地を牛耳る権力者がおり、彼とその地域を防衛するための兵力は以前からあったものと思われますが、「評制」の全国的施行により(それは「官道整備」と関わるものと思われますが)「倭国王権」の支配が全国に透徹するようになったものと思われ、諸国からの農作物を始めとする物品の徴収あるいは搾取が可能となったほか、「直接」的兵力調達が可能となったものと思われます。
それまでの「地域的ボス」(これを一般には「在地首長層」という言い方をするようです)だけが「兵力」保持できるものであったものが、この「評制」施行により「倭国王」が直接的に「兵力」を確保することが可能となったものと考えられます。そして、これらの兵力のうちの一部は「筑紫」(=畿内)の外部防衛線を形成するものとして徴発されたものであり、このような人々が「防人」(戌人)と呼ばれた人たちです。
この「兵力」確保については、この「評制」施行時点ではまだ「八十戸制」であったと考えられ(後述)、その時点ではまだ本格的な「軍制」は定められていなかったと見られますが、「遣隋使」が派遣されて「隋制」が導入されて以降「五十戸制」に変わったものと見られ、それによって「戸制」が「軍制」に関連させられることとなったと見られます。
つまり「後の」「養老令」によると「軍隊組織」の基本である「隊」(一隊)の人数は「五十名」であり、これは「一戸一兵士」で選出するのが「基準」とされていたのではないかと推測されるものであり、それは「二〇一二年六月」に「大宰府」から発見された「戸籍木簡」でも「兵士」と書かれた人物は一名だけであったことからも理解できると思われます。
つまり、この事はこの時点以降「評」や「評督」そして、その頂点にいたと考えられる「都督」など「軍事的組織」と「戸制」とが強く結びつくこととなったと考えられるものです。
この「六世紀末」という時期に「一隊五十人」を基礎単位とする「軍制」があったと考えられるのは、「書紀」で「蘇我入鹿」についての描写で「五十人」の兵士に警護されている様子が描かれていることからも推測できます。
「(皇極)三年(六四四年)冬十一月。蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡。稱大臣家曰宮門。入鹿家曰谷宮門。谷。此云波佐麻。稱男女曰王子。家外作城柵。門傍作兵庫。毎門置盛水舟一。木鈎數十以備火災。恒使力人持兵守家。大臣使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東。穿池爲城。起庫儲箭。恒將五十兵士続身出入。名健人曰東方■從者。氏氏人等入侍其門。名曰祖子孺者。漢直等全侍二門。」
このように「蘇我氏」は「私兵」を所有しており、それは国家の軍隊と同様「五十戸制」に則っていたことが推定され、自家の領地とされる場所から「私兵」を徴集する権利を有していたものと見られます。(※)
このように「利歌彌多仏利」により制定された「軍制」では「一戸一兵士制」で「兵士」が選抜されたと見られますが、それらの人々のうち「首都外縁」の防衛任務についたものが「防人」であると考えられ、これにより従来「評制」と「防人」はまったく別のことと考えられていたものが、実は強く結びついた事柄であると考えなければならないことを示すと見られます。
ちなみに、「防人」関連記事の初出は「改新の詔」です。(これは「書紀」の通常の理解では「六四六年」)この「改新の詔」の中で「防人」について触れているのですが、この「詔」の中身についてはこの時点で実行されたものではないと考えられており、その意味でも「防人」ももっと後代のものであるという理解がされているようです。通説では「白村江の戦い」の後に「防人」という制度が設置されたと理解されているようですが、本来、戦いの前に必要な兵力を確保することが重要であるのに、戦争後に「防人」についての言及があることがそもそも奇妙な事と思われます。
「天武紀」には「防人」の遭難記事があります。
「天武一四年(六八五)十二月乙亥四条」「遣筑紫防人等飄蕩海中 皆失衣裳。則爲防人衣服以布四百五十八端 給下於筑紫。」
この記事の中では「防人衣服」として「布四百五十八端」が支給されたと書かれていますが、「衣料」としては「一反」(端)がおよそ「一着分」と考えられますから、この数字はそのまま「四百五十人分強」のものであることとなります。
「船」の「乗員」の数としては、「書紀」に記載された「白村江の戦い」などの際の推定される「船の数」と「兵員数」から考えて、一隻当たり「一五〇−一八〇人」ほど乗り込んでいたのではないかと考えられます。
もっとも「白雉年間」などの「遣唐使船」記事から見ると「二五〇人」ほど乗り込んでいたようですが、船の構造の違いや「戦闘員」以外もいたことを考えると、「軍艦」としてはそれよりはかなり減少すると思われ、一隻当たり「一五〇−一八〇人」ほどという推定は大きく違わないと考えられます。これで計算するとおよそ「四百五十人強」というのは「三隻」分に相当すると思われます。
後の「防人」に関する「駿河国正税帳」などの史料によると、「防人」として「徴発」され「帰国」する人数は計「十一国」の約「二千名」とされています。その内訳を見るとたとえば「常陸」において「二六五人」とされています。この「常陸」の国は当時(七三八年)「十一」の「郡」から構成されていたと考えられ、この当時の「郡」の戸数は「評」時代よりは増加していると考えられますが、上で推定した「評制」下の「軍団」の「単位」が「評」を構成する「戸数」と等しい「七五〇人」であったと推定すると、その類推として、「軍防令」に示された「千人単位」の軍団というものが、当時の「郡」の「上限」の戸数を示すと考えられ、これは「郡」の戸数において以前の「評」の時代の「七五〇戸」程度から約「千戸」ほどに増えた事を意味すると考えると、「防人」の徴発の割合は「四〜五十戸」に対して「一名」の「防人」を出したものと計算されるものであり、「五十戸一防人制」つまりひとつの里(さと)から一名の「防人兵士」を徴発する制度とされていたらしいことが推定できます。
このことから考えて、「百五十人」という船の定員は「ひとつの『国』(広域行政体としての国)」からの防人を集めたものと考えられます。つまり上に書かれた「四百五十八名」というのはほぼ「三隻分」つまり「三国分」に相当するものと思われます。
また、この「遭難」はこれら徴発した「防人」を「現地」まで輸送する際のトラブルではないかと考えられます。それは「本来」「防人」は「船」で戦闘行為を行なうものではないからです。「砦」や「城」など半島や島などに造られた軍事基地に配置されるべき人員であり、彼らが「海中」に「漂う」事となったとすると、移動の途中の海難であった可能性が高いと思われるでしょう。
この場合は実際には「瀬戸内」を航行しているうちに発生した「事故」ではないかと思われ、この「遭難記事」の直前の記事に「周防」という地名が出ることから(下記)、この記事との関連が考えられ、「関門海峡付近」で起きた事故(座礁か)と推定されます。
「天武一四年(六八五)十一月癸卯朔甲辰。儲用鐵一萬斤送於周芳惣令所。是日。筑紫大宰請儲用物。■一百疋。絲一百斤。布三百端。庸布四百常。鐵一萬斤。箭竹二千連送下於筑紫。」
このように「防人記事」の直前は「周防」と「筑紫」に軍事物資と思われるものを運搬・輸送している記事であり、これが「防人」と深い関係にあると考えるのは自然です。(ここでも「布三百端」とされ、三百人分の衣料用材料と考えられますが、やはり「一五〇」の倍数になっており、これも「国単位」となっているように思えます)
ちなみに、「箭竹二千連」を「筑紫」に送ったとされていますが、「軍防令」では「毎人。弓一張。弓弦袋一口。副弦二条。征箭五十隻。」とされており、一人「五十隻」(本)の割当てがあったようです。そして、ここで言う「二千連」が「何隻」なのかが問題ですが、「連」と言うからには何本かがセットになっていると考えられ、「束」と同じではないかと思料すると「二十本」で「一束」となります。「二千連」が「二千束」を意味するなら「四万本(隻)」の矢があることとなり、軍防令の通り「一人五十本」割り当てると「八百人分」の「矢」であることとなります。これは「一国」の「兵士」の数と対応していると考えられます。
このように「防人」は現実の存在として「東国」から徴発されていたわけですが、実際には木簡からは「防人」ではなく「戌人」(じゅにん)という名称であったことが知られています。これは「隋・唐」時代に配置されていた辺境防備の「砦」である「鎮」のスケールダウンした規模としての「戌」というものと関係があるとみられ、そこに詰める兵士を「防人」の中でも特に「戌人」と称したものと思われます。
(「新唐書/志第三十九下/百官四下/外官/鎮[底本:北宋嘉祐十四行本]」より)
「…鎮將、鎮副、戍主、戍副,掌捍防守禦。凡上鎮二十,中鎮九十,下鎮一百三十五;上戍十一,中戍八十六,下戍二百四十五。倉曹參軍事,掌儀式、倉庫、飲膳、醫藥、付事、句稽、省署鈔目、監印、給紙筆、市易、公廨。中鎮則兵曹兼掌。兵曹參軍事,掌防人 名帳、戎器、管鑰、馬驢、土木、?罰之事。
《上鎮有?事一人,史一人,倉曹佐一人、史二人,兵曹佐、史各二人,倉督一人、史二人。中鎮,?事一人,兵曹佐一人、史四人,倉督一人、史二人。下鎮,?事一人,兵曹佐一人、史二人,倉督一人、史一人。凡軍鎮,五百人有押官一人,千人有子總管一人,五千人又有府三人、史四人。上戍,佐一人、史二人;中戍,史二人;下戍,史一人。唐廢戍子,? 防人五百人為上鎮,三百人為中鎮,不及者為下鎮;五十人為上戍,三十人為中戍,不及者為下戍。開元十五年,朔方五城各置田曹參軍事一人,品同諸軍判司,專?營田。永泰後,諸鎮官頗搆ク開元之舊。》…」
当時倭国は「隋」との国交開始を旧制度打破という一大改革の契機と考え、積極的に「隋」の制度や文化を導入したものです。当然「防人」というものもその中にあったと見るべきでしょう。「改新の詔」の中では「五十戸制」と共に記載されていますから、「五十戸制」の導入とそれほど時期が違わないという想定が可能です。
当時「北朝」では「周・斉」の時代から国境線沿いに「防」を設けていたものであり、「隋」が中国北半部を統一した後はかなりの部分の「防」を廃したものですが、「吐播」などとの国境沿いなどには「鎮」や「戌」を設け軍事的な脅威に対抗できる施設として機能していたものです。そしてそこは「郡県制」の対象外として、民政支配とはしなかったものです。
このことから「倭国」においても「遣隋使」以降、「首都」の外縁防備の存在として「鎮」あるいは「戌」という制度を真似て設置していたものと考えられ、そこは「郡県制」の統治の外としていたものと思われます。また「防人」という名称も「隋代」に「防」が廃止された以降も「鎮」や「戌」などの兵士についての一般的呼称として残っていたものです。それをそのまま「倭国」でも採用していたと言うことが考えられます。
ところがこの「防人」あるいは「戌人」については史書にも木簡などの遺跡でも「七世紀」にこれが行われた、という「徴証」がありません。「万葉集」に「防人歌」がありますが、全て「八世紀」のものです。上に述べた「木簡」も同様に八世紀のものと考えられています。それ以前のものが全く残されておらず、まるで「消された」ようにみられません。その様子は「評」や「国宰」の隠蔽とよく似ています。共に、「八世紀以前」に「存在」したという詳細が明らかになってはいけないものであったものでしょう。
「防人」とは、中国では古代の史書には「辺境」の警備にあたる兵力をいうとされ、天子の所在するところを中心とした考え方でそこから「三千里」の外周を警護するのが役割であったものです。そして「天子」の所在する場所「王城」から「千里四方」を「畿内」と称したものであり、この範囲を「天子の直轄地」としていたのです。さらにその周囲に「斥候」を置き、その外周に「防人」となる兵力を置いたのです。このようにして「隋」やそれ以前の「周」などの「北朝」では「王城」とその直轄範囲を防衛する体制を構築していたわけであり、「倭国」でもこれに倣い、「首都」である「筑紫」を中心とした場所に「畿内」を設定し、その防衛体制として「斥候」「防人」などを配置することとしたものと見られます。
そのための兵力を徴発するのに必要であったのが東国に対する支配・統制の強化であり、局地的な施行であった「評制」の全面的施行への移行であったものと考えられます。
「隋・唐」でも「防」などへの配置は犯罪人などの配流地として選ばれたほか、一般人民から選抜して兵力としていたものです。
ところで「伊豫軍印」と彫られた(正確には「鋳込まれた」)「印」が愛媛県四国中央市の「八雲神社」に保管されていますが、これは律令制下の「軍団印」とは明らかにその規格が異なるものであり、またその寸法(縦・横とも)が南朝系の長さ(寸)が基準となっていることが注目されます。(一辺が36.9mm、高さが24.6mm、重さ50.8gとされる「銅印」です。文字は六朝風の書体とされます。)律令に基づくとするとこのような規格外のものが造られたはずがないともいえるでしょう。
ここに用いられた単位系はそれが「南朝」で使用されていたものであるのは明らかですから、「遣隋使」以前の時代であることを彷彿とさせるものであり、「六世紀半ば過ぎ」のものと推量されます。
この「伊豫軍印」はつまみ部分が「孔」の開いた「楕円型」になっており、これは「銅印環鈕」と呼ばれるものであったことが推定できますが、これは中国(特に南朝)において最下級の「将軍」に授与されるものであり、南朝から「征東将軍」あるいは「鎮東将軍」号を(これは高位の将軍)授与されていた「倭国王」にとって見ると、その配下の人間にも「下級」の「将軍号」を与え、「銅印環鈕」(他に「黒綬」「朱服」など)を授与していたと言うことも当然あり得るといえるでしょう。
またこの「印」は「漢委奴国王」のような「封泥」用のものではなく、「書類」に捺印するタイプのもの(凸印)ですから、「紙」の使用が前提です。このことは「二中歴」の「明要」の項に「文書が初めてできた」という意味の記述があることと関係していると思われ(「明要十一元辛酉 文書始出来結縄刻木止了」)、少なくともこれ以降と考えれば、度量衡の単位系とも考え合わせると「六世紀半ば」程度が最も考えられる時代と思われます。(ただし既に述べたように、この「明要」の干支である辛酉は通常の理解による「五四一年」ではなくそこから六十年遡上した「四八一年」と推定しているわけですが)
この「伊豫軍」を率いていた「将軍」はその地域の特定性から考えて「河野氏」ではなかったかと考えられ、彼らの主力が「水軍」であることは重要であると思われます。この時代未だ官道整備が大きく進んではいなかった時代には「瀬戸内海」を制圧することが非常に重要な軍事的意義があったものであり、彼らが重視されていたというのは蓋然性の高い想定でしょう。
そもそも彼らは「物部」と同じく「饒速日之命」の後裔とされ、その淵源が古いとされますし、「物部」もそうですが、軍事に非常に特化した氏族ですから、ここで「伊豫」の将軍として任命されていたとしても不思議とはいえないと思われます。
以上のように考えると、この時点付近で既に各地に「軍」が編成されていたことが推定されますが、それに関連して「隋書?国伝」で「軍尼」という存在が書かれていることが注目されます。
この「軍」という字は遣隋使の発音を書き留めたという「表音文字」としての可能性が第一に考えられますが、その場合「音」としては「コン」というものであったと思われます。(漢音)しかし、「コン」という「音」を表す漢字は他にいくらでもある中でそこに「軍」という字が使用されているのは、それが「軍事」に関わる職掌であったからではないかと思われます。
それを示すように「隋書」の中では「軍」という語は「軍事」関係以外に用いられた形跡がありません。そのことは「倭国伝」の中の「軍」という文字も「表意文字」という性格もあったものではないかと考える余地を感じます。そう考えるとこの「伊豫軍」という名称も「軍尼」の率いるものであったという可能性も考えられるところです。
(ただし「尼」という「語」の方については「隋書」の中では「尼」つまり「出家した女性」を表す意で使用された例がほぼ全てですが、一部に夷蛮の地名などを表すのに「表音文字」として使用された例が見られ、ここでも「東夷」という「夷蛮」の地における「表音」として機能していると見るべきでしょう。)
(この項の作成日 2011/01/13、最終更新 2014/10/17)