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邪馬壹国の組織

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 「魏志倭人伝」に現れる「国名」と「官名」については、「倭国」体制の中での「国名」であり、「官名」であると考えられます。つまり、「倭国王」たる女王(卑弥呼)がいて、彼女の元に一種の「官僚体制」が存在しており、その体制の中で各国に「官」が派遣、ないし任命されていたものと考えられます。このような権力集中体制は「東夷」の中では「倭国」だけであったと思料され、先進的な国家体制が構築されていたと見られます。このことはこの時の「倭国」が「部族連合」であるというような評価が妥当しないことを示します。部族連合ならば「中央」から「官」が派遣されていることはあり得ないといえるでしょう。
 その点から考えると、この「魏志倭人伝」の行程を記す記述の中に「到其北岸狗邪韓國」という表現があることが注目されます。

「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」

 この「其北岸」については意見が様々あり、これが「倭国領」である証拠という言い方もされているようです。しかし、海を渡った「対海国」(対馬国)から始めて「官」や「戸数」「風俗」などの描写が始まるのであり、この「狗邪韓國」では一切その様なものがありません。それは「倭国」側からの「官人」が派遣されていない事を示すものであり、そうであればそこは「倭国」のテリトリーではないと考えざるを得ません。
 またそれは「狗邪『韓國』」という国名にも現れているといえます。ここには明確に「韓国」とあるわけですから、名称からもここが「倭国」ではないことが示されているといえます。ただし、その国名に「狗邪」といういわば「卑字」が使用されているのは「倭国」側の見方であり、「倭国側」の表記であることが考えられます。
 推定によれば、この「行程」を記すに当たって「魏」の使者は、「倭人」(倭国からの使者)と同行したのではないかと考えられ、その際に「倭人」側から説明を受けたものをそのまま記載しているという可能性があると思われます。つまり「倭国」から派遣された使者の帰国に「魏」の使者が同行しているという図です。それは「対海国」や「一大国」なども同様なのではないかと考えられることとなります。そのような中で「対馬国」から「国」の詳細について記事があるということは、「倭国」の北側の領域は「対海国」(対馬国)を限度としているように見られることとなり、ここから「自称」表記となるのだと思われます。
 (ただし、「邪馬壹国」には「邪馬」という「卑字」が使用されており、一見これが「倭国側」の表記のようには見えませんが、「倭国」「魏」に対して国書を提出しており、そこでは「俾弥呼」という「卑字」を使用した「自称」を署名として使用していたらしいことが知られ、「魏」に対して大きく「謙る」態度を示していたことが分かりますが、「邪馬壹国」などの部分に「卑字」が使用されているのも、これと同様の観念であったと考えられるものです。)

 「国名」と人口また官の人数などを考察すると、「対海国」「一大国」の官が「卑狗」であるのが注意されます。この「卑狗」は「軍事」担当官なのではないかと思われ、「一大率」の配下の人間ではなかったかと考えられます。 彼らは「郡使」の往来などについて「博多湾」ではなく「末廬国」へと誘導するのが課せられた仕事であったらしく、その「末廬国」で「一大率」が書類や物品の照合確認などを行っていたらしいことから、彼ら「卑狗」は「一大率」の支配下にあったと推察されるからです。
 
 また、「投馬国」の二等官は人口が非常に多いことと関係があるかもしれませんが、やや特殊ではないか、と考えられる官名となっており、その地域の呼称を承認している可能性も感じられ、半ば独立国状態のような雰囲気を感じます。(やはりここでも王の名前が書かれていません)
 「奴国」は微妙な位置ではあります。官は「し馬觚」であり「卑狗」より上と考えられますが、副官は「対海国」や「一大国」と同じく一人であり、「卑奴母離」であるところは「地方扱い」にあまり違いはないようです。ただし、官が違うのは「戸数二万余戸」とあるかなり多い人口と関係があると思われます。

 「倭国」の中心王朝としての「邪馬壹国」には「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳〓」などの「官」があるとされており、この中の最高位が「伊支馬」であると推察されますので、「魏」に派遣されたという「大夫難升米」「大夫伊聲耆」は「伊支馬」であったと考えられます。

 ところで、「魏志倭人伝」の中で不明なものとして各国の「官」、「一大率」、「刺史」、「使大倭」などの相互関係の問題があります。
 
「…自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯…」

 (以前「刺史」と「一大率」とは異なるという趣旨の論を書いていましたが、その後の新知見により「刺史」と「一大率」とが同一であるという理解に至りましたのでそれに沿って書き換えを行っています)

 上の文章の中には「皆」という表現がされ、それは「女王」に対する「文書」等の管理担当として機能している職掌について述べているものですが、文章からは「王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 」というように「機会」がある毎に「皆」という意味と思われ、この「刺史のごとく」とされた職掌については「一大率」と同一である可能性が高いと推量されることとなりました。
 ここでいう「刺史」とは「三国時代」に各州の長官として任命されていた人物であり、名目上は将軍号を持っているものもいたようですが、基本的には軍事については担当せず、もっぱら民生的な部分の管理監督を行っていたものです。
 「州」の長官のうち軍事権を持たないものが「刺史」、持つものを「牧」(牧宰)といいます。当時中国では中国全土を十三の「州」に分けその各々をさらに「郡」により分割して政治を運営していたのです。(「州−郡−県」という制度)
 「一大率」は明らかに「軍事」面での存在であり、「刺史」とは異なるはずのものですが、ここ「倭国」(伊都国)ではあたかも(「王」はいるもののそれを上回る統治権限者として)「刺史」のように民政的なことも行っているということを表現するために「刺史のごとく」と書かれたものと思われます。
  
 また、国中に市場があり、交易をしている、という文面中に「使大倭」という人物の紹介があります

「收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之」

 彼は「交易」をするときに検閲官として監督している立場の人物です。(経済面で不当なやり取りがないようにするために存在している訳です)
 このような経済的な部分での監督者、という立場の人間に「大倭」の代理者という名称が使用されている、というのは如何に「経済面」が重要であるか、という証明でもあるようです。
 彼(「使大倭」)と「知事」のような「行政官」としての「刺史」とは明らかに異なっています。(この職掌が「刺史」と同一人物が兼務しているのであるならそのような文言があって然るべきではないでしょうか。)

 また、ここには「租賦」という「税金」(稲ないし雑穀と思われる)と思われるものを「収める」「邸閣」がある、と書かれています。
 この「租賦」は一般の人々から「徴集」したものと考えられますが、それには「戸籍」や「暦」が(「王権」内部では)必要であり、この段階でそれらが整備されていたことを示します。(ただし、それが人頭税的なものなのか、収量に応じて変化するものかは不明です)
 それは「倭人伝」の諸国の記載中に「戸数」表示が出て来ることでもわかります。「戸籍」というものと「戸」という表現は表裏を成すものですから、ここで「戸」という表記があるのは「戸籍」の存在を示唆していることとなります。
 「漢」や「魏」の例でも「戸」という表示は「権力側」が「租賦」を収奪するための前提となる「戸籍」が造られていたと言うことの表現であると思われます。(「家」については後述しますが、「戸籍」データ等の提示がなかった場合や、「戸数」表示に「なじまない」場合の使用法と思われます)
 その「戸籍」整備のための最低条件である「暦」は「漢」の時代から既に導入されていたものと考えられます。そう考えると「暦」や「戸籍」が「卑弥呼」の「邪馬壹国」や当時の倭国で広く行われていたと考えることは可能です。
 各々の国に派遣されている「官」はその様な「租賦」などを確実に収奪する体制を構築するのに必要な官僚であったものと思料します。


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2014/09/06)

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