「後漢書」によれば「倭国」の政治状況について「住七、八十年」とあり、その後「歴年」という表現が続きます。「歴年」というのは十年というような時間スケールのことではなく、せいぜい数年間を示す用語と思われますから、全体として卑弥呼の即位まで八十年強の年数が想定できます。
また「帥升」がこの「後漢書」にいう「男王」の一人であることは間違いなく、彼以降国内政治が安定していたとすると、「帥升」の貢献が「紀元一〇五年」ですから、「彼を含めて」、以降の男王期間が七〜八十年であったこととなり、「一八五年」付近にその混乱期間の始まりが想定できると思われます。つまり「卑弥呼」の即位は「一九〇年」頃であったと推定されることとなるでしょう。
「卑弥呼」は魏の使者の言葉によれば「年已長大」と有り、これは「古田氏」が四十歳程度の年令を示す例を提示して以来「四十歳代」を指す用語という理解が一般的になりましたが、実際には「下限」を示すものと思われ、当然「五十歳」でも「六十歳」でも「長大」と言えると思われます。
上で想定したように一九〇年付近で即位していたとすると、「二三八年」付近で四十歳代ということはあり得ないこととなります。
また、「一九〇年」即位時点ですでに「鬼道に仕え能く衆を惑わす」とされているということは、その時点で幼少であったとは考えられず、少なくとも十五歳程度までの年令に達していたと考える方が無難であり、この年令を下限として推定すると、「魏」に遣使した段階ではすでに六十歳を過ぎていることとなります。これを「長大」と表現したのはある意味正確であると言えるでしょう。
しかも死因は不明ではあるものの「魏」から軍事調停役として「張政」が倭国に来た段階ではすでに「卑弥呼」は死亡していたらしいことが読み取れますので、ある程度年令が高かったということを想定するのはそれほど不自然とは思われません。
つまり即位後かなりの期間を経た後に「魏」へ使者を送ったものであり、倭国内の混乱に乗じて「狗奴国」がその支配領域を漸次広げていっていたことが窺えます。
「公孫氏」が滅ぼされた後「魏」へ使者を派遣して「親魏倭王」の金印をもらったところを見ると、「漢委奴国王」の金印は継承されていたものであり、「中国」側の「王朝」交替に際し改めて「封国」として扱ってもらうよう希望したものではないかと思われ、それを「魏」の「皇帝」が承認したということと思われます。(このことは「西晋」が成立した段階で、「卑弥呼」を継いだ「壱与」が「使者」を派遣しており、その際「親晋倭王」のような金印が下賜されたという可能性を示唆するものでもあります。)
「卑弥呼」以前の争乱時期としては「後漢書」などでは「桓・霊の間」(「後漢」の皇帝である「桓帝」と「霊帝」の間…光和年間)という記載になっていますが、この時期は「後漢」の国内の情勢が特に不安定な時期であり、国外にそれが波及していた可能性があります。
この当時の「後漢」の内情は、幼帝が続いたため朝廷の実権は外戚(皇后・皇太后の一族)が掌握する事態となっていました。さらにその外戚を排除した宦官たちと官僚たちの争いが活発化し「党錮の禁」などにより多数の官僚が殺されたり、追放されたりしています。また、賄賂政治が横行し苛酷な取立てにより流民となる人々が多数に上ったのです。こうした人々が倭国に流入していた可能性は高いものと考えられます。
また、そのような虐げられた当時の人々の心を捉えたのが新興宗教の「大平道」や「五斗米道」です。(いずれも道教系)彼らにより「黄巾の乱」などの反乱が起き「後漢」国内は大混乱となっていくのですが、このような宗教的なものもやはり人々と共に国内に流入してきたものと考えられ、卑弥呼の「鬼道」につながっていくのではないか、と考えられます。
このようにしてみると「後漢」国内の混乱をそのまま倭国内に移し変えたような状況があり、これにより、「歴年、主なし」という事態になったのではないか、という可能性があるものといえます。
つまり「後漢」の混乱と同様の混乱が「倭国内部」でも起きていたものであり、それは「使者」を「漢」に派遣していた各国に「宗教」と「武器」とが侵入したことを示すと考えられます。
「卑弥呼」が即位したと考えられる「一九〇年」付近というのは「太平道」信者による「黄巾の乱」が発生した時代であり(一八四年発生)、その時倭国で起きた混乱もそれと関連ないとは言えない可能性があります。
倭国の中には(特に「伊都国」「奴国」などに)「漢人」あるいは「漢」からの渡来人などが多くいた可能性が考えられ、彼らの中で同様の勢力争いが起きていたとも考えられます。つまり、母国における状況を倭国内で反映していたという場合です。
「卑弥呼」の宗教が「鬼道」とされる以上、彼女にその「鬼道」を伝えた人物がいたはずであり、それは「卑弥呼」の「鬼道」と同類とされる「太平道」や「五斗米道」などの宗教運動などの情報を知っている立場の人であったと思われ、それは新来の渡来人であったという可能性が最も高いと思料します。
そのような人々から「鬼道」が倭国にもたらされ、それが「卑弥呼」に伝えられた段階で(元々彼女は「倭国」で信仰されていた「鬼神信仰」の「巫げき」つまり「巫女」であったと思われますが)「国内」は「卑弥呼」によって民衆が左右される状況となっていたものであり、「男王」の権威の相対的低下があったとみられます。その能力を「各国」の王達が利用としたと言えるでしょう。
この時半島は「公孫氏」が押さえ、「倭国」から「後漢」へはルートが実質的にはなかったと言えるでしょう。「太平道」も「五斗米道」もその本拠と言える場所は中国の北方地域ではなく、南方(江南)領域であり、それらがいわば「迂回ルート」で倭国内に流入したものと思われます。
「帥升」の代以前は国内には「周代」以来の「封建制的」体制が構築されていたと考えられますが、「漢」と交渉が始まると、その影響等により国内にかなり強力な「王権」が成立することとなったものと思われ、その時点で「郡県制」が導入されたものと見られます。それを実行したのが「倭国王」とされる「帥升」ではなかったでしょうか。彼により、その時点以降「国郡県制」が始められたものであり、それは「近畿方面」まで適用されていたと考えられます。
その形態が遺存しているのが「倭人伝」に現れた「倭国」の状況であり、ここでは「諸国」には「王」がいないように書かれています。
「帥升」以降「倭国」には「郡県制」が布かれていたものであり、各国には「官」が派遣されていたと考えられますが、「後漢」の混乱によって、「国内」にもそれが伝搬し(特に宗教的なもの)その結果、「近畿」以東が「倭国」から分離すると言うこととなったものと思料します。つまり、「近畿以東」にも「宗教的カリスマ」とも言える人物が現れたのではないでしょうか。それが「狗奴国王」とされる「卑彌狗弧」であると思われます。
このことは「漢書」にいう「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国を為す、歳事を以て来たり献見す、と云う」という表現から、魏志倭人伝では「今使訳通ずるところ三十国」と変化していることとつながっていると考えられます。
この文章の解釈は、以前「百余国」に分かれていたがそれが「三十国」に統合淘汰されたとするのが一般的ですが、これはそうではなく、「中国」へ使者を派遣していたのが以前は「百余国」あったが、「後漢」の代になると「三十国」に減少したと言っているのであって、それは「北部九州」が「帥升」の前身の男王により抑えられたためであり、「近畿」以東の勢力は「半島」や「中国」へのルートの根本を抑えられてしまったため、派遣できなくなったと言うことを示していると思われます。
「狗奴国王」「卑彌狗弧」は「卑弥呼」に匹敵する「宗教的指導力」があったと考えられ、「近畿以東」をまとめて「邪馬壹国」に対抗する力を備えたものと思料します。彼等の宗教としてもやはり「鬼神信仰」のであったと思われ、彼の儀式に使用されていた祭器(シンボル)ともいうべきものが「銅鐸」であったと思われます。特に「大型銅鐸」がその儀礼の中心に据えられていたものではないでしょうか。
それは既に見たように「巨大津波」を封じる呪術力を持つために巨大化したものと思料します。
その後「播磨東部」付近を境界として「邪馬壹国」の「倭国」と「狗奴国」率いる「諸国連合」(封建的なものと考えられます)とが対立していたものと思料します。
「魏」から派遣された「帯方郡」の「太守」である「塞曹掾史張政」は「詔書」「黄憧」及び「檄」を持参し「告諭」したとされます。
「倭人伝」
「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
其八年、太守王〓到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之。」
ここでいう「檄」がどのような「内容」であったかは不明ですが、「難升米」に対して「狗奴国」との戦争を終らせるために必要な「文面」を示したと思われます。つまり「親魏倭王」の称号を得ている「卑弥呼」擁する「邪馬壹国軍」は「魏軍」と同じであること、よって「邪馬壹国軍」に手向かうものは「魏皇帝」に手向かうものと同じであること。速やかに「降伏」し「戦闘」を停止すること。その後は「越境」しないこと。等々を「難升米」に示しそれを「狗奴国軍」との戦いの場にも「掲示」し、彼等の使者を呼び、その内容を「卑彌狗弧」にも承知させたものと思料します。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2014/07/10)