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卑弥呼の「鬼道」について

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 弥生時代の祭器と思われる「銅鐸」は墓域(古墳など)には決して埋納されず、出土する場合は単体であり、遺骨などと共伴することはありません。それはいわゆる葬送儀礼には用いられないものであったことを示していると思われます。これはいわゆる「ハレ」の儀式だけに使用されたものと考えられる訳です。
 それに対し銅鏡は「古墳」から出土します。「石室」や「棺」の中にさえ入れられていることがあります。逆に単独で埋納されている例が見られません。この事から「銅鏡」には「神聖性」が欠如していることとなるでしょう。
 そうでないなら「銅鐸」時代と死生観が劇的に変化したこととなりますが、そのようなことは通常考えにくいものです。
 「神聖」なものは同時に「穢れ」を嫌うわけであり、「銅鐸」がそうであったように「死」につながるものは忌避されていたと思われます。しかし「銅鏡」は「高い権力」を持っていたであろう貴人の墓からしか出ないのです。これは「銅鏡」というものが自らの「権威」の根源を示すものではあっても、所詮俗世界のものであり「神聖」なものというわけではないと思われるわけです。
 「卑弥呼」に対して「魏」の皇帝が下賜した鏡も「広く皆に見せるように」という指示があり、それは「権威の根源」が「魏」の皇帝であることを知らしめる意義があったとみられます。(さらには卑弥呼の私的な使用品としても下賜されて下り、これも「鏡」の「神聖性」を否定するものでしょう)
 この「銅鏡」は「卑弥呼」の「邪馬壹国」が率いる「倭国」の一体関係の醸成には役立ったと思われますが、それは逆に「卑弥呼」の行っていた祭祀に「鏡」(銅鏡)が使用されたと見ることはできないことを示します。「魏」の皇帝からの下賜品というだけでは「神聖性」の保持や確保という面では物足りないからです。

 そもそも「卑弥呼」の祭祀は「倭人伝」では「鬼道」と呼ばれており、このことから「卑弥呼」は鬼神を祀る祭祀を行なっていたのではないかと考えられます。
 「三国志」の中で同様に「鬼道」という名称が使用されているものに、「道教」の一派である「五斗米道」があります。

(「三國志/魏書八 二公孫陶四張傳第八/張魯」より)

「張魯字公祺,沛國豐人也。祖父陵,客蜀,學道鵠鳴山中,造作道書以惑百姓,從受道者出五斗米,故世號米賊。陵死,子衡行其道。衡死,魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬,與別部司馬張脩將兵?漢中太守蘇固,魯遂襲脩殺之,奪其?。焉死,子璋代立,以魯不順,盡殺魯母家室。魯遂據漢中,以『鬼道』 教民,自號「師君」。其來學道者,初皆名「鬼卒」。受本道已信,號「祭酒」。各領部?,多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐,有病自首其過,大都與?巾相似。諸祭酒皆作義舍,如今之亭傳。又置義米肉,縣於義舍,行路者量腹取足;若過多, 『鬼道』輒病之。…」

 「五斗米道」とは「後漢」の順帝のころ(一四二年)四川省成都の郊外(蜀の国)で「張陵」という人物が「太上老君」よりお告げを受けた、と言い出したことに始まり、その後「張衡」「張魯」と計親子三代にわたり教団を組織し、強大な軍事力を保持するようになったものであり、これがいわゆる「三張」道教と呼ばれているものです。その後彼らは「魏」の「曹操」に軍事力を剥奪され無力化されたものです。(二一五年)
 この時代に「魏」などでは「儒教」が正統と考えられていました。これは、「前漢」の「武帝」が儒教を国教に定めて以来(紀元前一三六年)、代々儒教を中心とした官吏国家となっていたためであると思われます。「道教」やその一派である「五斗米道」は基本的には「魏」や「西晋」にとって見ると「異端」的なものであり、そのため「鬼道」という用語を使用する動機となっているものと考えられます。そういう意味において卑弥呼の「鬼道」というものが、「原始道教的」意味合いを持っていた可能性は高いでしょう。

 この「五斗米道」や「太平道」などに共通なことは「鬼神」信仰であり、その「鬼神」とは結局「死者」を指すものでした。このような「土俗的信仰」は「江南地方」に淵源を持つものと思われ、南方的であることが推察されます。
 ただしその基本的な部分というのは、初期の「道教」がそうであったように「お祭り」が中心であり、「巫術」つまり「祈祷」などにより、幸運をもたらしたり、病気を治したりしようとするもので、古くから「民間」に根付いていたものであったろうと考えられています。
 また、倭国は朝鮮半島に勢力を張っていた「公孫氏」が「後漢」に非協力的(「公孫淵」に至って反旗を翻した)であったため多年にわたり朝鮮半島を経由しての「漢」(魏)との交流は閉ざされていて、南方の「蜀」や「呉」との交流に偏っていたものと考えられ、「五斗米道」についてもその方面から直接情報が伝わっていた可能性があるものと考えられています。
 ただし、「卑弥呼」の「鬼道」はより原始的であり、祭儀には「血食祭祀」を行っていたと思われ、「五斗米道」とも違うそれ以前の世界に類するものであったとみられます。それは「古田氏」が指摘したように「卑弥呼」の「呼」が「生け贄に傷をつける行為」を指す語であるとすることからも言え、「卑弥呼」の儀式の内容が示唆されるものです。それに対し後に「五斗米道」を継承した「天師道」では動物を犠牲とすることを強く批判している事実があります。

 また、ここで言う「鬼神」とは基本的には「死者」のこととされるわけですが、その意味では「卑弥呼」は「巫覡」と呼ばれる立場であったと思われ、彼女は「倭国」の長として「鬼神」と意志を交通させていたものであり、それは単なる「祖先祭祀」とは異なり、数多くの「先人達」が対象であったと思われ、彼らの「意志」を現在の国政運営に反映させることを目的として儀式を執り行っていたものでしょう。そのような古典的な儀礼には「神聖性」が欠けている「鏡」が使用されることはなく、推測によれば「玉」が使用されていたものではないでしょうか。「玉」は「周代」以来「中国」で重要な儀礼にしか使用されない「神聖」な祭器であったからです。
 「周」の官職(大夫)を名乗っていたとされる「卑弥呼」の「倭国」でも当然「玉」が祭器として使用されていたと考えるのは不自然ではありません。

 この「鬼道」はその後「壱与」に受け継がれ、その後も「倭国」では「女性」による「祈祷」を中心とした「信仰」が強く遺存することとなったものと考えられます。
 その後「対外」拡張政策に転ずるようになると「鬼神」信仰は流入した「天師道」などの「道教」と合体し「戦い」の「守護神」として信仰されるようになり、「倭国」の「国教」として「王権」内外の信奉するところとなっていたものと推察します。


(この項の作成日 2014/06/29、最終更新 2014/09/30)


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