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ポカポカ春庭 生きてゆく女たち

ポカポカ春庭 生きてゆく女たち2005年
日付 タイトル
2005
03/15
「女が映画を作るとき」浜野佐知
03/18,19 風傷「道浦母都子の短歌」
04/18 大村はま先生の国語教室
05/30,31 塚本こなみ「フラワーパークの樹木医」
12/05 松井やよりの仕事と「ナヌムの家」のハルモニたち


2005/03/15 08:56
今日の色いろ>まっピンク@「女が映画を作るとき」

 今年新年はじめに読んだ一冊、浜野佐知『女が映画を作るとき』。
 とても面白かった。

 私が浜野佐知の名を知ったのは、『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』という映画の監督として。しかし、1999年に岩波ホールで『尾崎翠を探して』が上映されたとき都合がつかず、ついに見るチャンスがないままになって、映画をみる前に浜野監督の本を読むことになった。

 2003年11月に姑と童謡コンサートに出かけたおり、尾崎翠の出身地鳥取県岩美町の「いわみ合唱団」が東京との交流で出演していた。岩美町関係者が鳥取の観光パンフレットといっしょに『尾崎翠を探して』のチラシを配っていた。

 エキストラなどで浜野監督に協力した町の人々は、監督と共に映画を完成させたことを誇りに思い、上映活動を続けていたのだ。
 映画を通して人の輪がひろがっているのだなあと、浜野の本を読んで思った。

 浜野佐知は、10代から映画を撮りたいと志し、「ピンク映画」の助監督から足場をかためた。撮影現場であらゆるセクハラいやがらせにも耐え、同性である女優からもイジメにあうなどしてきたが、1970年に『17才好き好き族』で監督デビュー。独り立ちしてから300本のピンク映画を監督してきた。

 『女が映画を作るとき』は、300本のピンク映画を撮った時代を経て、『尾崎翠を探して』『百合祭』の制作に関わるエピソード、岩波ホール支配人高野悦子さんへのインタビューなどから構成されている。

 「セクハラ」という言葉さえまだ通用していなかった時代に、男社会の映画界で奮闘し、芯の通った生き方をしている女性の姿にほれぼれした。

 「女は家庭にもどれ」「社会に大切なのは子を生む女」「子を産み終えた女は社会に不要のもてあましもの」などの言説がゾンビのごとく蘇り、徘徊しはじめている。「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」と公言する首長もいた。
 「ジェンダーフリーという言い方を教育の場でするのはふさわしくない」という主張も強くなって、フェミニズムへのバックラッシュが続いている。
こんな後ろ向きの状況のなかで読む、浜野の行動、言説ひとつひとつ小気味よく響く。

 男性中心の制作現場の中で仕事がおもうにまかせないことも多かったという。自分自身で映画製作会社を設立し、女性が観賞しても決して否定的な気持ちにはならない官能の世界を描き続けてきた。第一章の『ピンク映画まっしぐら』は、「きちんと女の性を描こう」と決意した監督が真っ直ぐに駆けてきた映画の道を、快いスピードでパンフォーカスする。

 『第七官界彷徨 尾崎翠をさがして』と『百合祭』は、浜野が映画を志して以来30年間の思いを結集して作り上げた作品。海外でも高い評価を得た。

 両作品とも、多くの人々の資金面制作面への協力によってできあがった。金にあかせて作った映画の対極にある。ワンシーンワンシ−ンに、監督以下関わった人すべての思いが刻み込まれている。(予告編でしか作品を見ていない私が言うのも何だけど)

 一般映画の監督として評価が高まってからも、浜野は300本のピンク映画にも誇りと愛着をもち、彼女が撮ったピンク映画なら、見てみたいと思わせる。

 「ピンク映画」とは、男性観客の目を意識して作られることがほとんどなのだろうと思う。私は日活ロマンポルノが話題になったときも、「人がやってんの見てるヒマがあったら、恋人探す時間作って実践!」と思いつつ、結局恋人も見つからないというショーモない人生をすごしてきてしまったので、残念ながら浜野以外の男性監督の映画もみていないから、比較をすることもできない。

 けれど、浜野のピンク映画は、女性を決して「男性に隷属するだけの性」として描かず、「女性もまた性の一方の主体である」という視点を貫いているという評価がされているという論を見て、うん、いつかはその300本のピンク映画の中の傑作選上映会などあったら、見にいきたいなあとおもう。

 「ピンク映画」の中で、浜野の作品は「まっピンク!」を貫き、『百合祭』の優れた官能表現もなしえた。

「まっピンク!カラミからまれ水蜜の果肉の中に染まる指はも」<春庭から浜野監督へのオマージュ>


2005/03/18 09:32
風傷「道浦母都子の短歌」

 受験シーズンもそろそろ終盤。「入試終わりました」「合格です」などのコメントが残されているのを見ると、他人事ながら、終わってよかったね、とほっとする。

 受験のお守りとして「きっと勝つ」ために、おやつは「キットカットチョコ」。お弁当は「敵に勝つ」ためにステーキとカツ。心強く試験を乗り切るためには、語呂合わせでも駄洒落でもすがりつきたい。言霊が今も生きていることは、キットカットチョコの売れ行きでも納得できる。

 台風のあと、木から落ちないでがんばっていた林檎を「落ちない林檎」と名付けて、合格祈願のお守りに売り出したら高値で売れたという。
 りんごが風のために傷ついていようと、「風にも傷も負けないで落ちないでいた」と思えば、価値があるのだ。

 台風その他の大風のため、収穫まえの果樹が痛めつけられ、果物に傷がついてしまう、それを「風傷」という。風のため傷んだ果物は「風傷果」。一般の市場では風傷果は商品価値が下がってしまう。

 「風傷」一般の辞書にはないが、みかん柿りんごなどの栽培をしている果樹農家では、よく使われるだろうし、果物の流通販売に関わる人々にも身近な言葉なのかも知れない。

風傷の林檎一顆(りんごいっか)をもてあまし独りの夜を存う(ながらう)われか<道浦母都子>

 今月読んだ、道浦母都子の短歌エッセイ『食のうた彩事記(1995年発行)』の「りんご」の章に、上の一首と、作歌の経緯が書かれている。
 道浦は、「せっかく身を育みながら、風で傷み、商品価値を失ってしまうりんご。そんなりんごが何とも哀れで今の私の心境にピッタリだったからだ」と、この短歌を作った頃を述懐する。
 
 この部分を読んで思い出した。1997年に買った道浦の歌集『夕駅』の最初の章のタイトルが「風傷」であった。久しぶりに『夕駅』をひもとく。
 自らを「風で傷み商品価値を失ったりんご」のように感じた、という道浦の述懐。この『食のうた彩事記』が書かれた1994年ころ、道浦は2度目の離婚を経て一人暮しをしていた。

 水の婚 草婚 木婚 風の婚 婚とは女を昏(くら)くするもの<道浦母都子>

からタイトルがとられた歌集『風の婚』から7年を経て『夕駅』が編まれた。『夕駅』の中で、「風傷の林檎一顆をもてあまし独りの夜を存うわれか」の次に並んでいる一首は
「アルバムにいまだ残れる元夫の写真は不治の火傷のごとし」

 そして2頁あとには
「夫子無く生きる自在さ 卓上をまろび転がる鶏卵のよう」<道浦母都子>

 風によって傷つき商品価値を失ったりんごのように我が身を感じる。そして、夫も子もなく自由に生きているように見えていて、それはテーブルの上をころがる卵が、いまにもテーブルから転がり落ちそうなあやうさをはらむ、ギリギリスレスレの存在であることを、道浦は凝視する。
 一人生きていく自分をみつめ、うめきのように唇のはしからことばがこぼれるとき、歌が生まれる。

 たとえ子があっても、台所で毎日の食事を作りながら茶碗をあらいながら、自分の存在はキッチンテーブルの上をころがる卵のようだと思う。くるくるとまわりながら日々をおくり、明日はテーブルの端から墜落していくのかもしれない。

 一房の卵(ラン)とし生きた日も遠く 黙(もだ)して食す朝のオムレツ<春庭>

2005/03/19 10:28
風傷A

 2年前、道浦はまったく短歌が作れないスランプに陥ったという。ことばが声にならず、字も書けない。連載も断り、ことばの仕事から離れて過ごした。
 ことばを求めながら、ことばにはじき出されてしまうような、焦燥の日々。

 asahi com 大阪のウェブコラムから、インタビューに答える道浦のことば

 「ある時代の象徴のように語られ、歌人・物書きになりたいと思ったことがないまま、いつの間にか生業(なりわい)になっていた。そのことがどこか重荷になっていたんですね。新聞や雑誌を見るのもいやで、半年ぐらいぼんやり過ごしました。
 そうするうちに、ある日突然、歌を詠みたいという衝動が自然に起きてきたんです。
 言葉から一度離れたことで、その怖さと大切さを教わったんです。

 今は言葉の混乱期。子どもたちは「ぶっ殺す」とか「キレた」とかすぐ言うけど、言葉にしてしまうことで言霊となって現実になってしまう。道端の草花も、雑草としか思わなければ踏んでしまう。でもスミレとかハコベとかちゃんと名前を知っている草花は踏まないでしょう。地名ひとつにも、歴史や街の空気、生活している人の息遣いが染み込んでいる。
 言葉を粗末に扱うことは、その人の心も粗末にし、人間関係も粗末にすることだと思うんです。」(2005/03/11)

 歌を詠むことについての道浦のことば、もう一度繰り返す。
 「歌を詠むというのは、二度とないその瞬間に選び抜いた一語を、自分の中に引き込んで体温を与え、もう一度外に手放すこと。言葉に体重をかけたり、光やにおいを与えたりして、血の通った言葉にすることが大切なんです。そうすれば31文字というピンホールから世界を見ることができる。(略)詩は志(し)をうたうもの。人間のあるべき姿を、一生賭けて問うことです。」

 道浦母都子。同時代を生き、私が最も心寄せてその歌を読み続けてきた人。
 道浦は68年国際反戦デーのデモ参加で逮捕され不起訴。その後病身となり1年休学した。
 道浦の3年あとに上京した私は、2年間すれ違う可能性があったことになるのだけれど、私が入学してからの2年間は、学生スト、キャンパスロックアウトなどでずっと閉鎖状態。授業はほとんどなかったので、たぶん学内で姿を見ることはなかったろう。
 しかし、上京してから下宿していた杉並下井草に、道浦もいたことを最近知った。西武線下井草駅ですれ違っていたのかも。

 『無援の抒情』以来の歌集やエッセイを読んできて、今月は『食の彩事記』のほか、道浦がNHKの講座で語ったことをもとにした『女歌の百年』を読んだ。篠弘『疾走する女性歌人』と前後して読んだので、同じ歌や歌人への視線のちがいなど、とても面白かった。

 道浦が、言葉を失ってすごした2年の歳月を経て、ふたたびことばの世界に帰ってきたこと。風に傷ついても、台風に落っこちても、「落っこちたって、不揃いだって、りんごは林檎。私は私」と言っているようにも思う。

 私も「風傷果」のひとつとして、傷ついたままの心をもてあましながら、それでも言葉を探して歩こうとおもう。ことばのひとつひとつを大切に拾い集めて歩きたい。

 子どものころ当時の流行にのって、切手もコインもコレクションとは言えない程度に集めたことがあるが、大人になってから熱中して集めたものはない。だから、「ことば」を集めるのが私の趣味、と思うことにしている。
 昨日は知らなかった言葉を、今日知ることがとても嬉しい。見たはず読んだはずなのに忘れていたことばを思い出すことで、今日一日の心満たしてすごせる。

 「風傷」けっして穏やかでなだらかな響きのあることばではない。厳しく痛ましい思いもこもる。
 でもね。まったく無傷のつるつるまるまるで桐箱におさまっている高級果物じゃなくても、味わい深い風傷果もあると思うよ。<終わり>


2005/04/18 15:49 月
大村はま先生の国語教室

 どの分野にも「神様」と呼ばれる偉大な先達がいる。
 「映画の神様」とか「野球の神様」とか、その分野では第一人者であることはもちろん、後輩たちの目標になっているような人

 私が中学校の国語教師になったとき、「国語教育の神様」みたいに思えた偉大な教師のひとり、大村はまさんが2005/04/17に亡くなった。享年98歳。
 私が国語教師になったとき、すでに大村先生は67、8歳。一般の教師の退職年齢はすぎてなお現役の区立中学校教師を続ける「伝説の教師」だった。

 「単元学習」という大村先生の授業方法は、いまでいう「国語を中心とした総合学習」にあたる。多くの中学生を育て、1963年にはペスタロッチ賞を受賞、「生涯一教師」として教壇に立ち続け、1980年74歳まで現役の中学校国語教員だった。

 私は中学校の現場には3年しかいなかったので、公立中学校退職後は大村先生の著作を読みかえすこともせず、国語教育界からは遠ざかっていた。現在本棚にある大村はまの著作は1989発行の『授業を創る』のみ。

 苅谷剛彦夏子夫妻と大村はま共著『教えることの復権』(2003)の著者名を見て、「わぁ、大村先生、まだ生きていたんだ」なんて、失礼なことを思ったほど。さっそく『教えることの復権』を読んだ。
 『教えることの復権』の感想は下記ページに掲載。(ちえのわ七味日記2003/03/22)
0303c7mi.htm

 大村先生は1980年に区立中学校を退職してからも、「大村はま国語教室16巻」の編集、全国各地での講演活動、日本国語教育学会常任理事など、多岐にわたる活動を続けてきた。

 2005年3月11日には目黒区内の中学校で講演し、4月12日にはテレビ番組の録画収録で、国語教育について語った。それから1週間のち17日にくも膜下出血で死去。
 ほんとうに見事な生き方。

 1985年3月に99歳でなくなるまで、現役作家として書き続けた野上弥生子さん。96歳のとき『私何だか死なないような気がするんですよ』(海竜社)という著作を出版し、その翌年1996年6月に亡くなった小説家、宇野千代さん。2003年9月に101歳で亡くなる1週間前まで、銀座のバー「ギルビーA」の現役ママさんだった有馬秀子さん。それに、大村はまさん。

 仰ぎ見る四人の先達。及ぶべくもないだろうが、あこがれつつ、牛のあゆみの歩を進めていこう。


2005/05/30 月 08:59
新緑散歩>あしかがの藤

 あしかがフラワーパーク、今年はじめて訪れた。
 天然記念物に指定されている樹齢130年の大長藤や、八重黒龍藤など。
 一本の木から300畳分の広さに枝が広がり、150cm以上にも及ぶ長さの藤の花が滝のように花房をたれている。薄紫のムラサキフジ(野田藤)の大藤が3本、それに紫の色が濃い八重黒龍藤。
 4株の大藤の花房が数百万も咲き競う。

 また園内には290株の庭木仕立ての藤があって、うす紅色の藤、うす紫、濃紫、赤紫の藤、さまざまな色合いを見せている。
 園内はクレマチス(テッセン)やつつじも満開で美しかったが、大藤の見事さは、ほんとうにすばらしいものだった。  

 足利市内にあった古藤。土地整備のため、植え替えなければならない。しかし、「幹の太さ60cm以上の藤の移植は無理」とされており、移植成功は危ぶまれていた。

 樹木医の塚本こなみさんが移植の相談をうけ、さまざまに研究を重ねた。2年の歳月をかけ、創意工夫の作業の末、移植に成功した。
 フラワーパークに移植された藤は、塚本さんらの手厚い世話をうけ、今年も華麗な花を見せている。

 「樹木医」は、1991年から2004年までの13年間に1081名が認定されている。樹木の保護・樹勢の回復等に関する実務経験7年以上ある人が受験できるが、認定を受けるのが難しい資格のひとつ。
 毎年600人前後の実務経験者が一次筆記試験を受け、二次試験は二週間の研修を受けて、毎朝、前日研修分の試験がある。毎年合格者は80名前後。合格率20%前後の難関である。

 塚本こなみさんは女性最初の樹木医。フラワーパークのガーデンデザインを手がけた園長さんでもある。
 塚本さんは、あしかがフラワパーク園長のほか、自分で設立した会社「グリーンメンテナンス」の代表も続けており、環境緑化コンサルタントとして、各地で活躍している。
 
 塚本さんは、静岡県生まれ。私と同年!
 高校卒業後、ごく普通に会社で働き、そのころは、樹木と関わる人生になるとは思ってもいなかった。
 22歳で結婚したお相手が、日本庭園などの造園を手がける造園家だった。造園の基礎も「夫とともに仕事をするうちに学んできた」
 1985年には、自分自身で株式会社を設立し、樹木と関わるようになった。1993年に、女性第1号の樹木医の認定を受けた。

 塚本さんは、1996年、足利市堀込町の早川農園からあしかがフラワーパークへの大藤移植を成功させた。
 従来、藤の移植は幹径60cmまでなら移植できるが、それ以上は難しいとされていた。早川農園の大藤は幹径90cm以上もあった。幹周りは3メートル以上にもなる。

 移植の相談を受けた塚本さんは、藤の研究と植え込む土壌の研究をつづけた。藤は蔓性の枝をもち、他の樹木より幹が弱い。クレーンでつり上げたりトラックで移送すれば、必ず幹を傷つけてしまう。傷がつけばそこから樹木のくされが広がる。
 塚本さんは藤と向かい合い、人と話し合うように対話し続けたという。一番いい方法は、きっと見つかると信じて。

 人間なら、弱い足腰で移動する場合、どう保護してやったらいいのだろうか。試行錯誤の末、塚本さんは、人が怪我をしたときに用いられる「石膏包帯」で幹を保護する方法を考案した。樹木用のギプスで養生した上で移動するという画期的な方法である。

 根元の保護も慎重にすすめ、移植前の土壌と同じ環境を保てるようにする。2年の歳月をかけて、あしかがフラワーパークに移植した。(つづく)

2005/05/31 火 15:35
新緑散歩>女性樹木医第一号塚本こなみさん

 フラワーパークの場所は、従来は湿地帯で、植物の生育はむずかしいとされていたが、塚本さんは、土壌を研究し、園内一面に木炭を敷き込むなどの工夫を重ねた。
 移植した樹木への細やかな世話をつづけ、現在、4株の大藤は、一本の木から枝が300畳〜400畳分にも広がって、それぞれが花房150〜170cmの見事な花をつけるようになった。

 あしかがフラワーパークのキャッチフレーズは「花の芸術村」
 「観光地のキャッチフレーズ」を信じて見物にでかけると、「キャッチフレーズとはずいぶん違う」ということが多いが、このフラワーパークの大藤は、本当に芸術的な美しさを見せていた。

 去年、カメラの新聞広告でこのフラワーパークの藤を映した写真を見て、なんてきれいなんだろう、でも、カメラワークというのは、実物を「より美しく」見せるアングルを選んで撮るからなあ、実物を見てがっかりするかも、と思っていた。
 でも、実際の花は、写真以上に美しかった。

 私がフラワーパークに行った日は、大藤の前で「ハーフムーン」というご夫婦デュオのコンサートが行われていた。琢磨仁さん啓子さんのユニット Half Moon 。
 湘南の風のような啓子さんののびやかな歌声、仁さんのウクレレやベースの伴奏。藤の前に集まった人々が足を止めて、聞き入っている。

 ハーフムーンのミキシング機械の横に、黒いエプロンをつけ、帽子をかぶった女性が立ち、音にあわせてリズムをとったり歌を口ずさんだりしている。
 「前に新聞記事で顔写真を見たことがある、たぶんこの人が塚本さんだろう」と思った。

 歌が続くなか、塚本さんはときどきそっとその場を離れる。業務連絡のケータイがかかってくるらしい。塚本さんは観客の目の届かない脇に離れて、静かに連絡をとっている。

 連絡が終わってコンサートの場所に戻りながら、塚本さんはツッと植木の間に手を伸ばし、雑草やゴミを片づけている。目立たないように動きながら、確実に園内をきちっと整備しているようす、とてもさりげなくてステキだった。

 ハーフムーンが次の歌のために楽器をとりかえているあいまをみて、塚本さんに声をかけた。
 「大藤、ほんとうに見事ですね。移植成功のニュースを見て以来、ずっと見たいと願ってきたんですが、今年ようやく見に来ることができました。ほんとうにすばらしいお仕事です。感激しました」と、お話した。
 
 塚本さんは、「お声をかけていただいて、ありがとうございます。花をよろこんでいただけて、うれしいです」と、丁寧にことばを返してくださった。
 笑顔がすてきな、美しい人だ。

 樹木医は、樹木や土壌への膨大な知識と研究、我が子をいたわるように樹木に対応していく繊細な心遣いも必要とされるが、大胆な決断力や、体力も必要。ときには大きな木を移動するために力仕事もこなす。
 塚本こなみさん、これからも花や樹木の命を育む仕事を生き生きと続けて行かれることだろう。

 藤の花のうつくしさにも圧倒される一日だったが、塚本さんのさわやかな笑顔にもふれることができて、心楽しい花散歩ができた。

 園内を歩く人々がそれぞれに感嘆しながら「ああ、きれいだねぇ」「見事だね、こりゃあ一生に一度は見とかなきゃあ」などと話しながら、花を見ていく。
 一生に一度とは言わず、来年もまたこの藤に会いたいなあと思う、そんな藤の花だった。
(藤めぐり終わり)
2005/12/05 月 
WAM・松井やよりの仕事と「ナヌムの家」のハルモニたち

 3日土曜日、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館(略称WAM)」へ行ってきた。
 WAMは、早稲田奉仕園内のアバコビル2階にある。アバコビル1階2階は結婚式場。隣にレンガのチャペルがある。

 前回、ここ「早稲田奉仕園」の中に入ったのは、初夏。5月21日に奉仕園50人ホールで、大好きな写真家長倉洋海さんのスライドトークショウを聴講した。
 アフガニスタンとコソボの写真を見ながら、長倉さんのお話を聞いた。
 まだ、この「女たちの戦争と平和資料館」は、開館前だった。

 ジャーナリスト松井やよりさんの遺志を引き継いで、このアクティブ・ミュージアムが開館したのは、今年夏。戦時性暴力の被害と加害の資料を集めた日本初の資料館として、2005年8月1日オープン。
 ビル内2階の一室、小さなスペースではあるが、大きな志をもってのオープンだった。
 
 とは言っても、私は、このオープンをまったく知らなかった。テレビ新聞などで話題になっているのを見聞きしたことがない。
 戦時性暴力の問題をカフェ日記に提起し、韓国の「ナヌムの家」を紹介しているみつばさんのお知らせによって、知ったのだ。

 私は松井やよりさんに心ひかれ、彼女の新聞記事を読み、著作を読んできた。松井さんは、厳しくかつ温かい視点でアジアの女性たちを見つめ、報道を続けてきた人。定年まで新聞社で記者として記事を書き続けた信念の人である。

 2002年12月死去。死後もなお、右派勢力からの執拗なバッシングを受けているが、たぶん、やよりさんは「何をどう叩かれようと、ジャーナリストは真実を伝えていけばいいだけ」と、言うだろう。

 ミュージアムの中に、このWAM提案者だった松井やよりさんの著作コーナーがある。
 松井さん愛用の机と椅子本箱がそのまま資料館の備品として使用され、本箱には著作の数々と、新聞切り抜きスクラップブックが整理されている。

 スクラップブックは、松井さん自身の手できちんと整理され保存されていた。(閲覧用はそのコピー)
 署名記事が新聞にあったときは、名前を確認して読んできた。が、無署名の記事に関しては「この記事、松井さんが書いたみたいだなあ」と思うだけで、新聞社に問い合わせして書いた人を確認することまではしてこなかった。スクラップには無署名の記事もきちんと整理されているので、いつか、スクラップをひとつひとつ辿ってみたいと思う。

 みつばさんが紹介していたのは、「ナヌムの家 絵画・写真展」。
 韓国の「ナヌムの家」で暮らしているハルモニ(おばあさん)が描いた絵と、ハルモニたちの写真を展示している。
 「ナヌムの家」は、「従軍慰安婦」として戦時性暴力にさらされた韓国女性たちが共に晩年を過ごしているホームである。

 ハルモニの絵は、とても心うつ作品だった。絵の専門家から見たら、「遠近法も光と陰によって立体感を出す絵画技法も、何も学んだことのない、素朴な絵」と言われるのかもしれない。
 しかし、そこに描き出されていたハルモニたちの絵は、「どうしても、なにがなんでも、死ぬまでに表現し、人々に伝えないではいられない、ぎりぎりの表現」の迫力に満ちたものだった。

 展示されている絵の点数は少ないが、圧倒される表現力であった。
 金順徳(キム・スンドク)さん、姜徳景(カン・トッキョ)李玉善(イ・オクソン)さんらが、ナヌムの家(わかちあいの家)で暮らしながら描き出した、「強制連行」「ナシを取る日本軍」などの絵と、ナヌムの家に研究員として住み込んでいる写真家矢嶋宰さんのハルモニたちの写真が展示されている。
 小さなスペースではあるが、心の中にしみこんでくる展示であった。

 「看護婦として働く」「仕事をしながら学校へ通わせてもらえる」などの、募集のことばによって、韓国から中国やアジア各地に連れて行かれ、自身の運命を変えられたハルモニたちの心の叫びが、悲しみと怒りのあふれる表現となっている。
 その悲しみの中にも、人の尊厳を思わずにいられない人間性を感じさせるものであった。

 「悪夢」と題された作品。青い海の渦の中に、引き込まれていく恐怖を画面に表現している。つらい過去の記憶をこうして表現することによって、ハルモニたちは今を生き、残り少ない人生をかけて「記憶の真実」を後世に伝えようとしている。

 「ナヌムの家 絵画・写真展」は、4日で終了。次回WAM企画展示は、「松井やより全仕事」展である。
 
☆☆☆☆☆☆
春庭 今日の一冊
松井やより『女たちがつくるアジア』岩波新書1996年 

<おわり>
13:21 |


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