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Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies![]()
ポカポカ春庭日々雑記いろいろあらーな2005年4月![]()
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ポカポカ春庭のいろいろあらーな2005年4月
日付 いろいろあらーな4月 2005 今日の色いろ/春のうた/花散歩春散歩 04/05 今日のいろいろ/青・藍・紺青初恋レストシャドウ 04/07 春のうた「みすずのさくら」 04/10 花散歩「イチヨウザクラ」 04/11 花散歩「桜吹雪」 04/13 花散歩「海辺の桜」 04/14 花散歩「ビルと桜」 04/16 花散歩「名残りの桜」 04/20 春散歩「恐竜博@スーをみた」 04/21 春散歩「恐竜博A化石の所有と研究」 04/25 やちまた日記「ダンスダンスダンス」
ぽかぽか春庭「染色作品、初恋レストシャドウ」
2005/04/05 12:06
今日の色いろ>初恋レストシャドウ、青・藍・紺青
昨日は花冷えの一日だったが、上野公園へ出かけた。染井吉野はまだ三分咲き。エドヒガン桜などが何本か満開になっていた。
月曜日は国立博物館も西洋美術館もお休みなので、いつもなら鳩と人でいっぱいの動物園前の広場にもそれほどの人出はない。白いしだれ桜が咲いている脇の道を通って東京都美術館へ。
舅の趣味が油絵だったので、作品が公募展に入選したり、所属の会の作品展があると展覧会場へ足を運んだものだが、舅亡きあと、もう公募展など見る機会はないと思っていた。
絵が好きでよく美術館へは行くが、公募展となると、知り合いが出品していないと見る意欲が起きない。
東京都美術館では、4つの公募展が同時開催されていた。どれも4日が最終日。
そのうちふたつを見た。ひとつは三軌展。もうひとつはたまたまその隣で開催されていた美術文化展。
三軌展は、去年に引き続き2度目。知り合いが出品している。
知り合いといっても、会ったことも声を聞いたこともないカフェ友のひとり、ビルマさんの染色作品がめあて。
びるまさんの去年の作品は牡丹の花だった。
会ったこともなく、クリックひとつで「なかったこと」にしてしまえるウェブ上の交流のはかなさの中、その人の存在を実感したいという気持ちもあって、去年、会場へ来た。静かなやさしい色合いの牡丹の花に、ロウをひき、染料を布にかけ、苦心してひとつの作品を完成させた人の面差しを感じた。
びるまさんは家庭の事情で、染色作品などを紹介していたHPを閉鎖し、カフェも退会してしまった。去年よりさらに細いウェブ上のつきあいになってしまったのだが、作品を目の前にすると、ああ、こうやって美しい作品を仕上げるために、日夜染色に心をくだいてきた人が確かにいるのだなあと、感じる。
「初恋レストシャドウ」と題された作品は、白、紺、藍、青灰色などの色の重なりが静かなハーモニーを奏でている。
工芸の部。むかって右隣には、青や黄色ピンクの派手な色で気球と歯車をモチーフにした現代的な染色作品、左隣には、赤地に金糸銀糸で刺繍をしたこれまた色合いの鮮やかな刺繍作品がならんでいるので、最初の印象では、「初恋」の押さえた色調は、静かさや物寂しさも感じさせ、色合いも声高な主張はない地味なものに見えた。
最初は作品の直ぐ前に立ち、色の重なりの美しさをみていたが、しばらくして第12室の出口から振り返って遠く離れた「初恋」をみた。離れた場所から見ると、派手な色の間にあって、かえって物静かさが強い印象になって迫ってくるのを感じた。
一見すると地味で静かな色が、じっと年月を重ねた人柄のシンの強さしなやかさをあらわしている、そんな印象の作品から、会ったこともないウェブ友の姿を確かめて、会場を出た。
初恋の蒼き翳りを染め出して群青と藍と勿忘草色(春庭)
2005/04/07 12:13
春のうた>みすずの桜
「さくらの木」
もしも、母さんが叱らなきゃ
咲いたさくらのあの枝へ、
ちょいとのぼってみたいのよ。
一番目の枝までのぼったら、
町がかすみのなかにみえ、お伽のくにのようでしょう。
三番目の枝に腰掛けて、
お花のなかにつつまれりゃ、私がお花の姫様で、
ふしぎな灰でもふりまいて、
咲かせたような、気がしましょう。
もしも誰かがみつけなきゃ、
ちょいとのぼってみたいのよ。
==================
木の枝の間に板を渡した家を造り、「木の中の家」で暮してみたいってこと、子どものころ、多くの人が夢見たことじゃないでしょうか。
ことにも桜満開のとき、あの桜の枝に座り、花いっぱいの枝にもたれて、一日一晩すごしたならば、きっと桜の精になって、桜色に染まってくらす。毎年まいとし桜の花を、杖をふるって咲かして歩き、春の女神春の妖精春の乙女となって生きたい。
ところが大人は口をそろえ、「桜の枝を折ってはいけない。登るなんて、もってのほか」と言いたてます。
梅の木に登った思い出あるけど、桜の木に登ったことはありません。
「みすずも桜に登ってみたかったんだ」同志を見つけて、うれしい春。
ぽかぽか春庭「花散歩 一葉桜」
2005/04/10 12:29
花散歩>一葉桜
お花見、出かけていますか。
私は満開の二日間を「桜歩き」で過ごした。
4月8日は皇居周辺を、9日は隅田公園、墨堤を歩いた。
8日9日の「いろいろあらーな」のテーマを、「樋口一葉の明治24年4月11日の墨堤での花見」にして書いた。
書き終わってネットに掲載したあと、にわかに思い立ち、出かけることにした。
「一葉が母のために買い求めた長命寺の桜餅を買おう」と。
午後3時ころ、浅草駅着。
台東区側隅田公園の中に、「イチヨウ」と名札が掛かった桜がある。染井吉野とは異なる種類。花見散歩の夫婦連れが「あれ、へんだね、桜なのに、イチョウだって」「銀杏って言う名前の桜なんだろう」と話ながら通り過ぎた。
白っぽい染井吉野に比べて、うす紅色の大ぶりの花をつけている。私もはじめて見た品種なので、立ち止まり、そうだ、台東区も一葉ゆかりの地、きっと銀杏ではなく一葉だろうと思って、写真を取って帰る。
調べてみると、里桜系の栽培種の「一葉桜」だった。大島桜などは自生種だが、江戸時代から見られるようになった栽培品種だそう。
台東区小松橋通りは「一葉桜小松橋通り」と改称され、一葉桜が並木として植樹されたのだという。
山育ちなので、山辺の桜になじんで育った。水にうつる桜というのは、山育ちの身にはなんだか絵はがきのように思えて、なじめいでいたが、東京にでてきて30年、ようやく水辺の桜の美しさを堪能できるようになった。隅田川と桜、皇居のお掘と桜の取り合わせも本当に美しい。
9日、墨堤の桜は早くもピークをむかえて、ときおりの風に桜吹雪が美しい。墨田区側向島も、台東区側浅草も、堤防の上、桜橋の上、夜の宴会の準備でしかれている青いビニールシートの上にも花びらが散り敷いている。
ここ数日、暑いくらいの陽射しに、露天ではアイスクリームやところ天も売っていた。
おだんご一本をほおばる。
隅田川では屋形船でのお花見が盛りで、宴会たけなわの川船が行き交う。ゆりかもめが水面に低く飛び、泳ぎ、首を水に突っ込んでなにやらエサをみつけて、舟のまわりに群がっている。
掃き寄せて捨てるに惜しき花芥(静栄)
花浮かせ木舟に泳ぐところ天(静栄)
亡き母の句など思い出しながら、母に桜餅でもお供えしようかと長命寺まで歩いていき、びっくりした。長蛇の列。道の反対側の、言問い団子の店も同じく。買い求めるまでに60分待ちなどと聞いてあきらめる。
花の盛りはすぐ終わるが、団子や桜餅は逃げていかないので、こんなに混んでいないときに、また買いにくるとしよう。
一葉の日記をたどって墨堤を歩き、桜餅は買えなかったが、一葉桜とめぐりあった。夕暮れの隅田川を吾妻橋までもどる。散り敷く桜の中を歩きながら、桜吹雪のなかに逝った姉を思う。4月10日は、姉の命日。自分だけの命名で「桜吹雪忌」と呼んでいる。
すさまじくひと木の桜ふぶくゆゑ身はひえびえとなりて立ちをり(岡野弘彦)
おほかげを忘れむとして入りゆきし花ふぶく日の吉野象谷(きさだに)(岡野弘彦・飛天)
2005/04/11 11:55 (月)
花散歩>桜吹雪
4月8日、うらうら陽気の中、ひとり歩きの花散歩。
皇居乾門前の薄紅色の枝垂れ桜。乾門まえの2本。通りを隔て北の丸公園側に5本。満開のしだれ桜が立ち並ぶ姿、あでやかでたおやか。
人々はケータイを頭上にかざしたり、三脚をたてて一眼レフを構えたり、思い思いに写真をとっている。
今年発見の絶景スポット。前景は代官山通りに沿ったお堀の土手の桜。後景は、近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)。
夕闇を吹く風に、桜が散る。旧近衛師団司令部庁舎、田村鎮の設計による近代建築の名作である。赤レンガと白い漆喰の美しい建物を背景にして、花びらはひらひらと舞う。
「桃の節句」、雛壇に飾るのは「桜と橘」。京都御所の庭の「右近の桜、左近の橘」に由来する。
御所の庭に桜が植えられたのは、西暦963年のこと。それまでは桜ではなく、梅が「御所の花」だった。
右近とは右近衛(うこんえ/うこのえ)の略。『六衛府』のひとつで、和名は『ちかきまもりのつかさ』。内裏内の警衛、及び行幸の際の供奉を担当する令外の官(律令に定められている以外の官職)。
左右に分かれており、左近は、左近衛(さこんえ/さこのえ)
近衛府に勤務する者は、本来は武勇に優れている武人があたった。しかし、時代が下ると、近衛の官人は神楽(かぐら)の方が本務のようになる。近衛の衛士となる者は舞人楽人から選ばれるようになった。武器を身に着ける役目であっても、必ずしも武芸に長じていたわけではない。
これは、平安時代が400年ものあいだ、戦乱がみやこに及ばないでいたからこそだろう。
近衛府が、戦乱の中に武人として活躍するような時代は、不幸な時代なのだ。
近代の歴史の中では、近衛府(近衛師団)は、2.26事件や8.15(映画「日本の一番長い日」に描かれた近衛師団の反乱)に代表されるような事件のただ中に存在した。
1910年(明治43)に近衛師団司令部庁舎が建てられて以来の、歴史の重なりに花びらが重なる。2.26も8.15も時の流れのなかにある。
美しく哀しい歴史の建物に、鎮魂散華の花びらが降りかかる。
もともと「散華」とは、仏を供養するために花をまき散らすことを意味する。特に法会(ほうえ)で、偈(げ)を唱えながら列をつくって歩き、蓮(はす)の花びらの形をした紙をまき散らす法要を散華と呼んだ。
しかし、先の大戦中、戦死を美化していう語に転用され、特攻機のパイロットが敵艦に体当たりすることを「散華」と呼んだ。
太平洋戦争中に開発された、一人乗りの自爆式戦闘機を、軍部が「桜花」と名づけたこともあり、桜の花が風に散っていく光景は、戦死を美化するようにみなされ、桜にも「咲いてすぐ散り敷く」ことが、「英霊」やら「御稜威(みいつ)を守る名誉の死」のイメージが与えられてしまった。
戦死賛美を象徴する花としてのイメージは、桜の精霊にとっては、まといたくない花衣だったろう。
桜は、春のめぐりをよろこび命を輝かせる花であってほしい。
闇の中、代官山通りの土手には、街灯ひとつなく、桜の時期にこれほどたくさんの人が行き交っているのでなければ、とてもひとりでは夜の散歩はできないと思う。
目のまえを水平によぎる都心環状線は、都会を疾走するの光の帯となって、ヘッドライトがとぎれることなく流れていく。掘の水が光をうつす。
光の帯のむこうに、千鳥が淵の桜と、北の丸公園の桜が、堀をはさんで両側から水を挟み込むように、水面近くまで枝をさしのべている。水の両側に白くぼうっと浮き上がる桜は、夢幻の美しさを見せる。
前景、疾駆する車列の光の現代、後景、長いながい時の流れに佇む桜樹。時間の流れを映し出す美しい風景だ。
桜はなぜにこれほど人に「ときの流れ」を感じさせるのだろうか。年ごとに咲くのは牡丹も菊も向日葵も変わりないのに。やはり、桜には特別の桜の精霊があるのだろう。
千鳥が淵の桜並木ライトアップ。頭上に照らされている桜のトンネル。きれいだけれど、行き交う人の数もまた多く、宴会禁止の千鳥が淵でも、シートや椅子を持ち込んで飲み食いしたい人はしているし、とてもにぎやか。ボートもたくさんこぎ出している。
お堀に姿をうつす対岸の桜をゆっくり見たくても、人並みに押されるように緑道を進まなければならない。この混雑が現世(うつしよ)である。
夢幻の花見がおわれば、いやおうなく、現代社会にもどらなくては。ああ、春休みも終わってしまう。
2005/04/13 01:40 水
花散歩>海辺の桜
8日は千鳥が淵、9日は墨堤と、二日間花見散歩をしたので、10日は家にいて、9階から見下ろすいつもの「ベランダ花見」の一日にしようと思っていた。ベランダからは保育園の桜や団地内の公園の桜が見下ろせる。でも、月曜日は雨という予報なので、今年の桜も10日で見納めと思い、またでかけることにした。
小石川植物園、新宿御苑、小金井公園など、出かけたい場所を思い浮かべたが、今ひとつ「ここ!」という気持ちにならない。
千鳥が淵、お掘の水と桜。墨堤、隅田川と桜。今年の花見散歩のテーマを「水辺の桜」ということにして選ぶと、決まった。次ぎは「海辺と桜」だっ!
というわけで、浜離宮を散歩した。浜離宮へ足を運んだのは30年ぶり。
日本テレビタワーがオープンする少し前に汐留にきたのだが、それにしても汐留の高層ビル群、あたりのようすが昔とはすっかり変わっている。
昔は新橋から浜離宮入り口まで、何もなかったように思う。
浜離宮は1654年に、3代将軍徳川家光の三男である甲府宰相綱重の下屋敷として埋め立て造営された。
他にみられない浜離宮庭園の特徴は、潮入りの池。海水を取り入れ、潮の干満により水位を変化させる設計。池の中にボラ、ウナギ、カニ、ハゼなどが生息しているそう。
下屋敷は、綱重の息子で6代将軍となった家宣に引き継がれ、「将軍家浜御殿」となった。江戸時代を通じて、唯一の将軍の別荘であり、江戸城の海岸出城の役目をはたした。
家宣は、池の中央の中島にお茶屋を建て、大名などの接待所として利用した。火災で何度か建てかえられたが、近代になって皇室離宮となってからも、迎賓謁見に使われた。
「中島の茶屋」で、和菓子と薄茶をいただいた。500円也。
海辺と桜、とは言っても、浜離宮の中にはそれほど桜が多くない。桜を楽しむなら新宿御苑や小金井公園のほうが木の本数はたくさんある。ただ、桜が多いとそれだけ人出も多い。浜離宮の人出は、桜満開の日曜日にしてはそう混雑もしていなくて、のんびり園内を回れた。
園内のお花畑は、菜の花が真っ盛り。菜の花の中に身を沈めて周囲の桜をながめると、春爛漫の気分。
園内、徳川六代将軍家宣の頃植えたという「三百年の松」の前に人の輪ができ、笑い声が響く。江戸太神楽(鏡味小仙社中)が、にぎやかに曲芸を披露している。
後楽園や銀座大道芸フェスティバルで見た鏡味小仙社中のフランス人ピエールさんが、今日はいなかったが、傘のうえで茶碗や枡をまわし、「五合枡二つ回して、いっしょう、ますますご繁昌」と景気をあげていた。
「新樋の口山という小さな山の上から、東京湾が一望できる」と、園内案内パンフレットにあるのだが、私が小さいせいか、すぐ前の「浜離宮排水機場」の防潮堤防が目かくしになって、湾が見えない。かろうじてレインボウブリッジの上部が見えた。
この堤防にも桜が植えられている。風が吹くと桜吹雪が堤防下の波の上に散りかかる。海に降る桜の花びら。今日のテーマ「海辺と桜」は、この光景でよしとしよう。
レインボウ・ブリッジ望む浜離宮 江戸の春日(はるひ)を海に降らせる(春庭)
2005/04/14 08:39 木
花散歩>ビルと桜
浜離宮の海側から反対方向に目を転じれば、汐留に群出した高層ビルの群。ベンチに座ってビルを見上げると、日に光る超高層の窓窓窓を背景に桜の梢、散る花びら。この現代的な光景には賛否両論がある。
「ビルに目隠しされて、今まで見えていた東京タワーが園内から見えなくなった」と嘆く人。「江戸将軍ゆかりの庭園なのに、ビルのために江戸情緒が台無し」と憤る人。「あんな高いビルの窓から見下ろされているのはイヤだ」と嫌悪する人。
都内の庭園を見下ろせる位置に高層ビルを建てる会社からは、「借景税」でも取り立てるがよい、と、都知事に進言したいと言う人。「外形標準課税(銀行税)」を主張していた都知事なんだから、聞き入れてくれるかも。
陸側の「ビルと庭園」光景をミスマッチだと憤慨する人々もいるし、高層ビルに取り囲まれることに、圧迫感や閉塞感を感じる人もいる。
私はというと、30年前の浜離宮の様子をまったく覚えていなくて、池の水があまりきれいじゃなかったことしか印象に残っていない。
高度成長期の最後になって公害問題やら噴出のころの川や海が汚れている時代。なんだかわびしいような浜離宮、さびしい雰囲気だった気がする。
30年ぶりに来たといっても、桜の時期は初めて。はじめて見る明るい海辺の桜なのだ。
だから、浜離宮陸側の高層ビル群にも、違和感がなく、現代的なビル光景と庭園の組み合わせを面白くさえ感じた。
新宿御苑からは新宿西口ビル群が見える。後楽園の目の前にドームホテルや文京シビックセンターがあり、六義園の周りにはマンション群、という光景を見慣れてしまったせいだろうか。
私は東京生まれではないので、「どんどん変わってしまうのが東京」と思っているせいかもしれない。
「江戸情緒のこる下町」とか、「戦前の露地風景をしのばせる」などの「変わらない風景」というキャッチコピーを聞いて、「変わっていないことを売り物にする観光商売」と、割り切って受け止めてしまう。
東京生まれの人にとっては、自分の見慣れた光景がどんどん変わっていくこと、寂しいものなのだろうけど。
浜離宮からの帰りに、電通ビルの46階に上ってみる。
私は「高いとこ好き」で、東京タワー、サンシャインビル、都庁展望台、シビックセンター展望室など、どこでも高いところがあると上る。高いところからのパノラマ風景を、非日常として見るのが好き。
電通ビル46階47階には「スカイレストラン」がある。「コーヒー、一杯千円」とかだったら、私にとっては大散財だけど、風景見賃として払わなくちゃならないかなあと思いながらエレベーターを上っていく。46階につくと、狭いスペースではあるが、展望オープンスペースがあった。
小さいながら展望スペースを開放していることで、電通ビルを許してやろうか、という気持ちになる。「無料、ただ、サービス、ご招待」が大好きな私の、「貧乏性」ゆえの寛大なるお許しである。
って、私が許さなくたって、電通ビルはデンとして汐留を睥睨しているんだけどね。
上から見下ろす浜離宮。園内の通路を歩いている人が小さく見える。
こんな高いところから小さな人を見下ろして「すご〜い」と喜べるのは、非日常だからこそであって、毎日毎日仕事しながら豆粒みたいな人間を見下ろすのが日常生活になってしまったら、「天下を睥睨する」って気分になってくるのかも。電通、コマーシャル社会を睥睨しているんだなあ。
浜離宮の菜の花畑の中にいるときは世界中が黄色に染まったように思えたのに、上からみると、菜の花畑は、黄色より緑色が強く、菜の花色ではなく薄緑色。不思議。
「地上から見るのと視点を変えると、物事は異なって見える」ということを、緑の菜の花が教えているのかも知れない。
狭い展望スペースなので、パノラマとはいかないが、東京湾のレインボウブリッジ、お台場のフジテレビビル、眼下に浜離宮。
「高いとこからの光景」好きの私には、久しぶりの「非日常のひととき」だった。
光るビル散るちるミチル舞う桜 空にわたしに青い鳥にも(春庭)
2005/04/16 10:18 土
花散歩>名残りの桜
10日の風と11日12日二日続きの雨で染井吉野はあらかた散ってしまった。
12日火曜日の朝、電車の中から枝垂れ桜がまだきれいに咲いている公園をみつけた。午後、仕事帰りに途中下車して、雨の公園を歩いた。
1990年に駅前を整備して造営した公園という。園内の桜もその当時植えられたのかも知れないが、今までここの桜が咲いているのに出会ったことがなかった。ここ数年、春休み中に桜が咲いてしまい、葉桜になってから4月の新学期が始まっていたからだ。今年、はじめて桜が咲いているのに間に合っての新学期出講となった。
西公園の中央に植えられている染井吉野は、すでに咲き終わり、萌え出た若葉も雨にうたれていた。枝垂れ桜は、電車線路にそった外周に植えられている。数本はもう花が終わっていたが、線路脇の歩道に沿って、名残の姿をみせて並んでいる。
春雨と呼ぶには強すぎる雨足に、より深くうつむくように枝を下げ、ふりしきる雨のなか、うす紅色の花が美しい。花の列は百メートルくらい続く。来年も花の時期に来てみよう。
毎年毎年桜は咲き、散っていく。今年の桜が散るとき、また来年、と思う。でも、もしも来年がこないとしたら、どんな思いで花を見つめるだろうか。
ホスピスの庭の桜を、姉といっしょに見つめた三年前の春。
姉にはもう来年の桜はないのだ、と思いながら共に見る桜。花のひとつひとつがいとおしくせつないものだった。
桜吹雪のなか、静かに姉は旅立っていった。
ホスピスの窓辺にふりくる花びらを 手に受け肉腫の姉 笑みて逝く(春庭)
私(えせ春庭)の短歌は、本格的に習ったこともない言葉遊び。師匠なしなので上達もしないが、自分ひとりで楽しんでいる歌なので、気にしない。
心に残る「散るさくら」のひとつを紹介したい。本家、本居春庭の和歌。
春庭が名前を無断拝借している本家、本居春庭。国学者本居宣長の長男。盲目となったのちも鍼灸医をしながら国学の研究をつづけ、国文法のすぐれた著作を残した。
宣長も春庭も膨大な数の和歌を詠んだが、同時代の人にも後世の人にも、父子の和歌の評判はあまり高くない。
しかし、下記の本居春庭作歌の背景を知ると、雨に散りはてる桜への、本居春庭の思いが迫ってくる。
おそざくら猶のこりける花もはや けふ(今日)ふる雨にちりやはてなむ(本居春庭)
この歌を詠んだ寛政五年春(1793)、春庭は父親の本居宣長に伴われて京都へ上った。
父宣長の主な用事のひとつは眼科医さがし。数年前から治療を続けているのにいっこうに好転しない春庭の目の回復をはかって、よい眼科医の情報を集めようとしていた。宣長は大阪まで足を伸ばして眼科医をたずねている。
しかし、宣長の奔走も功を奏することはなかった。春庭の目はどんどん悪化していき、翌年寛政六年には、完全な失明に至る。
父と共に京都で春をむかえたとき、自分の目が絶望的な状態にあることを、すでに春庭も自覚していた。
もう来年は見ることはできないだろう。今年の春が、満開の桜、散る桜、最後の見納めかもしれない。自分の目に、桜の形も色もとどめておきたい。さまざまな感情が、散る桜への哀惜となって降り積もる。
散る桜への悲痛哀切な思いが一首にこもっていると感じられるのは、彼の目がもはや花びらのひとつひとつも見分けられない病状にあることを知っていて読むからからかも知れない。
雨に散っていく桜を見つめるとき、盛りを終えた姿の花に、だれしもひとつの感慨をもつ。本居春庭のうたは、その「散る花を見送る感慨」を集約しているように思える。
ぽかぽか春庭「恐竜博@スーを見た」
2005/04/20 07:44 水
春散歩>恐竜博@スーを見た
上野の国立科学博物館で開催されている恐竜博2005に行ってきた。 授業が始まり、夏休みまで私と娘の週末スケジュールがなかなか合わなくなるので、16日土曜日、混み合うことが予想されたが、思い切って出かけた。娘息子と、三人いっしょにでかけるのは久しぶり。
小学校のころ恐竜ファンになった娘、中学校からは「地学ハイキング」という団体に入って、化石掘りなどの活動をしてきた。息子も姉に影響されて、科博の「化石のレプリカを作ろう」という活動に参加したり、親子で恐竜や化石に親しんできた。
毎年行われる恐竜関連イベントにも、よく出かけた。
2002年、幕張メッセでの「世界最大の恐竜博」。セイスモサウルスの全身骨格が目玉。
2004年も幕張メッセで「驚異の大恐竜博」を見た。アジア最大の恐竜展示というチュアンジエサウルスをメインにした中国での発掘成果が中心。
鳥への進化を示す羽毛のついた恐竜化石が中国で発掘され、羽の形がはっきり見える化石が印象的だた。
「恐竜博2005」の目玉は、「ティラノサウルス、スー」。スー全身骨格の周囲には、たくさんの人が取り巻いている。
娘と息子は、最近研究成果いちじるしい恐竜から鳥への進化について、あれこれ話しながらさまざまな展示化石を見ている。
私は古生物マニアでもなく、化石についても専門的な知識はない。全身骨格標本をみて、「でっかいなあ」羽毛のあとが残る化石をみて「すごいなあ」というくらいのもの。「世界びっくり博覧会」程度の見学のしかた。
私は、「発掘ストーリー」のほうに興味をひかれる。
1990年アメリカサウスダコダ州の砂漠地帯で、全身骨格の90%を保存しているティラノサウルス化石が発掘された。
この最大のティラノサウルス・レックス(Trex)を発見したのは、スーザン・ヘンドリクソン。高校を中退後、恐竜ハンターとして発掘に参加し、またダイバーとして海洋考古学の発掘に関わってきた。
(2005年3月20日のスーザンさん講演会の録画は下記URLから)
http://www.asahi.com/dino2005/news/TKY200503240281.html
恐竜は彼女の愛称から「スー」と名付けられ、彼女の所属していたブラックヒルズ地質学研究所(BHI)が、研究をつづけた。ところが、最初は発掘の許可をあたえた土地の所有者が、一転してスー化石の所有権を主張、裁判になった。スーが高い価値を持つ化石であることがわかったためである。スーは不動産の付属物と判断され、発見したBHIから没収されてしまった。
スーはオークションにかけられ、10億円の値段でフィールド自然史博物館へ売られた。今回フィールド博物館からやってきたのは、スーの全身骨格のレプリカ(複製)。本物の化石は肋骨の一本だけ。全身で10億円もしたのだから、肋骨一本でもウン千万円?
恐竜博2005は、スーのほか、恐竜から鳥への進化研究の成果が展示されている。
エサとして飲み込んだ種子といっしょに化石になった鳥に近い恐竜や、ウンチの化石もあった。ウンチ化石も恐竜の食べ物や生活を知るためには貴重品。
Tレックスのスーほか古生物の貴重な化石がたくさん展示されているので、古生物や恐竜好きな人、ぜひどうぞ。(7月3日まで開催)
息子は目玉のスーではなく、「メイ」のピンバッチを記念に買った。メイは「静かに眠る」という意味の学名がついた、中国で発掘された小型獣脚類恐竜。恐竜から鳥への進化がよくわかる化石。
首を鳥のようにうしろに曲げて、眠ったまま化石となったメイ。現在の爬虫類が変温動物であるのに対して、メイは恒温性を示し、鳥により近い恐竜だったことがわかる。
2004年の恐竜博を見て、恐竜から鳥への進化に興味を持った息子、12.8メートルの体格を誇るスーより、53cmの小柄なメイを選ぶところが息子らしいかな。<恐竜展つづく>
2005/04/21 12:25 木
春散歩>恐竜博A化石の所有と研究
目玉展示のスーにまつわる発掘者と所有者の物語も実に劇的だが、もうひとつ私の興味をひいたのは、マダガスカル島での発掘にまつわるストーリー。
1973年と75年に上野の科博チームはマダガスカル島で多数の化石を発掘した。採集した化石の半分は科博、半分はマダガスカル地質学研究所が所有して研究する合意になっていた。
化石の一部はチームが直接自分たちで日本へ持ち帰り、研究を続けた。残りの化石は、日本への輸送を手配して帰国した。ところが、マダガスカルから日本へ発送されないうちに行方不明になってしまった。
さらに、マダガスカル政府は方針を変え、日本へ持ち帰った化石標本をすべてマダガスカルに返還するよう求めた。発掘地はマダガスカルであるから、化石の所有権はマダガスカル政府にあると。
研究半ばではあったが、チームはレプリカを作って、化石標本をマダガスカルへ返却した。
1990年、返却されたはずの化石標本がマダガスカルのどこにあるのか、調査が行われた。地質学研究所にも、他の施設にも、どこにもなかった。行方不明のまま、現在もみつかっていない。
1960年にフランスから独立したマダガスカル。1972年に新政権樹立、1973年に通貨をフランから変更。1975年に新憲法採択など、新しい課題が山積みの新国家で、国内はまだ安定した状況とはいえなかった。さまざまな困難もあったろうし、混乱もあったろう。
残ったのは、科博チームが作ったレプリカだけ。竜脚類のものと思われる貴重な化石標本の研究機会は失われてしまった。
返還後、誰が所有や研究に責任をもつのか、管理体制、調査研究体制がきちんとできていないまま返還され、マダガスカルの竜脚類恐竜化石は、どこかへ消えてなくなった。
誰も気づかない場所に眠っているのかも知れないし、だれかが売り飛ばしてしまったのかもしれない。
「地球の遺産」である化石標本。10億円という値段がついたスーほどではなくても、「お金を生み出す」ことがわかった発掘物をめぐって、土地の所有者や発掘者の「所有権」争いがおこる。研究管理体制がきちんと整えられていない地域では、問題がさらに複雑になる。
各地の遺跡でも同じようなことが起きている。
例えばカンボジアでは、長く内乱が続き、やっと政体が安定してきてからも、アンコールワット遺跡をはじめ、盗掘密売が横行していると伝えられている。
政府は、国内の政治経済を立て直すことに手いっぱい。国民の生活改善が優先され、学術調査や遺跡保存にまで手が回らない。その管理不備をついて、盗掘がやまない。
スーは10億円で売られた先が博物館だったから研究を続けることができ、Tレックス研究に多くの成果を加えることができた。
しかし、盗掘された遺跡芸術品や密売の化石標本などが、個人のコレクションとして死蔵されたり行方不明になってしまったら、人類の共通遺産として研究することもできない。
ユネスコが「世界遺産」プロジェクトをはじめて以来、世界の遺跡保存意識が高まった。
自然景観、文化遺跡に加えて、「地下の化石類」も、人類共通の宝、という認識で保護し、研究にまわせたらいいのに、と思う。
土中に何億年も何万年も眠ってきた化石が再び地上に姿をあらわしたら、その「再誕生日」を祝い、「地球の宝・全人類の宝」として、世界的な規模で、保存・研究利用ができるようにならないものかしら。
(「再誕生日」というのは、スーザンがスーの発見日について言ったことば)
欅若葉の道を過ぎゆく親子連れ恐竜展のカタログかかえて(春庭)
ぽかぽか春庭「ダンスダンスダンス」
2005/04/25 15:36 月
やちまた日記>ダンスダンスダンス
地元商店街のお祭り出し物として、私が所属しているジャズダンスサークルが踊りを発表した。
私は、ソーラン節(テレビ3年B組金八先生で、文化祭や卒業式のときB組一同が踊っていた踊り)と、ミュージカル、ウェストサイド物語のナンバー「アメリカ」を踊った。
1955年に、商店街の祭りが始まった頃は、4月1日のエイプリルフールに合わせて開催され「馬鹿祭り」と呼ばれていた。今でも地元の人は「ばかまつり」と呼ぶ。今年は50回目。メインの出し物は、子どもたちに人気の「○○レンジャーショー」やブラスバンドバトンパレード。
駅近くの会館、客席数1300の舞台では、地元の人たちのカラオケ大会とか、和太鼓、安来節保存会関東支部の踊り、マジック友の会とか、いかにも地元の寄り集まりと思える出し物が続く。ゲスト芸能人は「林家ぺー&パー子」ってとこが、「23区内のローカル商店街」っぽいところ。
「地方のお祭りのように伝統的な重みがあるでもなく、都心の洗練されたイベント祭りでもない。昭和30〜40年代の、家の中に電化製品がひとつひとつ増えていくのがうれしかった時代の雰囲気をそのままズルズルひきずってバブル後も生き残ってしまった商店街の、あくまでも中途半端な、地元っぽいお祭り」とは、娘の評論。鋭いこと言うね。
オープニングの吹奏楽団、2番出し物のフラダンスサークルに続いて、私たちのサークルは、3番目に登場。
とちったところもあったけれど、ソーラン節はもう何度も舞台で踊っているので、なんとか踊れた。
「アメリカ」は、去年の秋から半年間練習を積んできたのに、私は最後の最後まで振り付けを覚えられず、他の人たちが右回りターンしているとき左にターンしたり、出をとちったり、さんざんな出来だった。
ジェローム・ロビンスの振り付けはとてもすばらしいのだが、キレのいい振り付けの動きにはとてもついていけないし、ステップもむずかしい。
横目でとなりの人の動きを盗み見しながら半テンポおくれで踊り、まちがえまくり、それでもオバハンダンサーは楽しかった。
「アメリカ」は、ウェストサイド物語のなかで、ヒロインのマリアやプエルトリコ移民の仲間たちが踊るナンバー。お針子として働くアニタたちは、アメリカンドリームへの夢を歌い踊る。
映画でのダンスもステキだったし、昔みた劇団四季による舞台の「アメリカ」も見事なダンスシーンだった。(私が見たのは77年の市村正親が主役トニーを久野綾希子がマリアを演じたバージョンだったと思う)
母の踊る姿をみた娘と息子。「お母さんは、みちゃいられなかったよ。踊りをまちがえるし一人だけ太いし。でも他の人たちはみんなうまかったから、全体としては見ていられた」という評価。
オバハンダンサー、次は9月の「文化センター祭」へ向けて、ああ、ダイエットしよう!
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