Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
ポカポカ春庭 演劇いろいろあらーな

ポカポカ春庭の演劇いろいろあらーな2005
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演劇いろいろあらーな |
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| 日付 |
タイトル |
劇団
劇場 |
主演 |
作 |
| 2005/08/24 |
元の黙阿弥 |
新橋演舞場 |
高畑淳子 村田雄浩 筒井道隆 池畑慎之介 柳家花緑 辻萬長 田畑智子 |
井上ひさし |
| 2005/09/23 |
9月公演
平家蟹 勧進帳 |
歌舞伎座 |
芝翫 魁春 吉右衛門 福助 |
岡本綺堂 |
| 2005/08/29 |
オナー |
劇団昴 |
金尾哲夫 望木祐子 新野美知 米倉紀之子 |
J.マレースミス |
| 2005/10/15 |
夏の鯨 |
劇団昴 |
小沢寿美恵 谷口香 内田稔 北村昌子 西本裕行 |
L.アンダーソン |
| 2005/11/09 |
ガラスの動物園 |
劇団昴 |
中西陽介 朝倉佐知 大阪史子 岩田翼
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T/ウイリアムズ |


2005/08/24 水
東京ふり-ふり-生活>芝居見物『もとの黙阿弥』
演劇大好き。劇場の演目が変わるたびに見に行くというような芝居三昧生活はできないけれど、新聞や雑誌に出ている「招待券プレゼント」などに応募すると、たまには当たる。昔のアングラ劇場のような小劇団の公演もなかなか面白いものがある。
招待券が手に入れば、小劇場でも大劇場でも、どこにでも出かける。
新橋演舞場の8月公演、井上ひさし作『もとの黙阿弥』演出・木村光一。
3階席の招待券、ゲット。3階B席、一番舞台から遠い席で、花道が見えないけれど、ま、いいや。タダだから。
明治19年の浅草。興業停止を命じられている一座(大和座)が舞台。
一座の座頭・板東飛鶴=高畑淳子。一座の番頭・板東飛太郎=村田雄浩。男爵家跡継ぎ・河辺隆次=筒井道隆。その実姉・男爵家未亡人=池畑慎之介(ピーター)。河辺家書生・久松菊雄=柳家花緑。飛鶴の昔なじみの成金・長崎屋新五郎=辻萬長。その娘・お琴=田畑智子。お琴づきの女中・お繁=横山めぐみ。
座頭は、昔、異人の相手をつとめた芸者時代に西洋舞踏を覚えた。その西洋舞踏を、ひょんなことから成金の娘お琴と男爵家のあととりに教えることになった。
二人は、政略結婚の見合いを鹿鳴館ですることになっている。
相手の人柄を見抜くため身分を隠し、それぞれが書生と女中に入れ替わることから、騒ぎが巻き起こる。坊ちゃんと書生、お嬢様と女中が入れ替わって、相手方を観察しようとする。
そう言えば、NHKのドラマ『私の青空』でも、田畑智子と筒井道隆が組んでいたなあ。テレビでは「未婚の母なずなと、その子の父」だったけれど、この芝居では「あえて困難な現実へ向かって踏み出そうとする、相思相愛の華族ぼっちゃまと成金お嬢様」
演劇とは何か、演劇が人々に与える感動や影響とは何か、人が他者を演じるとはどのようなことか、など、メタ演劇的な内容もあるが、観客はそんな理屈はともかく、ドタバタあり笑いありのうちに、「自分探し」をすることになる若者二組の恋人達のストーリーを楽しむ。
オペレッタ、歌舞伎の「見あらわし」の趣向での芝居、改良新劇、この三つの劇中劇が入り組み、歌と笑いと達者な役者たちの演技力で舞台は進行する。
虚構と現実。虚実皮膜のかねあいの中で、虚構から抜け出せなくなるお繁。自分の力で相手の本質を見抜き、厳しい現実の中へ踏み出そうとするお琴と隆次。
ベテラン役者はそれぞれ達者だし、若手もがんばった。22年前の初演のときより工夫をこらしたという演出、初演を見ていないので、どこがよくなったのかはわからないけれど。
1幕と2幕の間に30分、2幕3幕の間に15分の休憩を挟んで、1時開演から5時終演まで4時間。途中オペレッタのあたり、ちょっとダレたけれど、面白かった。
<演劇トリビア>
.@「見あらわし」(歌舞伎用語)
本当の自分を隠している人物や、人間に化けている妖怪などの本性を、ほかの人物が見破ったり、本人が本性をあかす演出。最後の幕の終りの部分で行われることが多い。「どこそこの誰だれ、実は、何の誰それ」という「正体あかし」が、歌舞伎筋書きの重要な手法。
@もとのもくあみ
戦国武将筒井順昭が死去した後、その死を隠すために、影武者として順昭にそっくりな木阿弥という貧乏坊主が選ばれた。3年間は「表向きお殿様」として優雅に暮らした木阿弥だったが、用済みになったあとは、元の坊主の姿に戻ったというエピソードから、いったんよくなった状態がまた元通りの悪い状態に戻ることをたとえる。
@河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)
幕末から明治の演劇界で活躍した歌舞伎作者。代表作に『三人吉三廓初買』など。
@井上ひさしの『もとの黙阿弥』
大和座が上演禁止措置をくらっているのは、黙阿弥の新作を即座にパクって上演していたから。
「見あらわし」の手法で、書生、実は華族ぼっちゃま、女中、実は金持ちお嬢様、と正体を互いに見抜き、もとの姿に戻ることと、黙阿弥芝居をかけている。
@「作者の家」河竹家の人々
黙阿弥の娘の糸女と結婚した繁俊(演劇学者)。二人の間に生まれた河竹登志夫。
私が演劇学を学んでいたとき、歌舞伎の授業は郡司正勝先生。河竹登志夫先生の授業は、明治大正期の新演劇運動あたりの講義でした。
演劇について、重鎮から貴重な講義を受けたのに、今はみんな忘れちゃって、もとのもくあみ。
2005/09/23 金
九月歌舞伎座の勧進帳
全国から高齢女性が押し掛けてきたのかと思うくらい、たくさんのオバハンオバーサンが集まっていた。歌舞伎座ロビー。
無料で楽しむ東京生活、八月の新橋演舞場招待券につづき、九月は歌舞伎座招待券ゲット。
歌舞伎座は、中村勘三郎襲名披露、蜷川演出の「十二夜」と、チケット完売で、ここ数年来で一番の大入り満員が続いていた。
九月大歌舞伎は、中村吉右衛門の弁慶、中村富十郎の富樫による「勧進帳」ほか。
切符の売れ行きはここ数ヶ月の完売に比べ、空席もある。招待券も当たりやすかったのかもしれない。
夜の部の演目は、平家物語関連が二題。「平家蟹」と「勧進帳」あとひとつは、「忠臣蔵外伝 忠臣連理の鉢植え(植木屋)」
夜の部最初の演目「平家蟹」は、岡本綺堂作の新作歌舞伎。平家の官女だった玉虫とその妹玉琴の、平家滅亡後の後日譚。
テレビのタッキー主演、松ケンサンバ弁慶は、山場のひとつである壇ノ浦の合戦が終わり、平家滅亡が放送されたところ。
幕開けに白石加代子による平家滅亡のナレーションが入った。幕に壇ノ浦合戦絵巻がスライドで映し出され、白石加代子が平家の悲劇を語る。
テレビの義経人気にあやかろうという演出だろうが、白石加代子の語りは、好きだから、許す。30余年前の早稲田小劇場のころからのファンだもの。
幕が開き、舞台は壇ノ浦の浜辺。
主家滅亡ののち、平家官女であった玉虫と、その妹玉琴は対照的な生活をおくっていた。
妹、玉琴は、敵方源氏の一党、那須の与五郎(与一の親戚)と結婚を約束する。姉の玉虫はそれを許さない。
平家公達の亡霊が蟹の姿となって浜辺にやってくる。源氏を決して許せない玉虫は、妹もろとも那須与五郎を、と修羅場となり、ついに玉虫は壇ノ浦の荒れる波間に、、、、というお話。
夜の部目玉は、歌舞伎十八番のうち「勧進帳」。
『勧進帳』は、能の『安宅』をもとにして脚色された「松葉目物(能を原作とする歌舞伎狂言)」のひとつ。
『安宅』は、義経流浪伝説を能にしたもの。弁慶と富樫の丁々発止のやりとりが続く。
兄源頼朝に疎まれた義経は、奥州藤原氏を頼って落ち延びようとする。
義経につき従う武蔵坊弁慶、伊勢三郎、常陸坊海尊ら家来たち。
加賀国安宅の関(あたかのせき)にさしかかるとき、関守の富樫左衛門(とがしのさえもん)に見とがめられた。
今でいうなら、パスポートを持たずに国境を通ろうとするようなもの。
弁慶はとっさの機転で巻物を取り出し、偽りの勧進帳(東大寺への寄付を集めるための認可状)を読みあげた。「自分たちは東大寺から派遣された正式な山伏である」と主張したのだ。それならば、パスポートを持っていなくても、全国行脚ができる。
荷物運びの従者として控えていた義経が疑いを受けると、弁慶は疑いを晴らすために、主君義経を打ちすえる。
義経であることを見破られまいとして、必死に錫杖(しゃくじょう)で主人を打ち続ける弁慶。その心を察した富樫は、鎌倉からとがめを受けるかも知れないことを覚悟で一行を通す。
幕間、ロビーで話している中高年女性達の声が耳に入る。テレビの「鬼平」ファンなので、吉右衛門を見るために足を運んだ、という人もいた。
私は「鬼平」を見ていなかったし、歌舞伎役者の演技力を斟酌するほどの見巧者でもない。しかし、見巧者でない私も、気迫十分のセリフまわし、豪快な中にも人間味ある弁慶の存在感を感じた。見応えがある弁慶だった。
ラスト、「飛び六方」で花道を引っ込む姿、隣の観客は涙ぐんでいた。
これほどまでに「自分が一生を共にする人」と、ひたむきに義経に心を寄せる弁慶の姿。
この先には滅びが待っていると知っているからなのか、何度見ても胸を打つ。
主人への無私の忠義をつらぬく弁慶の、一途な奉公に胸をうたれた歌舞伎座の観客たち。
滅びようとする義経弁慶主従の姿に涙を浮かべている客の大半は、自分自身が半分以上滅びかかっているようなご老体ばかりである。
夏の「蜷川十二夜」では、日頃歌舞伎座には来ないような若い層も観客席を埋めたというが、『勧進帳』の観客に若いファンの姿はほとんど見えなかった。
目玉の勧進帳が終わると、観客は大分減り、最後の「植木屋」では、空席が目立った。
芝居がはねて、出口を埋める高齢の観客たち。歌舞伎はこれから、若い層の観客を掘り起こしていけるのかなあ、なんて心配になったけれど、なんとかなるんでしょ、きっと。
2005/10/16 日
観劇・劇団昴勉強会公演「オナー」(1)
夏休み中のこと。阿子さんに「いっしょに行きませんか」と誘っていただいたき、8月末に千石の三百人劇場で、劇団昴のけいこ場勉強会公演『honourオナー』を見た。(8/29第一回目公演)
阿子さんは、劇団昴の会員になっていて、三百人劇場での公演の「点字パンフレット」や「視覚障害者のための音声ガイド」を利用しながら、演劇公演を楽しんでいる。
今回の稽古場公演は、無料公開。ただで、演劇を楽しむことができる。無料大好きの私、大喜びで観劇した。男と女の愛情について、女性の自立と仕事について、丁々発止の対話劇が繰り広げられ、勉強会公演ではあるが、すぐれた舞台であった。
以下、『オナー』の観劇記録。
「オナー」は、オーストラリアの女性劇作家ジョアンナ・マレースミス(1962年生まれ)の1995年の作品。松本永実子訳(ニックハーン2003年改訂版による)
4人の出演者による対話劇。2人ずつ組合わさって、対話がつながる。
A:作家ジョージ(金尾哲夫)、B:その妻オナー(望木祐子)、C:ジョージとオナーの娘ソフィ24歳の大学生(新野美知)、D:ライターのクローディア28歳(米倉紀之子)
演技力には定評のある昴の役者4人が丁々発止の対話を繰り広げる。
ベテランの金尾哲夫と望木祐子に、若手の米倉紀之子と新野美知ががっぷり組み合い、とても見応えがあった。
組み合わせは6通り。A
vs B、B vs C、C vs D、D vs A、A vs C、B vs
D
2002年に文学座アトリエの会が上演した「オナー」とは、翻訳が異なっている。文学座版では、「カレンシープレス1997版」からの翻訳で、作家ジョージの名前は「ガス(アンガス)」になっている。
オーストラリアでのリーディング公演は、メリル・ストリープがオナー役を演じたそう。
オナーはヒロインの名前であるが、英語の「honour」が持つ多義を、出演者4人それぞれが人生に負っている。以下の文で『 』に入っているのが「honour」の日本語訳。
文学座公演記録にも、昴の勉強会パンフレットにも、この「4人それぞれにとってのhonour」ということは書いてなかったので、もしかしたら、私が感じただけの語感かもしれないが。
honour
=『
誉れ、名誉、栄誉、面目、体面、貞節、淑徳、道義心、廉恥心、自尊心、尊敬、敬意、名誉賞、勲章、表彰、叙勲、儀礼、優等、大学の優等コース、トランプの切り札 』
(以下、公演紹介ネタバレ注意)
三百人劇場3階けいこ場の中央にテーブルと椅子四脚。ここが舞台。両側に観客のための30脚ずつの椅子。役者は、両側から観客の視線を受けることになる。
A:ジョージ
ジョージには、長年築き上げてきた文芸評論家としての『名誉』『体面』がある。しかし、32年間続く平穏で平凡な結婚生活の中、妻との穏やかな愛情だけでは充足できない。
自分の人生にこれまで不足していた、刺激のある生き生きした存在が必要なのだ。
ジョージは、『自尊心』を満足させるために、他者からの『尊敬』のまなざしを必要とする年齢になっている。
そんなおり、雑誌のライター、クローディアからインタビューを受けた。
舞台の灯が全て消えている中から上演開始。インタビューに答えるジョージの声が暗い中から聞こえる。灯がつくと、ジョージの家の居間。クローディアが質問している。
クローディアは知性を輝かせている若いライターだ。ジョージは、いつになく多弁になってクローディアからのインタビューを受ける。
クローディアは質問を重ねる中、ますますジョージを『尊敬』する気持ちが強くなる。
B:オナー。
夫の執筆を支えることと子育てを何より優先させ、妻としての『貞節、淑徳』作家の妻としての『面目』を守って暮らしてきた。娘のソフィは大学生となり、もう何の心配もない。
ジョージへのインタビューを補完するため、作家を支えた妻であるオナーにもインタビューが行われる。
クローディアは「結婚前に、あなたが発表した作品はとてもすばらしかったのに、何故、結婚と同時に書くことをやめてしまったのか」とオナーにたずねる。
作家志望のクローディアは、オナーの若い頃の作品を読みこなしていた。クローディアの存在に、オナーは若い頃の自分を重ね合わせる。
夫を支える妻として、娘の成長を願う母として、穏やかな愛のある家庭を自分の『誉れ』と感じてきた。よい家庭を手に入れた自分の人生に満足している。
専業主婦として毎日の生活をこまごまとこなし、夫への愛を優先させた人生に悔いはない。
だが、クローディアと同じ年齢のころ、オナーは自分の作品を完成させること、出版することに全力を注いでいた。
C:ソフィ
大学に入学したとき、ソフィは、自分が凡庸な学生であることに気づいた。ソフィが新入生のとき、4年生のクローディアという光輝く女子学生がいたからだ。
クローディアは『優等生』で、いつも取り巻きのボーイフレンドにちやほやされ、キャンパスに君臨していた。それに比べて、自分は両親の期待に応えるほどの『名誉賞』も『表彰』も受けていない。
両親を『尊敬』しているけれど、両親を乗り越える自分ではないことを知っている。
D:クローディア。
クローディアは自分が優秀であることを武器として生きてきた。大学の『優等コース』を最優秀で卒業し、優等学位を得た『自尊心』がある。
しかし、『優等生』の『栄誉』だけでは、現実の生活には役立たない。作家として成功したいという野心を持ちながら、現在はフリーライターとして、雑誌のインタビュー記事などを書いている自分に、満足していない。
いつかは、自作を完成させて出版のチャンスを得たい。『トランプの役札(ace,king,queen,knave,tenなどの切り札=honours
)』さえ手に入れられれば、必ず自分は世に出られるはずだ。
『尊敬』し、『敬意』を払ってきた文壇重鎮にインタビューできるチャンスを得て、ジョージへのインタビュー質問にも力がはいる。
大物評論家のジョージは『切り札』になってくれるかもしれない。
クローディアのジョージへのインタビューが進むうち、ふたりが交わし合う視線は、作家とインタビュアーから、男と女へと変化する。
ジョージは、自分を尊敬し、『敬意』のまなざしを向けてくれるクローディアの魅力のとりこになる。ジョージは、住み慣れた家を出て、クローディアのアパートへころがりこんだ。
「もう、君とは終わったんだ、君といっしょに暮らすことはできないんだよ」というひとことで、オナーは夫から捨てられてしまったのだ。
ソフィは父親の不倫に我慢ならない。若さにまかせた『道義心』『廉恥心』を発揮して、クローディアを非難する。
母の側にたって不倫をなじるうち、クローディアへの対抗心は、両親のためだけではないことに気づく。クローディアが学内で得ていた『栄誉』に対して嫉妬し、両親の期待に応えられないできた平凡な自分への自信のなさがソフィをつきさす。
めぐまれない家庭に育ったクローディアにとって、知性と教養ある両親に育てられ、部屋いっぱいの本の山の中で育ったソフィは、自分が欲しくてたまらなかったものを、なんの苦労もなく与えられて育った娘に思える。
クローディアは、よい成績をとり『優等賞』をために、あらゆる手段をとった。
文学作品を読んで感動するより、この作品をどう分析してどう表現すれば、さらによい成績のレポートになるかと苦心した。
成績のよさだけがクローディアの武器だった。自分の能力以外、親のコネも金もないのだ。利用できるものは何でも利用する。それ以外に、今の環境からのし上がる方法は見つからないのだ。
クローディアには、尊敬できる父的存在を求める気持ちが強かった。ジョージに惹かれたのは、彼の大きさが魅力であったからだ。しかし、いっしょに暮らしてみれば、彼もまたひとりの男にすぎない。
夫を支え、夫の愛にこたえることが自分の人生の『誉れ』と思ってきたオナー。夫は若いクローディアに狂い、あっけなく自分を捨てて出ていった。30年以上、夫への献身が愛だと、信じてきたのに。
これは一時の気の迷いかもしれない。夫の帰りを待つべきだろうか、それとも。
クローディアの部屋で生活をともにするうち、ジョージにはわかってくる。クローディアが欲しているのは、「ジョージとの愛情に包まれた生活」ではない。
彼女には、自分の作品を売り込むこと、成功することが人生の最優先事項である。尊敬する年上の作家としてのジョージ以上に、出版社とのコネクションを持つジョージ、作家としての名声を持つジョージが必要なのだ。
だが、評論家としての『自尊心』に賭けて、公平な評価をするなら、クローディアの作品はまだまだ、出版するに値しない。
クローディアの作品出版のために、何の役にも立たない人間だとしても、彼女は自分を愛し続けてくれるのだろうか、それとも。
オナーはクローディアとの対話をつづけるうち、結婚生活のために捨ててしまった別の人生があったことに気づく。クローディアは、若い頃の自分のもうひとつの姿なのだ。
ボロ雑巾のように夫に捨てられた感情を癒すために、オナーは再び作品を書き始める。
妻として母として生きてきた32年の歳月は、決して無駄に過ぎ去ったわけではない。オナーの中に、書くことへ意欲の炎が、埋み火となって燃え続けていたのだった。
オナーが新しく出版した作品は、高い評価を得る。
オナーは、ひとりで生きてみる決意をジョージに告げた。
オナーの作品のすばらしさに打たれたクローディアは、『切り札』は自分の中に育てていくものだと感じる。
ソフィは劣等感からの解放を考え始める。自分は両親の期待にこたえるような優等生ではなかった。でも、それがどうしたっていうのだ。自分は自分なのだ。
自分独自の世界を築いていくのは、自分自身なのだ。母オナーが自分自身の世界を形作るようになったように。
4人のこれからの人生は、どうなっていくのかわからない。しかし、依存しあうだけではなく、はっきりとした意志を持って生きていこうとする女たちにとって、どのような人生を歩むにしろ、それは自分で選び取った、後悔のないものになるだろう。(オナー、ストーリー紹介おわり)
対話のやりとりで、しだいに見えてくる人生の裏面。
4人の男女が、対話を繰り返し切り結ぶなかで、お互いの真実の姿に気づき、押し包み隠しこんでいた無意識や自分の内面に気づいていく。
対話の中から、それまで表面上は繕われていた人間の内面の真実が露呈され、お互いの関係が変化する。
人と人の真剣な語り合いのなかに、新たな人間関係が築かれ、蓋をして隠していた自分の真の内面を取り戻していく。
火をふくような対話の進展は見応えがあった。
役者が目の前で、はげしくセリフを言い合う演劇の迫力、すばらしかった。
ストーリー展開は、ドラマのひとつのジャンルを作り上げてきたテーマ。
この劇を見ていて、早い段階で結末までのストーリーは推測できる。
オナーへのインタビューで、彼女も結婚前はすぐれた作品を発表していたことがわかり、クローディアがジョージと不倫関係になるところで、オナーは、夫を陰で支えきた生活と決別し、自分自身の作品を再び書き出すだろう、クローディアとジョージは結局うまくいかないだろうと、見通すことができ、推測通りの結末になる。
「家庭を守ってきた妻が、夫とのトラブルを契機に自分の生活を振り返り、自立へと向かう。結婚と同時にあきらめた人生を見つめ直していく」というストーリーは、いろんなバリエーションのドラマになってきた。
ストーリーの進行につれて、表面上は隠されていた家族の真実の内面が現れてくる、というのも、さまざまなパターンで見てきた。
J.マレースミスの脚本に、他のドラマとは異なった魅力があったのは、ジョージ、オナー、クローディアの3人ともが「書く人」であった、ということによるのかもしれない。文章を書き続けている者にとって、「書く人」をめぐるドラマというのは、もうひとりの自分をみつめることであるから。
また、ジョージをめぐる3人の女性、妻オナー、娘ソフィ、愛人クローディアそれぞれに、マレースミス自身の姿が投影されているように思う。ジョージア・マレースミスの父は、オーストラリア文壇の大物文芸評論家なのだという。
結末まで見通せてしまうような、既視感があるストーリーでも、最後までのめり込んで見ていられたのは、役者の演技の迫力のすごさもある。
劇団の勉強会として、役者はノーギャラ、観客は入場料無料で、これだけの演劇を提供できるのは、雲から昴へと続く「新劇老舗の財産」なのだろう。
観客にわかりやすいようにするためには、対話劇の前半と後半の人物像の変化をもっとくっきり出してもよかったのに、と思う。
クローディアはシーン暗転のたびに衣裳を着替える。
主婦オナーはドメスティックな印象の服装で登場し、作家として復帰したあとも、同じ衣裳で通す。
彼女の意識が変化したことを、もっと見た目でしめす部分があったほうがわかりやすいのに、と思ったのだが。
見た目も演技も、変化させないで、最初から最後まで同じ印象で終わったのは、「主婦オナー」も「作家オナー」も、ひとりの女性の持つ両面であって、別の印象にする必要はない、という演出なのかもしれない。
なにより「無料」というのが好きな私には、大満足の観劇だった。
残念なことに、三百人劇場は老朽化し、現在の場所に再建することが不可能な情勢という。
2006年の年末で閉鎖。別の土地に劇場や稽古場を探すとなると、交通の便利な都心では難しいだろう。今のように、気軽に見にいける場所が見つかるうれしいのだけれど。(おわり)
2005/10/22 土
観劇『夏の鯨』(2)劇団昴10月公演
阿子さん、彼女のお友達といっしょに、劇団昴10月公演『八月の鯨』を見た。(10月15日(土)午後2時開演)
主役のふたり。映画ではベティ・デイヴィスが演じた「リビー86歳」の役を小沢寿美恵、リリアン・ギッシュの演じた「リビーを世話している妹セーラ78歳」を谷口香。
映画ではヴィンセント・プライスが演じたマラノフ(元ロシア男爵)を内田稔。幼なじみの友人ティシャを北村昌子、水道配管工ジョシュアを西本裕行。
登場人物5人の平均年齢は80歳近く、というお芝居。
緑内障のため目が見えなくなり、若い頃からのへそ曲がりと頑固な性格がよりいっそうきつくなってきたリビー。死への不安から、ますます意固地になっている。
しかし、心を通い合わせてきた妹セーラや、幼ななじみティシャらの存在によって、リビーの心は揺り動かされていく。
「夏のおわりにやってくる鯨」に対して「もう、鯨はやって来やしないよ」と言っていたリビーだったが、ラストシーンでは、「鯨はきますよ。きっと。いっしょに待っていようよ」と言うようになる。
セーラとリビーの老姉妹が思いを込めて海をみつめ、舞台はおわりとなった。
映画の演技もすばらしかったが、昴公演も、俳優の演技がひとりひとりすばらしく、とてもよい舞台だった。
この日は、公演終了後に「視覚障害者のための舞台説明会」が行われた。
まず、舞台装置の説明。前景にリビーとセーラの別荘のベランダ。メーン州の島の入江に建っている、築70年以上の古い海辺の別荘の設定。
ベランダ下手(しもて=客席から見て左側)に椅子。上手(かみて)にテーブルと椅子。
ベランダの奥に居間。居間とベランダの間にあるはずの壁は、見えない。
居間の下手に食事のテーブルと椅子3脚。中央にリビーお気に入りの揺り椅子。上手に小さなサイドテーブルと椅子2脚。
舞台下手にベランダへ出るドア、舞台下手奥にセーラの部屋へ入るドア、奥中央に台所に続くドア、中央上手よりにリビーの部屋に続くドア。居間の上手には、古い暖炉。暖炉の上には、リビーとセーラの母親や、セーラの夫フィリップの写真が飾ってある。
映画は、浜辺や海辺の散歩道、岬などが美しい晩夏の光のなかに描写されていたが、舞台は、このベランダと居間のみで進行する。
舞台装置の次ぎに、小道具制作を行った若手劇団員、準団員からの説明があった。
マラノフが釣りをしたあと、ビクに入れてセーラに届ける魚。稽古用につくったビニール製はボツになり、本番用は布製。「スズキ」をつり上げたという設定。
リビーが「白鳥のように真っ白」であることを確認していた長い髪。稽古用に使用したかつらや、布製の魚、マラノフがセーラにみせた、ロシア帝政時代のエメラルドの指輪などの小道具に、さわってみるように、ということばがあり、視覚障害の人達は、小道具にさわってみて、さっき見た舞台を反芻して、もう一度楽しんでいる。
聴覚だけで様々な情報を得て楽しむことのできる視覚障害者だが、時にはこのように触覚も動員して、いろんな楽しみ方ができると、観劇もよりいっそう心に残るだろう。
「ヘルパー利用時に障害者の負担が増える」という内容の、障害者自立支援法が成立し、障害をもつ方々の多くは、これからの生活に不安を感じている。
阿子さんにとって、観劇は生活をいきいきとさせる最大の楽しみだったが、これからの外出や生活に、今まで以上の不自由があらわれてくるだろうと、心配でならない。
目が見えなくとも、自分の持てる能力の限りを発揮していっしょうけんめい社会と接点を持ち、社会の一員であろうと努力を続けている阿子さん。
視覚障害者だけでなく、他のハンディキャップを持つ方々が、安心して暮らしていける社会になるよう、願っています。
視覚を失って久しく、老齢と死におびえていたリビーが、自分の目には見えなくとも「鯨はきっと来ますよ」と、希望をもって海へ顔を向けたように、すべての障害者高齢者病気を持つ方、あらゆる人に希望を残せる社会であるように。
<終わり>
2005/11/09 水
東京ふりふり生活>青いバラとガラスの移動動物園(1)劇団昴けいこ場公演「ガラスの動物園」
テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』けいこ場公演へ行ってきた。無料!!
劇団昴の「劇団内勉強会を会員へ特別公開する」という試みの観劇、第二弾。(10月29日2:00開演)
千石の三百人劇場。一階は280席の小ホール。勉強会は、3階にある稽古場で上演される。
友人の阿子さんが劇団昴の会員登録をしているので、阿子さんに誘っていただき、見ることができた。
私と阿子さん、狭い稽古場入り口から急な階段を上り、会場へ着いたときは、ほぼ満席だった。劇団内の関係者や昴の観劇会員が2時からの上演を待っている。
稽古場の半分に舞台装置が置かれ、のこりスペースに折り畳み椅子が70脚ほど。
阿子さんは、「テネシー・ウィリアムズと言えば、ガラスの動物園、欲望という名の電車、焼けたトタン屋根の上の猫。とても有名な作品なのに、これまで観劇したことがなくて、ぜひ見たいと思っていた」と、上演開始が待ち遠しい様子。
視覚障害者の阿子さん、「見たい」といっても、見るのではない。音声ガイドのたすけを借りながらの観劇を楽しみにしている。
稽古場公演は、本公演とちがい視覚障害者のための音声ガイドがつかないので、私が音声ガイドの代理をつとめる。
開演まえのわずかな時間に、パンフレットの出演者名などを小声で読み上げ、舞台装置の説明をする。
稽古場の舞台装置、アメリカ初演時の舞台に準じて設置されている。
しかし、狭いスペースなので、初演の装置とは左右が逆になっているなど、稽古場のスペースに合わせて改変されている。
舞台下手に壁。壁の前に。手前から蓄音機、ソファ、暖炉。暖炉の上に、家出している父親の写真。
上手の手前に、入り口と非常階段とテラス。上手の壁まえに、鏡とローラの勉強机。机の上の棚に、ガラス細工の動物コレクション。
中央奥にディナーテーブル。中央奥と手前の居間は、カーテンで区切られる。
今回の昴『ガラスの動物園』稽古場公演は、普通演じられる1948年改定版ではなく、1945年初演版だという。訳、演出:三輪えり花
出演。トム:中西陽介 アマンダ:朝倉佐知 ローラ:大阪史子 ジム:岩田翼
勉強会公演は、役者はノーギャラ、舞台装置も若手たちが手作り。照明、音楽なども最小限で演じられる。役者の演技力が一番ためされる舞台かもしれない。
初演バージョンに忠実に演じられるため、映画などで知られている内容とは、登場人物のキャラクターや演出が違っている部分があるという。
舞台が始まった。放浪を続ける作家志望の男トムが若い頃の回想を語り始める。
セントルイスの場末の古アパート。
ハンサムだが生活力はなかった父親は家を出たきり、数年も音沙汰がない。一家は貧困生活を続けているが、上流出身の母親はプライドを失っていない。
母親アマンダは、南部の上層階級の家に生まれた。たくさんの求婚者に囲まれた華やかな娘時代をすごした。その思い出を繰り返し語ることによって、彼女のプライドが保たれている。
息子はしがない倉庫係、娘は足が悪く家に引きこもっている。
華やかな時代の追憶を語り続けなければ、息子が稼いでくるわずかな靴会社倉庫係の給料だけで暮らすみじめな生活、電気代さえ払えない下層生活には耐えらそうにない。<つづく>
07:55 |
2005/11/10 木
東京ふり-ふり-生活>青いバラとガラスの移動動物園(2)ひきこもりの家、出ていきたい家
息子のトムは、家を出て放浪している父親に似ている。夢見るばかりで、生活力がない。
娘のローラは足が悪く、極端に内気。人と普通に交わることができず、家の中に引きこもっている。ガラス細工の動物を集めることだけが、心のなぐさめだ。
トムは倉庫係の仕事がいやでならない。わずかな休憩時間、トイレにこもって詩や戯曲を書いている。
つい、仕事の時間を忘れて書き続け、こんど仕事をなまけているところが見つかったらクビにするぞと言われている。
家に居て母親の愚痴を聞くのも苦痛で、毎晩、映画を見に行くと言って出ていき、安酒場で飲んだくれるしかない。
トムは、この閉塞した家を出ていきたい。しかし、自分が出ていったら、母と娘の生活はどうなるのだろう。ことに、婚期をすぎたまま誰ともつきあわないでいる姉のローラが心配だ。
アマンダは、トムに、友達を夕食に呼び、ローラに紹介するよう命じた。
トムの同僚は、高校が同じだったジム。
ジムは高校時代はスポーツも勉強もできるヒーローだった。しかし、現在は、トムと同じ、しがない靴会社で働く身。ただし、ジムには夢がある。夜学へ通い、資格をとるつもりなのだ。そうすれば将来も開けてくるに違いない。ジムはトムにも夜学をすすめている。
しかし、トムは「堅実に実直に」暮らすことは、自分には向かないと思っている。トムは物書きになりたいのだ。
アマンダは、昔仕立てた思い出のドレスを身につけ、ジムを大喜びで迎えいれた。
ローラは、トムが連れてきた「青年紳士」が、高校時代あこがれていたジムだったことを知ると、緊張のあまり、食事ものどに通らなくなる。
アマンダだけがごきげんの、ぎこちないディナーが始まった。
母から支払うように言いつかった電気代を、ジムは支払いにあてずに使ってしまった。お客ががいるにもかかわらず、ディナーの最中に電気が止められてしまう。暗い部屋。
ろうそくのわびしい灯のなかで、ジムはローラと話す。ジムとの会話で、心をひらくきっかけをつかみそうで、できないローラ。
ジムはローラが大事にしていたユニコーンのガラス細工を落としてしまった。
角がもげたユニコーンを見て、ローラは「他の馬と同じになった」と言う。
「婚約者を駅まで出迎えにいくから」と言って、ジムがそそくさと帰ってしまったあと、トムとアマンダは大げんか。トムは、家を出る決意をかためる。
家を出て放浪しているトム。
トムは回想のなかで、ローラに呼びかける。「ローラ、ろうそくを吹き消すんだ!」
ローラがろうそくを吹き消し、暗闇のなか、おわりとなる。<つづく>
09:21 |
2005/11/11 金
東京ふり-ふり-生活>青いバラとガラスの移動動物園(3)The Glass Menagerie
演出や役者のキャラクター解釈で、様々な受け取りかたができる舞台に作れると思う。
最後にローラが吹き消すろうそくも、家の中のろうそくを吹き消して、ひきこもっている家から出て、別の灯を求めるのだ、という解釈もできるし、暗闇に中にひとりとりのこされたのだ、と解釈することもできる。
「一角獣の角がとれて、他の馬と同じになってしまったガラスのユニコーン」を、どう解釈するのかも、読者あるいは観劇した人、映画を見た人の自由にできる。
繊細なガラス細工の心をもったローラが、壊されてしまった、という解釈もできるし、角をもち孤絶したユニコーンであることをやめ、「普通の馬」として、走っていくのだ、と解釈する人もいる。
また、希望を求めて家を出ていくトムにスポットあてるか、家に取り残されるローラにスポットをあてて見るかでも、受け止め方がかわってくるだろう。
ひとつのことばの印象ががらりとかわることがある。翻訳の違いで、自分のイメージが変わったことばのひとつ。「The Glass Menagerie」。
テネシー・ウィリアムズの戯曲タイトルとして一般に知られている訳語は『ガラスの動物園』。
私は、「The Glass Menagerie」という原題を知るまで、ずっと英語タイトルは「The Glass Zoo」なのだと思っていた。
『ガラスの動物園』というタイトルの印象。
ガラスの透明できらきらした感じ、繊細でもろくはかない感じと、動物園の明るく楽しげな語感がミスマッチで、なにか、戯曲の内容とはしっくりいかない感じがあった。
でも、原題は「The Glass Zoo」ではなかったのだ。「The Glass Menagerie」
Menagerieは、地方を巡回する「巡回動物園」「移動動物園」を意味する。
わびしく、悲しく、しょぼくれた動物たちが、ノソノソと餌を喰む移動動物園。
それでもささやかに人の心をはずませ、一日たつと次の場所へと移動していく巡回動物園。
日本でも、幼稚園やお祭りのイベントとして、兎やモルモット、山羊、オウムなどをケージに入れた移動動物園が地元にやってくる。
上野動物園や多摩動物園のように、パンダやコアラ、象、ライオンといった「スター動物」はいない。
動物園の明るさ華やかさに比べると、「移動動物園」には、家庭的な親しみはあるが、ちょっとわびしげで、小粒で、「三流感」がただよう。
移動動物園のにぎやかさは、一日だけのイベント。明日はまた単調でたいくつな日常に戻る、そういう語感がある。
極端に内気で、人と交わることができない、婚期おくれのローラ。ローラが集めているガラス細工の動物たちは、はかなくはあるが、動物園の楽しさ賑やかさを感じさせはしない。
「The Glass Menagerie」は、「ガラスの動物園」ではなく、「ガラスの巡回動物園」「ガラスの移動動物園」という翻訳のほうが、ぴったりだったのに。
この「たった一日だけのにぎわい」「出会った次は別れ」こういう語感が、「移動動物園」にはあるが、「動物園」では、この悲しさわびしさが、消えてしまう。
「The Glass Menagerie」は、「ガラスの移動動物園」であるべきなのだ。
タイトルを「The glass Zoo」だと思っていた間、若いころの私は、劇のラストに希望を見いだしたかった。
「ローラは、ろうそくを吹き消して外へでていくのだろう。孤独なユニコーンであることをやめ、普通の馬として歩み出すのだろう」と解釈していた。
しかし、「The Glass Menagerie」というタイトルから全体の印象もラストの解釈もかわってきた。
ジムという一日だけの観客を迎えた移動動物園は、客が帰ってしまえば、一日のにぎわいでおしまい。また元の果てしない繰り返しの日常の中に戻っていくのである。
ろうそくを吹き消した暗闇のなかに取り残されたローラが、次の灯をみつけられるのかどうか、わからない。
暗闇のなかに取り残されたローラの姿は、暗いラストになるのか。
いや、「Zoo」の楽しさ華やかさは失われたが、ローラの姿はより鮮明にくっきりと、舞台の闇のなかに屹立するのである。<つづく>
06:21 |
2005/11/12 土
東京ふり-ふり-生活>青いバラとガラスの移動動物園(4)「上演上映、翻訳のタイトル」
日本では、「The Glass Menagerie」は、舞台でも、映画でも一貫して「ガラスの動物園
」として、上演上映されてきた。
1987年のポール・ニューマン監督による『ガラスの動物園』再映画化は、1987年のカンヌ映画祭パルムドール賞を受賞。音楽担当のヘンリー・マンシーニはゴールデングローブ賞を受賞。
出演 ジョアン・ウッドワード 、ジョン・マルコヴィッチ 、カレン・アレン 、ジェームズ・ノートン。
妻ジョアンが演じた舞台を見て感動したニューマンが、妻の演技のすばらしさを永遠に記録したいと考えて、映画化を企画した、という、テネシーの戯曲に忠実なシナリオでの映画である。
最初の映画化は1950年。舞台初演の5年後だった。監督はアーヴィング・ラッパー。主演、ジェーン・ワイマン、カーク・ダグラス。アーサー・ケネディ ガートルード・ローレンス
私は、この映画を、むか〜し見た覚えがあるのだが、テレビで放映されたときに見たのだったか、場末の名画座二番館みたいなところで見たのかも覚えていない。
出版されている戯曲のタイトルも「ガラスの動物園」。
以前読んだのは、小田島雄志訳新潮文庫だったか、と思う。今回、読み直したのは、劇書房発行の、松岡和子の翻訳で。
chiyoisozakiさんの「The glass menagerie」についてのコメントにこたえて、
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ガラスの動物たちは、原作の中でなんどかセリフの中にでてくる。
トムのセリフ「「ローラはガラスの動物の世界に閉じこもっている」
など。
Menagerieは、「動物園などにいる、たくさんの動物たち全体」を習合的にあらわしていて、施設としてのZooは、「zoological garden=動物学上の園」
私たちが「動物園」というときにイメージする上野動物園などは、zoological gardenとして、動物学などの研究を含む施設。
単に、動物を集めて、見せ物小屋のように見物させるほうは、menagerie.
だから、このお芝居の「The Glass Menagerie」は、「ガラスの動物たち」くらいの翻訳がいちばんふさわしいと私は思う。私が翻訳者だったら、「ガラスの動物たち」にするけれど、そうすると、町から町へ移動して見せ物にするイメージが消えてしまう。
ガラスの動物たちが象徴する意味について、見る人それぞれに考えていいのだと思う。
私は、最初、ローラの心の象徴だろうと思っていた。繊細でこわれやすく、透明なローラの心。テネシーは、ローラの心をガラスの動物で洗わしたのだと。
今は、この劇に登場する人、4人とも、それぞれにガラスの心をかかえているのだと思って見ている。
若い頃の華やかさを回想することでしかプライドを保てない、子どもたちに対しては抑圧的にしかふるまえないアマンダ、作家を夢見て家を出ていくことを望みながら悩み続けるトム。
高校時代はヒーローだったのに、今はしがない靴会社の社員のジム。
それぞれが、ガラスの透明さと、もろさを持った動物たちなのだと思う。
原作のテネシーが、The Glass Menagerieをタイトルにした意味について、本人が書いたものがあるのかもしれないけれど、私は、観客それぞれの解釈でいいと思う。
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日本での舞台上演も、「ガラスの動物園」として、様々な劇団がこの戯曲を上演してきた。舞台女優にとって、「一生に一度はぜひにも挑戦した役」のひとつが「アマンダ」と「ローラ」といわれる。
tptの2001年上演(佐藤オリエ:アマンダ 富田靖子:ローラ)のように、「ガラスの動物園The Glass Menagerie」と、英語タイトルを併記した上演もあった。これは、やはり動物園がZooではないことをアピールしているのだろうと思う。
「The Menagerie」は、「見せ物小屋の動物たち」であり、また「見せ物小屋にいるような風変わりな人々」をもあらわす。
母親、姉と弟、弟の同僚。この4人の登場人物だけの激しいセリフ劇であるが、ひとつの家庭の真実の姿と崩壊が、セリフの中からあらわれてくる。
登場人物の4人が「風変わりな人々」であるだけでなく、おそらく見ている観客ひとりひとりが、自分自身を「ガラスの動物のひとつ」「風変わりな人々のひとり」として、見つめ直さずにはいない、そんな見終わったあとの感想を持つ劇である。
『ガラスの動物園』に登場するトムはテネシー自身がモデル。靴会社の倉庫係として働きながら、「作家になる」というあてのない夢を追い続けているという点も、テネシー・ウィリアムズ自身の人生が反映されている。
トムの姉ローラは、ウィリアムズの実姉ローズがモデルである。<つづく>
00:06 |
2005/11/13 日
東京ふり-ふり-生活>青いバラとガラスの移動動物園(5)母と姉と弟
T・ウィリアムズは、極端に内気なひきこもりの姉ローズを愛していた。
ローズは、母親が入退院を繰り返すなか、不安感から逃れることができなくなり、精神の平衡を失っていった。
ローズに対して、両親は「こんな、人付き合いもできない子は精神が病んでいる」と考え、病院にロボトミー手術を許可した。テネシーが家を離れて、大学のある町で暮らしていたときのできごと。テネシーはこの施術を知らないままだった。
(ロボトミー手術=前部前頭葉切截術。手術を受けた患者のうち10%は、施術後、鬱状態など精神疾患の改善がみられたが、90%の患者は、手術によって廃人状態となった)
テネシーの姉はロボトミー手術によって廃人となり、精神病院で生き続けるしかなくなった。テネシーは、終生、姉に手術を受けさせたことを許さなかった。
有名人になって以後、テネシーは姉の面倒を見続けた。
テネシーは姉の姿を舞台にとどめた。
ガラスの動物を集めることが唯一の心のなぐさめだったローラ、「ブルーローズ」というニックネームで呼ばれたがったローラ、として舞台に形象された。
ローラは、足が悪く、人とうまく関われない性格。
部屋にひきこもり、古い蓄音機で音楽を聴き、ガラス細工をながめたり磨いたりして一日をすごしている。
人の中に出ていくと緊張し、話をすることもできなくなる。
英文タイプの専門学校へも、極度の緊張のため通えない。母を心配させたくないばかりに、ローラは通学していると嘘をついて冬の公園を歩き続け、風邪をひいてしまった。
風邪で欠席するという連絡のために、学校を訪れた母アマンダは、ローラが通学していないことを知ってしまう。
テネシーの戯曲では、ローラが部屋に引きこもっている数日が描かれている。
母アマンダ。南部の上層階級の生まれ。お嬢様育ちだったのに、ハンサムだけがとりえの男に恋したあげく、夫に逃げられ、今は落ちぶれた生活を続けている。
家族を捨てて出ていった夫と、婚期が遅れてしまった娘と、息子の薄給をあてにするしかない生活。
アマンダは、若い頃の美しさ華やかさを回想することでプライドを保っている。若い頃すごした場所の名「ブルーマウンテン」が、アマンダの誇りのよりどころなのだ。
その場所の名を口にすれば、昔の栄光の時代を呼び戻すことができる。「ブルーマウンテン!」
アマンダは、わびしい生活の陰を振り払うかのように、にぎやかにおしゃべりを続ける。しゃべり続けていれば、いつか幸運が言葉にのせられてやってこないとも限らない。そう
信じているのかもしれない。
息子も娘も、自分の思い通りに育てたかったのに、うまくいっていない。
娘は堅実に手に職をつけるか、幸福な結婚をしてほしいのに、家にひきこもったままだ。息子は、手堅く働く勤め人になってほしいのに、家を出たままの父親のように、外へ出たがっている。
アマンダは、ますます子どもたちを支配しようとし、抑圧的な態度をとる。夕食の食べ方、レコードの聞き方にいたるまで、口を出してしまい、トムはますますイライラをつのらせる。
アマンダが「ローラの恋人をさがすために、若い紳士を夕食に連れてくる」ようトムに命じ、トムは同僚のジムを夕食に招いた。
ジムは、ローラがたった一度好きになった、同じ高校に通っていたあこがれの人だった。<つづく>
00:06 |
2005/11/14 月
東京ふり-ふり-生活>青いバラとガラスの移動動物園(6)テネシー・ウィリアムズ
テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams 1911〜1983)は、1948年に『欲望という名の電車』で、1955年に『熱いトタン屋根の猫』で、二度もピューリツァー賞を受賞している。
1945年に初演された『ガラスの動物園』は、彼の出世作、自伝的作品である。
テネシーというファーストネームは、南部なまりをからかうクラスメートがつけたあだ名で、本名はトマス・ラニアー・ウィリアムズ(Thomas Lanier Williams)、通称トム。
テネシー・ウィリアムズは戦後アメリカを代表する劇作家。しかし、ピュリツアー賞受賞などの輝かしい名声が、一気にかげった時代がある。
T・ウィリアムズ が、秘書のフランクと公私を共にするパートナーであったことが明らかにされると、ウィリアムズの出身地であるアメリカ南部に、あからさまに彼を悪くいうものたちが出てきた。
ゲイに寛大なニューヨークや西海岸に対し、保守層の多い南部と中西部では、未だに「黒人と白人の恋愛」と「ゲイ」、「妊娠中絶」は、「神への冒涜」としてタブー視されている。
1963年、フランク・マーロ(Frank Marlo )が癌でなくなった。長年、秘書として働き続けたフランクとの関係は、「作家と秘書」としてだけでなく、出会った1947年から死ぬまで、パートナーシップを貫いた特別の仲だった。
南部では、次々に女を取り替える浮気男は許されるが、同性愛者はさげすまれる。パートナーと愛し合い添い遂げたとしても、ゲイは軽蔑の対象なのだ。
フランクを失ったあと、テネシー・ウィリアムズは、寂しい日々をおくった。最晩年は酒やドラッグに溺れた。
往年の名声を取り戻そうとあせればあせるほど、裏目に出た。
1983年、ニューヨークのホテルの一室。テネシー・ウィリアムズは、喉にボトルキャップを詰まらせ、窒息死した。
飲んだくれて、酒瓶ごとのどに突っ込んだため、キャップが喉にはまってしまったのだとも、いや、あれは自殺だったのだとも言われる。
テネシー・ウィリアムズ、享年72歳。
テネシーは、「ゲイであることを公表すれば、一般社会から追放されてしまうかもしれない」というおそれを、胸に秘めていた。
精神病院にいる姉を見舞うわずかな時間だけが、社会から貼られたレッテルすべてをはぎ取って、姉と弟としてすごせるひとときだったのかもしれない。
ロボトミー手術後のローズは、年齢をきかれるといつでも「私は28歳、弟は26歳よ」と、答えたのだという。ローズの世界は、手術を受けた1937年から止まったままになった。
『ガラスの動物園』初演は1945年。ローズには、舞台の上のローラが自分をモデルにしていることは、もはや理解できなくなっていた。
自分の家族をモデルにしているとはいえ、実生活と作品はことなる。だが、明らかにローラは、テネシーの姉、ローズのイメージによって書かれている。
ロボトミー手術をされ、廃人となってしまった姉ローズ。
社会の中に受け入れられなかった姉の姿を、弟は舞台に咲かせた。花の名は「憂鬱なバラ、ブルーローズ」
彼の描く女たち、ガラスの動物園のローラとアマンダも、欲望という名の電車のブランチも、女としての幸福から遠い。しかし、そのローラやブランチは、私たちの心をとらえてやまない。
2005/11/16 水
東京ふりふり生活>青いバラとガラスの移動動物園(6)肋膜炎と青いバラ
ローラのセリフの中で、ジムがローラにつけたニックネームが紹介される。
ローラが肋膜炎にかかって、高校を休んだとき、ジムは、休んでいたことを気にかけてくれた。
他にローラの存在など気にする人などいない高校生活で、ローラにとっては、唯一の心の支えとなったのが、ジムから声をかけられた思い出だ。
『ガラスの動物園』の中で、母アマンダは「人を好きになったことがあるのか」とローラを責め立てる。ローラが、アルバムをみせながら語る、淡い恋の思い出。
あこがれていたのは、ジム。高校のヒーローだった。歌がうまく、スポーツも勉強もできた、女の子の人気を独占していたジム。ローラにとっては、音楽教室で隣の席になった、というのが、唯一ジムと言葉を交わせるチャンスだった。
高校長期欠席の理由をジムに尋ねられて、ローラは「肋膜炎、プリューロジィpleurisyだったから」と答えた。ジムはそれを「青いバラ、ブルーローズblue rose」と聞き間違えた。
ローラはこの「ブルーローズ」ということばが気に入り、ジムが自分をそう呼んでくれることを望んだ。
色のイメージで、ブルーは「憂鬱な、悲観した、青ざめた」という形容詞になる。ブルーローズとは、憂鬱な薔薇、悲観的なバラ、青ざめたばら、である。他のアメリカの女の子だったら、決して喜ばないニックネームだったろう。
でも、ローラにとっては、かけがいのない名前。ジムと自分だけに通じ合う、「一つだけの花」だから。
高校卒業して以来、ローラはジムの思い出を心に秘め、ジムはローラなんて女の子が隣の席にいたことさえ、忘れ果てていた。
再会したジムにとって、ブルーローズというニックネームを好んでいた女の子がいた、なんてこと、記憶の奥にかくれていたことだった。
青いバラは、この世に存在しない。バラの新種育成をする人達がこぞって開発を競っているけれど、まだ、完全な青いバラは誕生していない。
サントリーのバイオ技術によって、ついに、「青い薔薇」が咲いた、という写真を新聞広告のなかで見た。
しかし、写真で見るかぎり、「薄青紫」であって、「真っ青」ではなかった。ブルーローズはまだ幻だ。
青いバラは、私たちの心の中に咲くのみ。
青いバラは、「どこにも咲いていない幻の花」なのだ。
「ブルーローズ」は、この現実の中では咲くことのない花。
ローラが集めてながめていた、透明ですぐ壊れてしまうガラスの動物たち。
この動物たちは、現実社会に出ていくと、こわれそうな自分自身の姿。社会のなかでのローラは、ガラス細工の動物。
そして、ローラの心は、青いバラ。現実の中では咲くことのない、幻の一輪。
テネシーは、舞台の上に、この青いバラを咲かせた。繊細で美しく、それゆえ社会の中に咲くことはできなかった姉ローズの姿を、戯曲の中に咲かせたのだ。
現実社会におびえ、人間たちの複雑な絡み合いの中には出ていけなかったローズ。お世辞や裏切りやだまし合いの中では生きていけなかったブルーローズ。<つづく>
07:06 |
2005/11/17 木
東京ふりふり生活>青いバラとガラスの移動動物園(7)たった一つの花ブルーローズ
ブルーローズは、強い者が生き抜いていくアメリカ社会のなかで、「落ちこぼれた弱い者」と烙印を押された人達の象徴のように思う。
テネシーの姉ローズは、美しい魂を持って純粋無垢に生きていた。美しいが、脆かった。
病弱な母親が入退院を繰り返すうち、母を失うかも知れないという不安感から逃れられなくなったローズ。
人と関わることをおそれ、家の中にひきこもっていたが、社会と関わって働くこともできないローズは廃人にされ、精神病院へ押し込められた。
ローズの、もろくも美しいガラス細工の心をだれよりも強く受け止めたのは、テネシーであった。
テネシーは、劇作家として名声を得てからも、「ゲイ」の烙印を押されることをおそれ、隠し続けなければならない立場にいる人だった。ローズのもろさとはかなさは、テネシー自身のことでもあった。
ローズのように、人なかに入り、冗談やおせじや嘘を上手に使いこなして人と交わることのできない性格の人、私の周りにもたくさんいる。私の伯母も、私も、「人間関係形成不全症」だった。
伯母は周囲の人となかなかうち解けられない性格のまま、90歳で死ぬまで、非社交的な生活を続けた。
私は、なんとか仕事を持ち、家庭を持つことができたが、うまく人付き合いができないのは、伯母と同じ。
ネットでは冗談もシモネタも言うけれど、顔を合わせたつきあいでは、「気軽なおしゃべりもできない陰気な同僚」と見られて、小さくなっている。
うまく世渡りができる人もいるし、そうでない人もいる。
積極的に人中に出ていき、社交的に振る舞える人もいるし、自分の殻にとじこもりがちな人もいる。
「世界にひとつだけの花」が大ヒットし、今年は、宇宙のかなたからも歌が流れてきた。
♪〜世界に一つだけの花/一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい♪
しかし、現実の地上では、名も知らない雑草の花や、大きすぎたり小さすぎたり規格外の花だと、たちどころに切り捨てられる。
「みんな同じに、みんなそろって」に合わせられる人でないと、異分子、非社会的人間として排除される。
声をそろえて歌をうたわなかったから、という理由で教職を失った人もいるし、私服で登校したクラスメートをかばったために、生徒指導教師からイジメを受け、不登校になった中学生もいる。(前者の例は娘が卒業した高校の教師。後者の例は私の娘)
現実には、「自分だけの花」は、踏みにじられることの方が多い。
青いバラは、この世では、まだ咲いていない。
ローラの「角が折れてしまったガラスのユニコーン」が自由に駆けめぐる大地。
ローラの心のなかの「肋膜炎の青いバラ」が咲くことのできる庭。
ガラス細工のように繊細で、青いバラのようにこの世では生きがたかった姉のローズのために、テネシーは、ただひとつの花を、舞台上のローラ、舞台のブルーローズとして咲かせた。
ローラは、「身体障害と社会での生きにくさをかかえ、有能でもなく、社会では取り柄のない落ちこぼれ」の女性として描かれた、いわば、アメリカ文学のヒロインの中で、「アンチ・ヒロイン」にあたる。
その「アンチ・ヒロイン」は、「美人で有能で華やかなヒロイン」に劣らず、私たちの心をうち、心の中に残る。ブルーローズは、心の中で咲き続ける。
テネシーが書いた「ことばのブルーローズ」。
世界中の舞台の上で、スクリーンの中で、咲いた。
<青いばらとガラスの移動動物園おわり>
08:07 |


春庭ロフト目次
春庭ワークショップ目次
