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話しことばの通い路Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture StudiesHAL-niwa LOFT

ポカポカ春庭 演劇いろいろあらーな

ポカポカ春庭の演劇いろいろあらーな2003,2004 

演劇いろいろあらーな
日付 タイトル 劇団 劇場 主演
2003/01/23 1月公演
寺子屋 助六
歌舞伎座 「寺子屋」幸四郎、三津五郎、福助、玉三郎、「助六」団十郎、菊五郎、左団次
2003/06/02 娘義太夫 上野広小路亭 鶴澤津賀花 鶴澤三寿々 ほか
2003/02/11 ゴンザーゴ殺し 劇団昴 内田稔 高木均 小沢寿美恵 石波義人 金子由之 ネジャルコ・ヨルダノフ
2003/06/22 怒りの葡萄 劇団昴 宮本充 石波義人 秋間登 スタインベック
2003/10/26 ナイチンゲールでなく 劇団昴 藤木孝 金子由之 T/ウィリアムズ
2004/12/25 クリスマスキャロル 劇団昴 金尾哲夫 田中正彦 北川勝博 宮本充 ディケンズ
2004/01/28 ブルース ノート 演劇集団ふれる〜じゅ
2003/10/05 赤鬼(ロンドン版) ノダマップ 野田秀樹
2004/10/19 赤鬼(日本版) ノダマップ 野田秀樹
2004/10/16 オィディプス王 ギリシャアテネ公演 野村萬斎 麻美れい  ソフォクレス
2004/12/17 17歳のオルゴール 青年座

歌舞伎座1月公演
2003/01/23 木 午前中雪、午後雨 
歌舞伎座

 葉書を出して、歌舞伎座の券が一枚あたったので、雪の中見に行った。今日は東銀座で降りることを確かめて、地下鉄の出口を出ると、ちゃんと目の前に歌舞伎座があった。

 でも、雨だから早めに出ていこうと思って、早く出過ぎたので、3時に着いてしまった。4時半開演まで時間があるので、ドトールに入ってコーヒーをいっぱい。開演まで時間をつぶそうとしたが、おっさんたちのたばこが煙くて長居できない。
 雨の中外に出た。老舗らしい鬘屋とか、面白そうな地域ではあるが、どしゃぶりのような雨だったので、歩けない。ぎんだこ本店があったのでたこ焼き買って、交差点の大阪寿司の店であなごちらしとお茶を買って、歌舞伎座に戻る。

 4時から開場。解説イヤホンを借りた。どうせ3階の一番はしっこだろうから、よく見えない分、解説でも聞いていなければと思って。劇場で解説イヤホンを借りるのは初めての経験だったので、貸し出し料金のほか、保証金を1000円払うことも知らなかった。

 だいたい、歌舞伎座に来るのだって、四半世紀ぶりのことなのだ。大学院で演劇学の聴講をしていたころ、郡司正勝さんか池田弥三郎さんのどちらかが、学生のために券を配っていたのをもらったように思う。自分で「一幕見」の券を買ったときもあったかもしれない。もはや記憶は定かではない。

 今日の席は3階の一番うしろ「わ列7番」だった。「わ列」のそのまたうしろは「1幕立ち見席」。学生のとき座ったのは、この1幕立ち見だったような気もする。

 NHKの3チャンネルで放送するテレビカメラが入っていたので、中盤後半だれがちな日にちだが、役者も気合いがはいっていた。今日の演技が永久保存版になるかもしれないんだから。

 夜の部は、『寺子屋』松王幸四郎、源藏三津五郎、戸浪福助、千代玉三郎。清元舞踊が『保名』芝翫、『助六』助六団十郎、新兵衛菊五郎、意休左団次、などなどの初春ご祝儀配役。見に来る人は、演技がどうこ踊りがどうこうより、1月にお祝い気分になれればいいのである。

 特に助六の三味線は「河東節一寸見会」という大店や会社社長などの趣味の会が日替わりで日頃の芸を発表する場になっているとかで、そちらの関係の応援観客も多く、場内はじいさんばあさんでいっぱい。

 同じ歌舞伎を見るなら、浅草歌舞伎の若手のほうがよさそうだったが、こちらは完売。キャンセル待ち当日券を求めるギャルファンたちが列を作っているそう。はたして浅草歌舞伎を見た人たちの何人が歌舞伎を引き続き見ていく層になるのだろうか。少なくとも歌舞伎座の観客を見た限りでは、このじいさんばあさん観客が死んじゃったら、興行が成り立つのかしらと心配になるのだが。

 寺子屋の「主君のあとつぎを守るために自分の子供を身代わりに殺させる松王夫婦」と「主君のあとつぎ若君を守るために、赤の他人の子供を殺してしまう源藏夫婦」がいっしょになってどんなに嘆いて見せても、「やっぱこの殺人、まずいよねぇ」という気持ちがぬけない。
 「主君のためなら我が子も殺すのが臣下のつとめ」という価値観が変わってしまった以上、この芝居は正月草々どういう気分で見ればいいんだろう。

 助六は曾我兄弟仇討ちだけど、こっちは名刀「友切丸」を探すクエストもの変形だから、揚巻や白玉の衣裳を見せるだけでも正月気分でよろしい。

 小林恭二『歌舞伎の日』を芝居にしたらいいのになあ。

本日のひがみ:一月らしい晴れ着でロビーを埋めるオバサンたち。雨の中を歩き回ったジーンズが濡れて冷たい、招待券入場のオバサンもいるぞ

娘義太夫
2003/06/02 月 晴れ 
娘義太夫

 夕方、阿子さんと待ち合わせ、ジュースコーナーで一休みしたあと、御徒町へ。視覚障害者と、ヘルパー、ボランティアなどの一団、十余人。今日は義太夫協会からのご招待。御徒町広小路亭で、「娘義太夫」を聞いた。
 女義太夫(略して女義=じょぎ、と呼ぶのだそうです)はおろか、そもそも義太夫を単独の公演で聴いたことがない。歌舞伎文楽とともに聞くことはあったが。

 義太夫だけを聴いたのは、はるか40年以上昔のこと。祖父の竹が「農村歌舞伎」の練習をしているのを脇で聞いたことがあった。竹が収入のほとんどを「農村歌舞伎」復興のために衣装やら三味線やらを買う費用につぎ込んでしまうことで、祖母梅は泣き通し。実家に残っている長女の松には言えない愚痴をこぼすために、嫁に出した娘である私の母のところ来ていた。だから、私は義太夫と聞くと、祖母が愚痴をこぼしている姿を思い出してしまう。

 娘義太夫を初めて聞いた。
 「義太夫を広く知ってもらうためのプログラム」編成なので、「宇宙戦艦大和」を太棹で連れ弾きするというおまけまであった。(まあ、宇宙戦艦大和は、やはり佐々木功歌入りオーケストラのほうがいいと思うけれどけれど)

 阿子さんたちは「語られていることばはよく分からないけれど、すごく迫力があって感動した」と言っていた。
 声の迫力、語りの魅力。今日は、ボランティアとしてたまたま聞くことになったのだが、また、聞きたいと思った。

 朗読を義太夫みたいに、音楽伴奏入りでにぎやかに楽しめたらいいなあと思う。
 現在図書館などで行われている朗読会は、なにやら教養主義ふんぷんで、朗読している人たちも、知的な趣味を求める奥様たちや、生き甲斐探しにリキが入った定年退職組が多くて、「楽しく気軽に聞ける」という雰囲気がない。
 寝っ転がって聞いていたり、ビール飲みながら聞く、昔の下町の寄席みたいに朗読も楽しめたらいい。明治に大衆娯楽の花形として娘義太夫があったように、花形とまではいかなくても、「朗読」が観客の目の前で語ったり歌ったり、気軽に楽しめたらいいのに。
 近頃では落語も「教養講座」扱いである。

本日のそねみ:女義の鍛えた声、うらやまし

ゴンザーゴ殺し

2003/02/11 火 曇りときどき小雨 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ゴンザーゴ殺し』

 阿子さんと待ち合わせして、千石の三百人劇場で昴の『ゴンザーゴ殺し』を見た。

 芝居は、ハムレットの中に出てくる旅の一座がメインになり、ハムレットの依頼で、王殺しの芝居を上演するというストーリー。権力と旅芸人。拷問があり、最後は座長とその妻は絞首刑という刑が決まるが、権力の転換により運命は一転して「宮廷附属劇場」に取り立てられる。

 ブルガリアの劇作家の作品という。最後のシーンで、照明効果により壁が牢獄の鉄格子のようにみえる。宮廷劇場に取り立てられるという運命の転換があったとしても、結局は権力の手の中の牢獄で呻吟するしかない人々の運命を暗示しているという演出。イヤホーン音声では、はっきりと「牢屋の格子を思わせる照明があたっている」と解説が入るが、見た目だけだと、受け取る人によって、牢屋の格子にも見えるが、ただの垣根にも見えるので、演出家が込めた「体制がどう変化しようともこの世はどこも牢獄」というブルガリアの共産主義体制から資本主義体制へ移行したあとの社会変化への批評が観客に伝わったかどうかは不明。

 芝居後のトークショウでは、ベテラン俳優と演出家によるトーク、台本の翻訳者による感想などを聞くことができた。
 なぜ、ハムレットと王妃と王の声だけ録音にして、顔を出さない演出にしたのか、という質問に、演出家は「自分自身の顔を持つ一般の人に対して、この世で一般の人とは異なる役割を演じている王、王妃、王子なので、この芝居では、自分の顔を持たない人として、顔を見せず、声も録音で演じた」という説明があった。それを聞くまで、なぜ聞き取りにくい録音テープで言うのか、あまり意図がわからなかった。
 この世におけるロールを演じているという点では、ハムレットもホレーショも旅芸人も同じような気がするが、たぶん世襲によって生まれたときからロールが決められていて、自分で選ぶことができないという点が、一般人と異なるという解釈なのだろう。

 彼らにも自分の役割を選ばせてあげましょうよ。世襲社長が引き継いだ会社はたいてい傾く。国だってジョンイル王子程度のプリンスじゃ、傾いちまう。ニューカマープリンセスは自分の運命を自分で選ぶことができるだろうか。ロールに縛られることなく、名前の通りに愛を選び取れる人生をおくらせてあげましょうね。

 視覚障害者のためのイヤホンサービスも体験した。どんな説明が入っているのか聞いておけば、あとで、阿子さんに、舞台装置の説明などをするときに、イヤホンの説明と重複しないですむ。
 歌舞伎の解説に比べてあっさりしたおとなしい解説だった。私はもっと細かく役者の衣裳や動きを逐一伝えているのかと思っていた。
 想像力の乏しい私には、目をとじてイヤホン解説と役者の声だけでこの舞台を観賞したら、半分も理解できなかったろうと思う。阿子さんは「ああ、おもしろかった。舞台はいいよねぇ」と楽しんだようすだったが。


怒りの葡萄
2003/06/22 日 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>『怒りの葡萄』

 12時半に阿子さんと待ち合わせたのだが、埼京線のホームで待っていてと言われ、私の早とちりで、行き違ってしまった。阿子さんは下車駅の池袋の埼京線ホームで待っていて、私は阿子さんが電車に乗る駅で待っていた。おまけに池袋で美弥さんと待ち合わせたのに、改札のはじとはじにいて、お互いを捜してしまい時間をくった。
 
 阿子さんも美弥さんも視覚障害者なのだから、私がしっかり見つけなければいけなかったのだが、私は美弥さんに会うのははじめてなので、わからなかった。阿子さんと美弥さんは「見えないふたりだけで、イタリア旅行した仲」という仲良しコンビ。
 お昼ご飯を食べる予定だったのに、2時の開演時間に間に合わないと困るので、三人で一皿のサンドイッチをとっただけで、サンシャイン劇場に入った。

 阿子さんが賛助会員になっている劇団昴。視覚障害者むけの音声ガイドや点字パンフレットに力を入れていて、客席へのサポートもきちんとしている。今回は芸術祭大賞をとった『怒りのぶどう』の凱旋再演。演出のジョン・ディロンを含む役者のアフターステージトークショウ付き。

 阿子さんは今回に備えて、スタインベックの点字本『怒りのぶとう』全11巻を読んだのだって。私は、はるか昔に「少年少女名作ダイジェスト」みたいな版で読んだだけで、本当の原作は読んでいない。ダイジェスト版だって、こまかいところはみんな忘れている。
 長いカルフォルニアへの移住の物語をうまく処理してあるし、役者も熱演でおもしろかった。最後のローズが瀕死の男に授乳するシーンも、宗教的なこうごうしさがでて、感動ものだった。

 チーズとワインを買いたいという阿子さんを案内して、デパ地下へ。阿子さんが「今まで食べたカマンベールチーズの中で一番おいしかった」とおすすめのボンジュールカマンベールというフランス製のチーズを、私もためしに買ってみた。
 そのあと8階レストラン街で中華を食べた。ちゃんと美弥さんをみつけて案内できなかったおわびにおごったささやかな夕食。

本日のみみ:視覚障害者用のイヤホンを私もつけてみて、どのように解説しているのかわかった


ナイチンゲールでなく
2003/10/26 日 晴れ 1031 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ナイチンゲールでなく』

 1時45分に阿子さんと待ち合わせ。ミイさんともうひとり、弱視のかたといっしょ。劇団昴の『ナイチンゲールでなく』を見た。
 テネシー・ウィリアムズが『ガラスの動物園』で一人前の劇作家として認められる前の若書き27歳の作品だという。1938年アメリカペンシルベニア州の刑務所で起きた実話をもとに書かれた、刑務所囚人とナチのユダヤ人収容所長を思わせる刑務所長の戦いの話。ひどい扱いに抗議してハンガーストライキを起こした囚人達の話が新聞種となり、ウィリアムズはその話を、さまざまな個性と、刑期を持つ囚人達と所長、看守たちの群像劇に仕上げた。この作品は60年間もウィリアムズのタイプ打ち原稿のまま放置され、バネッサ・レッドグレーブが発掘して上演したのだという。
 
 ときはアメリカ恐慌時代。やっと職を得て、失業の恐怖におびえつつタイプを打つ所長秘書エバ。息子の安否を知るために刑務所に面会に来た母親ブリストル夫人だけが女性出演者。

 舞台は、刑務所所長室と監房シーン。さまざまな過去を持つ男達の様々な人間模様が交錯する。所長に逆らった囚人は、「矯正指導」のために、極寒のアラスカの地名クロンダイクと名付けられた「熱風拷問部屋」送りにされる。皆衰弱して死ぬか、極度の苦しみのために精神に異常をきたす。どちらも適度な病名を付けられて病死とされる。ただ二人、屈強のブッチはクロンダイクから戻ることが出来、所長のお気に入り使いカナリアジムは、クロンダイクとも無縁で所長の使い走りをつとめる。

 藤木孝の所長ウェーレン役が秀逸。とことん冷酷で自分の欲望はどこまでも追求する悪魔的な人間像。自分の娘には甘く、囚人達のことは人間扱いしていない。そんないやなヤツなのに、エバに対して魅力を感じさせるというのを、演技で示していた。ラストシーンで囚人達は立ち上がり、所長を葬り去る。ジムは刑務所からの脱走を決意する。

 ラストシーンも感動的なのだが、今回の芝居でいちばん涙が出たシーンはカーテンコールだった。役者達のアンサンブルのすばらしさ。ひとりひとりの人間造形の技術。役者の演技に心から感動した。よい建物を見て、建て家のすばらしさはもちろんのこと、大工の腕のよさに感嘆する、というのと同じだが、今まで役者個人の演技力に涙したことはあっても、(夕鶴の山本安英とか、宇野重吉とか杉村春子とか)劇団のアンサンブルのすばらしさ、群像の演技のすばらしさに涙したというのは初めてだった。もちろん所長役の藤木、ブッチ役の金子由之の演技は抜群だが、端役の囚人ひとりひとりまで含めた全体がほんとうによかった。『怒りの葡萄』のときもアンサンブルのよさはあったのだろうが、葡萄のときは、「演技のすごさ」「演技の職人芸」を感じるよりストーリーにつながれて見た。

 お芝居のあと、アフタートークがあったので、最後にこの演技力とアンサンブルについての感想を述べた。藤木孝の魅力的な演技については、エバ役の服部幸子から「もとの脚本では、所長にベッドへ誘われるエバが、所長を恐ろしがることばの奥に、彼の存在に惹かれてしまうという女心の矛盾を述べるセリフがあったが、上演台本ではカットになった、と話していたが、それはカットしてもよかったと思う。あからさまに所長の性的な魅力に惹かれると言うよりも、藤木の役作りがおのずと「悪魔の魅力」を出していたからだ。ものすごくいやなヤツなのに、観客はだれも藤木を否定しきれない、そういう人間像をきっちりと演じていた。ほんとに魅力的な役者たちだった。
 私が褒めちぎったところでちょうど質問タイムがおわったので、私からのオマージュがシメになってトークショウが終わり。
 
本日の役者かがみ:金がとれる演技と、素人が楽しんで演じるとの、違いがわかる女だから、昔たとえ短期であれ、役者やって金を得ていたことに冷や汗 


クリスマスキャロル

2004/12/25「クリスマスキャロル」

 25日クリスマスの日。視覚障害の友人といっしょに劇団昴の『クリスマスキャロル』を見た。友人はここ数年の間、毎年見ている演目だ。
 昴の舞台はハンディキャップのある方々への配慮が行き届き、視覚障害の方のためのヘルプガイド音声、聴覚障害の方のためのセリフを文字表示する電光板など、演劇理解の補助が工夫されている。

今回、友人は「もう覚えたから」と、視覚障害者用のヘルプガイドの音声イヤホンもつけずに、晴眼者と同じように聞いてみる、という試みをするという。

 私は子どものころに本を読んだっきり、読み返してもいないし、舞台もみていない。あらすじは知っているが、細かいところなんか忘れている。久しぶりのクリスマスキャロル。でも、クリスマスの日に見るには何よりのお芝居。

 お金儲けだけが生き甲斐のスクルージ。たった一人の肉親である甥からクリスマスの食事へ招待されても「ばかばかしい」と、とりあわない。
 クリスマスイブ。真夜中にクリスマスの精霊が現れる。過去と現在と未来のクリスマス。
 スクルージが、三人の精霊の導きによって人間らしい心をとりもどし、人々との心の交流の中に入っていく物語。

 25日が千秋楽だったこともあり、カーテンコールでは役者たちも涙ぐむ感動のフィナーレだった。私も涙があふれる。
 でも、職場の忘年会でフランス料理を食べながらの楽しいおしゃべりの中でも感じた「自分はこの中になじんでいけない」という思いと同じ、「仲間に入っていけない、はじかれてしまう何か」「同調していけない何ものか」が、重く存在する。

 世界から拒絶されたままの感覚で生きている。世界と親和する感覚シンクロナイズする感覚の、対極の感じが、重く澱のように沈む。
 無理矢理のコミットメントを願うつもりはないけれど、今のような閉ざされた心理状態からは解放されていきたい。

ブルースノート
2004/01/28 水 晴れ

 午後、演劇集団ふれる〜じゅ本公演『ブルース ノート』
 招待券が贈られてきたので、全然知らない劇団だったが、見に行った。脚本の内容がもりだくさんで、3時間ちかくかかる上演だった。

 殺人事件でなくなった恋人から盗まれたペンダントをさがすために宝石泥棒をつづける男。彼をおう幼なじみの刑事と、弁護士の三人の友情。弁護士の恋人は、近親相姦の父親を殺し、男が罪をかぶる。さあ、どうなるか、という芝居だった。盛りだくさんのわりにはわかりやすい構成で役者も熱演だった。でも、近親相姦の父親を殺すという設定がいかにもありきたりで、何の衝撃もない。カタストロフもなく擬闘シーンなどがはさまれて何度もケンカをやるのが面白かったが。

 見終わって一番印象に残ったことといえば、芝居中のおでん屋シーンで、この劇団のたまり場になっているおでん屋が協賛協力したという「本物のおでん」を皆で何度も食うことだった。ちくわぶまるかじりあり、つみれあり。制作者の一番の功労は、このおでん屋の協力をもぎとってきたこと?


赤鬼ロンドン版

2003/10/05 日 晴れ1010
ノダマップ英国版赤鬼

 NHK3チャンネルの放映をビデオにとり、野田秀樹『赤鬼』イギリス公演を見た。英語にして、どうなるのかと思ったが、面白かった。最後に「あの女」が崖から飛び降りたと、とんびが語るとき、戯曲を読んだときミサイルの芝居をみたときと同じように、涙が出た。
 ミサイルのような世間に名が出ていない俳優が演じても、イギリスデビュー公演でも、これだけの感銘をうけるということは、やっぱり野田は天才だなあ。教駒在学中に初戯曲を文化祭で上演。「そのときから、自分は天才だと思っていた」と自ら言っている。天才だと思う。

 装置は洋服ダンスひとつ。ドアになったり、船になったり、牢屋になったりする。赤鬼役の野田、アカオニの名前が「アンガス」じゃなく、「ヒデキ」だった。戯曲、初演では村人はとんびたちが演じるのを、イギリス版では、村人は別の俳優。どうやって「排斥する側」と「される側」がは同じ人間の心の裏表であることを表現するのかなと、思ったが、衣装の色でしか表現されていない。村人側が赤い衣装、ヒデキが青いパーカー。赤鬼が青い服、赤鬼を排斥する村人が赤い服、これで、伝わったのだろうか。
イギリスでの評判は「初演満席、カーテンコール3回だったそうである。

本日のねたみ:大竹しのぶは出会った男の才能を吸い尽くすといわれているが、吸い尽くされてもなお、これだけのものが残っているノダさん

赤鬼(日本版)
2004/10/21「赤鬼」観劇記(1) 

 10月19日、千秋楽の前日に野田秀樹・作演出出演『赤鬼日本バージョン』を渋谷シアターコクーンで見た。
 出演者は、とんび=野田秀樹 あの女(フク)=小西真奈美 水銀(ミズカネ)=大倉孝二 赤鬼=ヨハネス・フラッシュバーガー、の四人
 四人とも、とてもよかった。とくに野田は、昔に比べれば走り回り方が少なくなったのかもしれないものの、大いに走り回っていて、元気だった。

 客席は、真ん中に置かれた舞台を四方から囲んでいる。ひょうたん型の小さな島のように舞台が置かれている。舞台のまわりに漂着したガラス瓶が置いてある。 私が見たのは、舞台側1階席の一番前。エリア指定席の後ろ。

 息子は「見たいけど母とは行きたくない」と、初日の翌日の日曜日に早々と友達と見てきた。息子の席は2階のバルコニーシート。終演後、座席位置によって舞台の印象がちがうだろうか、と2階へ上がってみた。距離は遠くなるが、舞台全体を見るには上からの方がよかったみたい。客が四方を囲むアリーナ式舞台だと、役者がうしろを向いて声を出す場合もある。舞台側の座席からだと出演者が重なって、顔が見えにくいシーンがいくつかあった。額縁舞台ならバルコニーより1階席のほうがいいが、今回の舞台側座席は大正解とはいえなかった。

 楽日の前日、役者の疲れがピークのときだと思うが、出演者はそれぞれ熱演だった。
 私は野田の初演を見ていない。しかし、『赤鬼』はとても好きな作品で、作品への関わり方は、他の作品より深い。

 最初は、新橋のライブハウスで上演された「赤鬼」を見た。テーブルにつくと、缶ビールを渡された。友達の息子が「とんび」を演じるというので見に行ったのだ。赤鬼は赤い天狗の面をかぶっている演出。観客は役者の知り合いばかり数名、という中での上演。
 このあと、演劇雑誌を古本屋で探して、戯曲を読んだ。そのあと野田秀樹の戯曲集を単行本で買ったら、赤鬼も収録されていた。二度読んだ。

 二度目は、去年の息子の学校の文化祭で、高校二年生のクラスが演じたのを見た。男子校なので、「あの女」も男子高校生。中学生のときから文化祭の「最優秀女優賞」を勝ち取っていたという「男子校きっての女優」という生徒だ。この女形の「あの女」がとてもよかった。

 『赤鬼』オリジナルバージョンでは、とんび、あの女、水銀の3人は、シーンが変ると村人を演じる。
 よそ者を迫害する村人と、共同体からのハズレ者である「あの女」の二役、人間の両面性を演じるのに、「女形」という形式がぴったりはまり、とても上手だった。このクラスは高校の部の最優秀演劇になった。

 三度めはビデオで見た。2003年ロンドン公演の「赤鬼ロンドンバーション」の録画。赤鬼は野田秀樹。
 ロンドンバージョンは村人は別の役者が演じる。衣裳ダンスが家の入り口になったり、洞窟になったり小舟になったりする装置が印象的だった。
 英語上演に日本語字幕がつくので、謡曲本を読みながら能を観賞する人のように、戯曲と動きを比べながら見る、という見方ができた。

 再演日本バージョンは、客席が舞台を四方から取り囲むアリーナ舞台。
 島舞台の上に、四重の「自」と「他」が同心円で広がる。
 赤鬼→あの女→とんび→水銀→赤鬼やあの女を迫害する村人→赤鬼を見せ物としてもてあそび、結局は殺そうとする村人→傍観者である村人(客)。
 この重層によって、客は物語の一員となる。

 額縁舞台の中で演じられる劇は、ときとして「今日は観劇を楽しみ、明日はショッピング」のヒトコマで終わる。人々は、舞台が終われば次の「お楽しみ」へと送り出されてゆく。
 今回の日本版演出は、舞台を「今、我々の中に存在させる」演出としてすぐれていたと思う。今日客席に座っている観客は傍観者でもあり、あしたは迫害する村人であり、ある時は赤鬼にもなるだろう。

 同心円の核にいるのはタイトルロールの「赤鬼」。海の向こうから漂着し、言葉も通じない。風体も異様。村人には「人を喰う鬼」に見える。
 赤鬼の外側を囲む「あの女」とその兄のとんび。
 兄妹はよそ者の一家で育った。小さなさびれた漁村の共同体のなかで、疎外されながら暮してきたよそ者一家の母は、「海のむこう」をめざして沖に出たまま帰らなかった。
 妹は村の中で生きることの絶望と、母を追って「海のむこう」へ出ていく「絶望の中のたったひとつの希望」を抱えてかろうじて生きている。
 村の中でたった一人、「あの女」は、赤鬼を人間と認め理解し合おうとする。最初はわけのわからない音の連なりだった赤鬼の言葉がわかるようになる。<赤鬼観劇記つづく(1)〜(3)>

 村人のうち、よそ者のとんびとその妹の相手をしてやるのは、ただひとり水銀だけ。水銀はとんびの妹と「やりたい」ゆえに、村八分にされている兄妹と村人の間をつなぐ。

 水銀も、村人から「うそつき男」「狼少年が大人になった狼男」としてさげすみを受けながら生きており、「海のむこう」へ出ていくことを唯一の望みとしている。
 水銀が「あの女とやりたいだけ」と言いつつ深く彼女を愛しているのは、この「ここではない、むこう側」の共有というひそかな共通点を感じ取っているからだろう。

 水銀は、最初は赤鬼を「人を喰う鬼」と思い、「あの女」が赤鬼に心惹かれていくことに不安を感じる。しかし、彼自身の「海の向こう」への憧れによって、赤鬼の言葉のある部分は理解できるようにもなり、赤鬼がなぜ村に漂着したのかも悟る。

 兄のとんびは「ぼくは頭が足りないので、よくわからない」と言いながらも、妹が村の一番高い崖から海に身を投げて死んだ話を語り始める。(以下ネタバレあらすじにつき未見の方ご注意)

 ある日、村に赤鬼が現れた。「あの女」は、赤鬼が鬼ではなく、水を飲み花を食べる人間だと知り、家に匿う。しかし、たちまちのうちに「人を喰う鬼」の出現は村のうわさとなる。
 赤鬼に出会って驚いた村の女が、赤ん坊を残して走り去る。赤ん坊を保護した赤鬼は「赤ん坊まで喰おうとする鬼」と迫害される。「あの女」は赤鬼と話し、赤ん坊を母親のもとに帰してやる。しかし村人は「あの女」との約束を破り、赤鬼が隠れていた洞窟を襲う。

 村人は驚く。皆が洞窟の中にみたのは、赤鬼が描いた海の向こうの景色。見たこともない異国の楽園。村人は、赤鬼は神様なのかも知れないと思い、見物にやってくるようになる。
 ある者は赤鬼を崇拝し、ある者は珍しい見せ物として見物する。ある老人は赤鬼の肉を喰えば不老長寿になると信じて、肉を食おうとさえする。

 あるとき、とんびは沖をゆく船を発見し、水銀と「あの女」は、赤鬼が漂着した理由を知る。
 赤鬼の仲間は、理想郷を求めて航海を続けていた。赤鬼は、村が理想郷であるかどうかを調べ、もし上陸するに足る土地ならば鐘を鳴らして合図することになっていた。しかし、赤鬼は村人によって囚われの身となったため、鐘を鳴らすことができない。村の長老たちは、赤鬼を裁き、処刑を宣告する。

 水銀ととんびは、幽閉された赤鬼とあの女を助け出し、夜ひそかに小舟をこぎ出す。沖へいけば、赤鬼の仲間の船があるに違いない。船に乗って皆で「海のむこう」へ行くのだ。とんびたちの母が出かけていき、二度と戻らなかった「海のむこう」。水銀がひそかに憧れていた「海のむこう」へ。4人は小舟の上で上機嫌だった。

 すぐに出会えるはずの船は、沖に影もなかった。いつまでたっても鳴らない鐘を待ちきれずに、船は去っていったのだ。仲間がいないことを知り、赤鬼は衰弱して死んでしまう。

 頭の足りないとんびが小舟に積み込んだのは、赤鬼が食べる花だけ。ほかに食料もない小舟の上で、「あの女」も弱っていく。死にかけ意識朦朧となった「あの女」を救ったのは、水銀が「フカヒレのスープ」として飲ませてくれた食べ物だった。

 村の浜辺に漂着した小舟。村人は助けられた「あの女」に、フカヒレスープを与える。「あの女」は、小舟で飲んだフカヒレと味が違うことに気づく。これが本当のフカヒレなら、舟の上で飲んだフカヒレは何の肉だったのか。

 水銀は「舟のフカヒレ」が「赤鬼の肉」だったことを認める。赤鬼はもう死んでいたから、人間ではない。物体だ。愛する女を生かすために、そこにある物体を食うしかなかった。生きのびるためには、仕方がなかったと。

 絶望のなかにあるひとかけらの希望にすがって生きていた「あの女」は、今度こそ本当に絶望し、ひととき心通い合った赤鬼のあとを追い、海の中に身を投げる。
 「あの女」を失った水銀は、それ以後魂をなくしてしまった。

 とんびは、「ぼくは頭がわるいから、よくわからないけれど」と、鬼ではなかった赤鬼と、赤鬼の肉を食べて生きのびた妹の物語を語る。フカヒレスープの正体を知ったあと、体の中のものをすべて吐きだして崖から海へ身をなげて死んだ妹と、頭の足りない自分と、今はもう魂をなくしてしまった水銀の物語。

 とんびは「フカヒレスープを飲んだために海に身を投げた妹」をしのんで、こう言う。「海の向こうには、妹の絶望が沈んでいます」
(あらすじ終わり)

 私の生涯のテーマのいくつか。「個人と共同体」「言語表現と身体表現による人と人との関わり合い」「ここではない海の向こうへ出ていくこと」
 『赤鬼』は、この三つのテーマが全部出てくる。何度舞台を見ても戯曲を読み返しても、その都度新鮮な発見がある。
 今回はロンドンバージョンと比較しながら見たので、「赤鬼」の存在の仕方と役者の肉体表現について考えた。

 ロンドンバージョンのレッドデーモン役は、小柄な野田秀樹が演ずる。大柄な英国俳優の中で、野田デーモンはトリックスターのように感じられる。ロンドン公演ビデオ版の理知的ですらりとした容貌の「あの女」がレッドデーモンを受容し心を通わせ合うシーンと、愛らしくほっそりした小西真奈美が、大柄で太い体に長い髭をたらした日本バージョン赤鬼ヨハネス・フラッシュバーガーを受容するシーンの印象は、ずいぶん異なる。

 ロンドン公演の「レッドデーモン=野田秀樹」は、「恐ろしい見慣れぬよそ者」という印象より、閉鎖社会をかきまわすトリックスター的であり、「あの女」が村人から赤鬼をかばうとき、「母性的な包み込み」が感じられた。

 一方、小西真奈美が大きな赤鬼と抱擁するシーンでは、「スサノオ」やエビス神や「クエビコ=山田のカカシ神」など、異土から来歴する文化や異邦神を受容し融合する民の印象があった。
台本や演出は違うとして、元の戯曲は同じはずなのに、物語の要の赤鬼の印象もこのように変わるものなんだ、肉体はことば以上に表現するんだなあということを再確認した。

 母が子を慈しむように受け入れるのも、「異土の人」を融合し仲間として受けいれるのも、受容の方法はさまざまにあるだろう。

 だが、今、私のまわりには、「自分たちとちがっているものを排除排斥する風潮」ばかりが目立っている。同じハタをふらない人は排斥、同じ歌を歌わない人は排除。大国にシッポをふり従おうとするやり方に不満を持ちビラ配りをした人は、処分。

 自分たちの共同体を守ることだけに狂奔し、自分たちの利益だけを優先させ、そうやって不寛容が蔓延していくうち、いつか私も、赤鬼や「あの女」のように「村のために処刑される」ことになるのかも知れない。

 海のむこうには絶望だけが沈んでいるのだろうか。 私が小舟をこぎ出す「海のむこう」は、もうどこにもない。<『赤鬼』観劇記おわり>

オィディプス王
2004/10/16 土 

 蜷川演出アテネ公演『オイディプス』をビデオで見た。野村万斎オイディプス、麻美れいイヨカステ。コロス男性20人。

 古代劇場をそのまま使った、めったに見られない劇空間なので、それだけでも印象深いが、役者それぞれの演技が、コロスも含めてすごかった。

 コロスの動きが印象的。くるくる旋回して、トルコのイスラム僧侶の宗教舞踊のような動きを見せたりする。コロスは、オイディプスが一人でセリフを言うとき、客席に背を向けて立ち、客席からは表情が見えないであろうに、オイディプスのセリフにあわせて、表情をつけ、ひとりひとり演技している。ちらっとテレビカメラがその表情を拾うが、客からは見えないだろう。それでも「ちゃんと演技しろ」と蜷川が要求したのだろうなあ。すごいなあ。

 コロスの動きのほかは、特別奇抜な演出もなく、ソフォクレスの戯曲の通りにオーソドックスな演出だった。

 イヨカステは、「強い巫女」という印象の作り方で、私の好みとしては、若い夫に夢中な部分と、夫が息子とわかったあとの狂乱とちがいがハッキリしている作りがわかりやすくっていいのだが。もともと麻美れいは、顔立ちが派手で、それだけでも強い印象があるので、もう少し「運命に翻弄された女の悲しみ」を全面に出してもいいように思った。

 映画『アポロンの地獄』を見ても、ソフォクレスの戯曲を読んでも、なんでギリシアの神はこんな残酷な運命を人に与えるのかわからない。イエスひとりが人類の原罪を背負って死ぬ必要があったように、オイディプスひとりが「父殺し、母との結婚」という「すべての息子の罪」を背負って死ぬ必要があったのかもしれない。あるいは「知ることの罪」なんだろうか。

 オイディプスに罪はないのに、と思うから、血糊にまみれたオイディプスが幼い娘の手を握ってせつせつと語るところでは泣けない。
 神が与える運命は残酷にして理不尽だと思うばかり。

 カーテンコールで役者がならんだところでは泣けた。演じることの魂、役者の存在に泣ける。 
 この劇のストーリーを知らずに見に来ているギリシア人もいないだろうから、日本語のセリフでも十分に通じていたのだろう。字幕とか出たのだろうか?

 この日本語のセリフまわしを、古代ギリシア劇場で味わうのを体験できた人は一生の思い出になったろうなあ。
 オリンピックは生でなくてもライブ中継で楽しめたが、ニナガワオイディプスは生で見たかった。

17歳のオルゴール
2004/12/18 土 17歳のオルゴール

 調布グリーンホールに着いて、音声ガイドなどを借りていたら、すでに開演している。前から2列目の視覚障害者用の席へ。前列両脇は車椅子スペース。

 あこさんが「前売り券がまだ300席しか売れていない」と、心配していたよりは入っていたが、それでも客は1300人収容のうち、半分程度の埋まり具合だった。

 青年劇場『17才のオルゴール』は、脳性マヒ重度身障者が書いたエッセイの逸話をもとにして高校生が演劇祭に発表した劇を、さらに脚色して作られたストーリー。

 脳性マヒの娘友子を演じる役者は、リアルに手足のふるえやマヒを演じ、顔のマヒも作っていて熱演だった。しかし、車椅子で見ている脳性マヒの人々にとって、このリアルな演技はどう映っているのだろうか。脳性マヒの人が、「わたしよりマヒの動きが上手ですよ」と、ユーモアのあるコメントを寄せているパンフレットの言葉を読んだが、私には、見ているのがつらいときもあった。

 重度身体障害をかかえる思春期の少女の恋や悩み、家族の苦しみ喜びを描いた作品。という事前の予測の通りに話がはこんで、一度は不和になったボランティア高校生の少女とも最後は和解し、「生んでくれてありがとう。命をありがとう」という原作者の詩がスライドで映されて終わる。泣けてくる

 だが、やはりつらい。友子は書いた詩や硬筆文字が他者に認められることで、励ましを受けたり、男子高校生に思いをよせたり、さまざまな経験をして、「命をありがとう」という言葉を発することができる。

 この劇をみて、「生きる希望をとりもどした」と思える人なら、きっと相田みつをの書を見て「励まされた、生きる希望をもてた」と言える人なんだろうと思う。
 「相田みつを」で励まされることが悪いことだなんて思わない。きっと多くの人々が慰めを得て勇気を得ているのだろう。だから、とてもすばらしいことだ。

 それなのに、私は、この劇からカタルシスを感じなかった。よほどひねくれているのだろう。


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