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ポカポカ春庭 映画いろいろあらーな2006
ポカポカ春庭の映画いろいろあらーな2006

2006
日付
タイトル 監督 主演
01/05 風の前奏曲 イッティスーントーン・ウィチャイラック アヌチット・サパンポン
01/17 カミュなんて知らない 柳町光男 柏原収史 前田愛
01/20 メゾン・ド・ヒミコ 犬童一心 柴咲コウ オダギリジョー
01/20 8月のクリスマス 長崎俊一 山崎まさよし
02/02 イン・ハー・シューズ カーティス・ハンソン キャメロン・ディアス
02/12 空中庭園 豊田利晃 小泉今日子
02/12 さよならcolor 竹中直人 竹中直人 原田知世
03/19 ナルニア国ものがたり アンドリュー・アダムソン W・モーズリー A・ポップウェル S・ケインズ ティルダ・スウィントン
03/21 ポビーとディンガン ピーター・カッタネオ クリスチャン・ベイヤーズ サファイア・ボイス
03/21 ブラザーズ・グリム テリー・ギリアム マット・デイモン ヒース・レジャー
03/28 ロバと王女 ジャック・ドゥミ カトリーヌ・ドヌーヴ
03/28 ベニスの商人 ジャック・ラザフォード アル・パチーノ
05/16 博士の愛した数式 小泉堯史 寺尾聰、深津絵里、吉岡秀隆
05/16 単騎千里を走る チャン・イーモウ 高倉健
05/20 ダ・ビンチ・コード ロン・ハワード トム・ハンクス
05/21 雨あがる 小泉堯史 寺尾聰 宮崎美子 
05/27 第五福竜丸 新藤兼人 宇野重吉
06/13 天空の草原のナンサ ビャンバスレン・ダバー ナンサル・バットチュルーン
06/13 南極物語 フランク・マーシャル ポール・ウォーカー
07/04 運命じゃない人 内田けんじ 中村靖日、霧島れいか、山中聡
07/04 ALWAYS三丁目の夕日 山崎貴 吉岡秀隆、堤真一、小雪
08/01 ゲルマニウムの夜 大森立嗣 新井浩文 広田レオナ
08/08 ゲド戦記 宮崎吾朗 声)菅原文太
08/22 こぎつねヘレン 河野圭太 大沢たかお
08/22 有頂天ホテル 三谷幸喜 役所広司
09/04 ぼくを葬る フランソワ・オゾン メルヴィル・プポー、ジャンヌ・モロー
09/04 ブロークバックマウンテン アン・リー ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール
11/01 ウォルター少年と夏の休日 ティム・マッキャンリー ハーレイ・ジョエル・オスメント,
11/23 手紙 生野慈朗 山田孝之、沢尻えりか
11/26 ゲロッパ 井筒和幸 西田敏行 常盤貴子
12/10 ラストサムライ エドワード・ズウィク トム・クルーズ 渡辺謙
12/23 北の零年 行定勲 吉永小百合 渡辺謙

風の前奏曲
2006/01/05  

 セレクト感想文はこちら 2006年に見た映画セレクト 

カミュなんて知らない
2006/01/17 

 渋谷の円山町シネコン内に入ったユーロスペースで『カミュなんて知らない』を見た。
 映画は、まあ、よかったけれど、客は平日午後だからか、ガラガラだった。

 立教キャンパスがいかにも、加山雄三が若大将をやってたころのキャンパスみたいなので、学生が踊っているのはヒップホップで新しげなのに、全体の学園ムードは60年代的だった。

 映画を作るものにとって、虚実皮膜とは何なのか、という「メタシネマ」として見る視点からは、面白かった。
 現実に血糊と血液を比べてみたら明らかに違うが、映画や演劇の中では、それがほんとうに血に見える。それが虚実皮膜のあわいってもんだが。
 ひなのアデルがほんとうにカッシー弟を突き落としたのか、怪我をしたっていうのはほんとうなのか、すべてが反転し、すべてが虚となるのかと思っていたら、そうではなかった。

  カッシー弟はテレビドラマだとちっともうまげに見えないが、映画では兄よりよかった。
 中泉英雄は、今年30歳だが、大学生役も、大学生が映画の中で高校生を演じる役も、ちゃんとその年齢に見えるし、ほんとうに「殺人したらどうなるか知りたいために殺人をする高校生」の目をしていて、最後の殺人シーン、よかった。
 彼の目によって虚が実に思えてくる。

 『ベニスに死す』パロディは、えげつなさすぎてオマージュとは思えず、パロディとしては笑えず、気持ちよく見られなかった。才能が枯渇してしまった老監督の細胞が本当に若返ったのならよかったけれど。

メゾン・ド・ヒミコ
2006/01/20   

 柴咲コウのめ力、オダギリジョーの美しいこと。田中泯は、昔の写真が写ったときに、踊っている姿のフィルムが出たらよかったのになあ。
 ルビー役の歌澤寅右衛門やキクエ役の洋ちゃんがとてもいい。

8月のクリスマス
2006/01/20  

 韓国映画の『八月のクリスマス』とどう違ってどう同じなのかという興味だけで見たのだけれど、こちらはこちらでよかった。ヒロインが婦警じゃなくて産休代用教師になっていたほかは、山の高台から町を見下ろすシーンが、韓国版にはなかったなあと思うくらいで、あとはほとんど同じストーリー。
 山崎まさよしも好演していた。ヒロイン関めぐみが、私にはもうちょっと丸みが欲しい気がした。

イン・ハー・シューズ
2006/02/02 

 ギンレイで「インハーシューズ」を見た。ストーリーは、予想した通りの展開だったけれど、シャーリーマクレーンの皺や手や胸の染みにしみじみしたし、おもしろかった。

 教育と成長という視点で、教育者がこの映画を見ると。
 妹マギーは「難読症」の子どもだったため、学校から落ちこぼれ、優秀な姉ローズが弁護士として活躍しているのとは対照的な、ダメ女になっている。仕事をしてもいいかげんですぐクビになるし、人のものを盗っても平気だし。

 実母が病死したあと、父親が再婚したママ母との折り合いも悪く、どこにも居場所がない。
 父と疎遠になり、その存在さえ知らされていなかった祖母。マギーは偶然祖母がマイアミにいることを知り、祖母のいる老人ホームで働くことにした。
 
 この老人ホームに、もと教育者の老人が入居している。マギーが本をうまく読めないというのに、本の朗読をしてくれと懇願する。マギーのたどたどしい読み方を、老人は誉める。心が伝わってくると言って。はじめて誉められたマギーは、しだいに自分に自信をもち、自分を認めていく。

 マギーのこの「本を読む」エピソードが一番心に残った。もちろん祖母のシャーリーマックレーンもマギーにとって大きな存在だが、この老人との出会いと、本の朗読がマギーを変えたのだと思う。

 その存在を認めてやること、いい面を探して誉めること。教育にとって、人を成長させる契機はこれにまさるものはないと、わかっているけれど、毎日流れていくカリキュラムの中で、実践はなかなかできないものだと、身に染みているので、マギーの成長はうれしかった。
空中庭園
2006/02/12 

 空中庭園は監督の麻薬所持トラブルで公開延期かと言われていたが、作品の出来映えを惜しんだ人たちの熱意で予定通りの公開になったというだけあって、よい出来だった。
 冒頭の蛍光灯ランプシェードに描かれたバビロンの空中庭園俯瞰、町田郊外の住宅地やビルの中を通るバスをゆらゆら揺れるカメラワークで捕らえたところとか、豊田監督の才気が炸裂していた。


さよならcolor
2006/02/12 

 まったく期待していなかったのだけど、ついでに見たわりには、よかった。
 よくなかった箇所ひとつ。竹中直人と原田知世がならんで浜辺にすわって語り合うシーン。背景をものすごいスピードで雲が走る。ところが、ある時点で雲のうごきがぴたりと止まる。また少したつとものすごいスピードで雲が動き出す。またぴたりと止まる。
 背景と別撮りなのは、いいけれど、こんなぶざまな合成をするくらいなら、書割の雲でずっと動かないほうがマシ。


ナルニア国ものがたり
2006/03/19 

 1975年前後に全巻を読んだ。校務分掌で図書室管理を割り当てられたので、図書予算で購入する作品を選ぶ仕事が与えられ、喜びいさんでさまざまな児童文学を読破。ナルニア国ものがたりも図書室にシリーズをそろえた。

 ところが、楽しみにしていいた映画を見て、私は細部をほとんど忘れてしまっていることがわかった。衣装ダンスを抜けてナルニアに入ったところに立っているロンドンガス灯のシーンとかはくっきり覚えているのに、たとえばエドマンドが白い魔女からもらう魔術菓子ターキッシュディライト(トルコゆべし)のとりこになってしまうところとか、全然覚えていない。
 画面づくりは丁寧で、ナルニア原作ファンを裏切らないスクリーン構成ができている。

 白い魔女はほんとうに魔女らしい冷たい美しさ。ナルニアの住民達がこのカリスマに心引かれて支配されているという描写がほしかった。エドマンドも、お菓子にだまされるのじゃなくて、アンデルセンの『雪の女王』みたいに、彼女の美しさ、存在そのものの魅力に引かれ、思春期特有の女性への目覚めから魔女に引かれていく、みたいだったらいっそう面白かったのに。

 アスランが「人間の子エドマンドの裏切りの罪」を引き受けて犠牲として殺されるシーン、キリスト教の人は涙しつつ彼の復活を信じられるのだろうが、仏教徒の私は、やはり誰に対しても自分の罪の身代わりを引き受けて欲しいとは思えないのだ。私が罪を犯したなら、私は自分でそのつぐないをする。不遜な考えなのかも知れないが、告解すれば許されることと、イエスが全人類の身代わり犠牲となって死ぬってことだけは、仏教徒には理解が行き届かないこと。

 指輪がキリスト教とは関係なく楽しめるのに対して、最終卷のアスラン昇天に至るまで、やはりこのファンタジーワールドはキリスト教世界なんだなあと感じる。
 指輪の旅の仲間は男だけで構成され、女性は背後的な役割なのであるに対して、アダムの息子ふたりイブの娘ふたり、セットになっているからなのかなあ。

ポビーとディンガン
2006/03/21

 想像の世界の肯定と兄妹を中心にした家族愛の物語。ほのぼのとして、ほろりとさせる。
 オーストラリア、アデレード近くのオパール鉱山というのがどんなところかわかっただけでもよかった。

ブラザーズ・グリム
2006/03/21   

 CGを駆使してファンタジー世界を構築するのは、ハリーポッター、指輪、ナルニアと同じなのだけれど、どうしても世界観が狭い気がしてしまう。
 グリム兄弟が「民間伝承蒐集者」という以前に言語学者であったことが、どれくらいストーリーに関わるのかと思っていたら、まったく関わらなかった。唯一、弟のジェイコブが「これでもぼくは学者だったんだ」みたいなセリフを言うシーンが一箇所あっただけ。
 
 兄弟は、迷信を信じる田舎の人に、仕掛けを見せて悪魔や魔女jを信じさせ、悪魔払いの商売をしているというストーリー。
 最後はラプンツェルの塔に住む永遠の命を欲する女王魔女と対決。

 面白かったけれど、この「底の浅さ感」は、いったいどうしたものか。
 私がシナリオを書くなら。

 壮大な「ことばの国」ファンタジーワールドがある。ファンタージェンみたいなところ。バベルの塔が中央に立っていて、いまやことばの国は魔王によってことばを支配されてしまっている。禁句、検閲、など言葉狩りが横行している世界。
 グリム兄弟は民間伝承をあつめ、比較言語学を構築し、ばらばらな印度ヨーロッパ語の世界が祖語を中心にかってはひとつの源に属する言語であったことを調べ上げる。
 ばらばらに支配されていた人々が、祖語をたよりにひとつにまとまり、自由なことばの世界を取り戻す。みたいな、お話にしたいで〜す。


ロバと王女 
2006/03/28

 ロバと王女は、70年に新作ロードショウのとき見て、なんて絢爛豪華な衣裳、でもどうしてこんなおとぎ話を今の時代に作ろうとしたのだろう、って、その制作意図がわからなかった。今回見ても、うん、カトゥリーヌ・ドヌーヴはきれい。衣裳は豪華、でもなんでこのお話なんだろうと思う。
 シンデレラストーリーのバリエーションというヨーロッパ伝説の映画化。王女が苦難を得るのはママ母の意地悪じゃなくて、やもめになった父王が実の娘と結婚しようとするからっていうアブナイことになっているし、王子がヨメ探しをするのは「ケーキのなかに隠されていた指輪」によって。
 シンデレラストーリーも何度も映画化されているのだけれど、「ロバの皮」をかぶった王女→灰をかぶった娘が革靴を履く→革靴がガラスの靴に変化、で、ロバの皮のほうが原形に近いお話なのだろう。

 ロバの皮は、自分でケーキを焼いて、王子にケーキの中の指輪に気づかせる。シンデレラよりちょびっとだけ「自分の力で幸せをさがそうとする」ってところが、70年代っぽかったのかと思います。
haruniwa bbs 2006-04-02 18:59:54


ベニスの商人
2006/03/28 

  『ベニスの商人』は、アル・パチーノがシャイロック。ユダヤ人差別に同情的な作り方になっている。映画産業に携わる人の多く、特に出資者がユダヤ人なのだから、今までは映画化されにくかっただろうと思う。何度も映画化されている『ロミオとジュリエット』『ハムレット』などに比べ、『ベニスの商人』は、これが初映画化だって。
 ベニスの町の雰囲気や、人々の暮らしのようすなどがとてもいい感じで画面にあらわされていた。
 シャイロック裁判については、「金を貸して利子をとることが神の法にてらして是か非か」ということになるのだろうが、今から見れば「肉を切り取るのに、血を含めておかなかったまぬけなシャイロック」という話になってしまう。肉1ポンド切り取るなら、血その他の附属する肉塊10ポンドくらいつけておけって。

 『恋におちたシェークスピア』のときも思ったのだけれど、どうして女が付け髭をしただけで、「顔が似ている」と疑いもしないで別人と思えるのだろうと、そこんところは、400年前のお芝居だからまいいか、というしかない。

 ポーシャは、法律の文章もよく読みこなしているインテリ女だ。これは時代背景からすると
不自然なこと。
 シェークスピアは、エリザベス一世の博識を間近に知る環境があったからポーシャを作り出すことができたのだろう。
 一般の女だけを見ていたなら、金持ちのお嬢さんが読み書きどころか、法律文を解釈できるという女にあるまじき行動がなしえる女性を創作できなかったろう。

 当時の女は自分の名前の読み書きすらできないのが、富豪や貴族の娘であっても普通だった。祐筆係りが常にそばにいたので。読み書きできるのは、家庭教師の仕事などで稼がねばならない中流の娘。平安でいうと、紫式部清少納言クラスですね。
 エリザベス一世は、ポーシャを見てどういう感想を持ったろう。自分以外の女が読み書きできることに不快の念を示したか、あっぱれな名誉男性に喝采を送ったのか。

 結婚後のポーシャは妻として、ハンサムだけがとりえのバッサーニオにとって重荷になるだろう。
 どんなことがあってもはずさぬと約束した指輪を、親友に有利な判決をしてくれた法学博士にあげてしまった夫の不実は、そのうちかならずポーシャを嘆かせる種になるだろう。

 昔は芝居を見ても、原作読んでも、ポーシャたちに幸せが訪れるハッピーエンドにおもえたのだが、今回の映画化で、けっしてポーシャとバッサーニオには幸福が約束されていないように、シェークスピアは作っていたんだなあと思う。

 原作を読んだだけでは、納得できなかったアントーニオのバッサーニオへの友情も、映画では、はっきりと解釈が打ち出されていた。
 自分の肉1ポンドという過酷な担保をなぜアントーニオは平然と受け入れたのか、それほどのバッサーニオへの友情って?映画ではアントーニオはバッサーニオの美貌に惚れていた。バッサーニオはバイだね。
 アントーニオを演じたジェレミー・アイアンズの解釈では、「アントーニオはバッサーニオに対して、ある種の奇妙な父子的な関係がある」って言うんだけど、ある種の奇妙な父子的関係って、それはパトロンと愛人の関係のことだよね。さすが、本場のシェークスピア俳優は、上品な表現でカンケーをいうなあ。

 最後に「キリスト教に改宗せよ」と命じられるシャイロック。死ぬよりつらいアイデンティティ剥奪。
 キリスト教徒が他者の宗教に少しも配慮を示さない非情な人々であることを示したラストになっていた。

 イスラム教の侵攻では、イスラム教への改宗者は迎え入れるし、改宗しない者には税金を払うことで、征服された人々のアイデンティティを尊重するやり方だった。
 キリスト教のこの独善的「自分たちこそ一番すぐれている」という思い上がりを映画に描き込むことは、ブッシュ独善への批判をやっているのかしらと勘ぐってしまう。

博士の愛した数式
2006/05/15

 『博士の愛した数式』、原作が本屋大賞になるまえから、アラスジ聞いて、「わっ、あたしには合わなそうなストーリー」と思っていたら、その通りだった。私には数式が合わないってことだけじゃなくて。どうも、あわなかった。合う人には、泣けるんだろうけれど。

 相性が悪いといえば、浅丘ルリ子、テレビや舞台だと見ていられるのに、映画だとどうもダメみたい。
寅さんでストリッパーやるときは、あのメークでも許せるけれど、他の「フツーの女」やるときにあのアイメークだと、どうも違和感がある。

 「この義姉未亡人さん、お金があって、家政婦やとって、ヒマもてあまして暮らしているんだろうけれど、どう考えても、朝おきて、メークに3時間、よる寝るまえにメーク落としとお肌の手入れに4時間はかけているんだろうな。
一日のうち、自分の顔いじって7時間すごすのかあ」なんて、考え出すと、もう、気が散って、ストーリーが異化されてしまう。

 浅丘ルリ子が日活女優として全盛だったころのインタビューで「メークは、朝起きてから3時間はかかります」と言っていたのが、よほど強烈インプットされているらしい。

 『〜数式』に、どうもなじめない感じがあったのは、この「義姉浅丘ルリ子のメーク」のほか、「何を演じても吉岡秀隆がそこにいる」という強烈なキャラのルートも一因。

 役者の「ここが私とあわないの」は伝えられるけれど、「ここが絶対いいんです」は、確かに伝えるのむずかしいね。
2006-05-20 11:59:56


単騎千里を走る
2006/05/15 

 健さん、いつもの健さんそのまんまで、『駅』の健さんも『黄色いハンカチ』の健さんも全部同じパターンの健さんだけれど、いいんです。それで。
 それが、『〜数式』の寺尾聰だと、このワンパターンが、「またそれかい」って気になるし、吉岡秀隆だと「もう、いいや、それ」って飽きてくるのに、健さんは健さんでいいっていうのは、そりゃ、健さんだからだろう。

 『単騎千里を走る』高倉健主演の父と子の話と聞いただけで、「やだな、高倉健が画面に出てきて、息子がどうたらと、言い出しただけで、もう観客はなくだろうな」という先入観で見始めて、健さんがビデオにむかって「息子がどうたら」と言い出したら、予定通り、泣いてしまいました。

 これだけ斜にかまえて「泣かせのその手口にはのらんぞ」と思っているのに、シロート使ってこれだけやらせる、うまいなあ。

 張芸謀作品、好きなの多いんだけれど、前作の「Lovers」は、金城武もチャンツィイーも好きなのに、全然面白くなかった。
色はきれいだったけれど、ひとつもドキドキもハラハラもしなかったので、中国の田舎ロードムービー&父と息子というのがかぶった『山の郵便配達』の後追いパクリのような雰囲気だったらどうしようかと心配しながら見ました。

 でも、麗江の街並や山々の風景、少数民族の村「石頭村」のようす。そして「雲南省の仮面劇」北京の京劇、吉林省の「吉劇」、浙江省「越劇」など、地方ごとに名前が変るので、たぶん「雲劇(ヌーシ?)」と呼ぶのだろうと思うけど、この仮面劇の力も画面のインパクト大きかった。

 現代中国の刑務所のようすがわかったのもよかったし。
 ほんとの刑務所はもっとすごいことになってるんだろうけれど。

 健さんはどこに行っても健さんで、中国でもシロート出演者からエキストラにまでまんべんなく気をつかって、だれからも慕われちゃったみたい。
 「よい人」は、役者として成功しないという神話をうち砕いただけでも、偉大な人です。

 息子の中井貴一が声だけの出演で、病室ベッドのシーンで顔出さなかったのも、私にはよかった。貴一さん、よい役者とおもうのだけれど、なぜか相性がわるいので。
2006-05-20 11:59:08(春庭bbs)

ダ・ビンチ・コード
2006/05/20

 川口のシネマコンプレックスで『ダビンチコード』を見る。
 駅東口から徒歩3分と新聞に出ていたので、東へむかって5分くらい歩いたけれど、見あたらなかった。駅に戻って交番で聞いてみると、北へ向かって徒歩8分。キリンリボンシティの中にできたショッピングモールの中のシネコンだった。イトーヨーカドーが一階、シネコンは3階。
 キリン麦酒がイベントをやっていたのだけれど、雨で早じまいだった。

 映画は5:40からの回。切符を買ったのは5:45。「今、予告編上映中だから、本編はこれから」というので、席につく。はじっこで、前から3列目。画面を見上げる席。
 ま、でもここなら初日でも列に並ばずにみられるだろうと思ったのはあたった。私がチケット買った時点でまだ95席残席があった。

 映画はおもしろかった。真犯人黒幕が逮捕されて以後の、キリスト教の秘密暴露みたいな部分は、クリスチャンにとっては大問題な内容なのだろうが、われら仏教徒には、どーでもいいです、イエスが女はらませようと、なにしようと、って感じ。
 弟子達と「擬似ホモ社会」だったのかなあ、と思わせる初期集団だったから、かえってマグダラのマリアがはらんだってことで、ヘテロ集団になってよかったんじゃん、とおもうのだけれど、そうでもないみたい。ヨーロッパアジアのクリスチャン国では上映禁止運動がはじまるのだとか。
 バイブルは、人間達が勝手な取捨選択をほどこして作り上げた本だということを、はっきり言っただけでも価値ある映画と思います。

 エホバの塔の信者さんに「イエスはヘブライ語をしゃべっていたのか、アラム語だったのか、何語で弟子達に説教していたのか、教えてほしい」と、頼んだら「調べてみます」と言ったきり、うちに雑誌をもってこなくなった。前は毎月のように雑誌を届けにきたのに。エホバの証人たちは、他のクリスチャンから「異端」扱いをうけているけれど、なに、私にとっては、同類項。
 他のクリスチャンも、初期キリスト教のことや、イエスの時代のユダヤ教やユダヤ社会について、もっと勉強すべきだと思う。

 映画では、ローマ皇帝コンスタンティノスが、帝国崩壊をくい止めるためのキリスト教利用をすすめるため、イエスの事績を取捨選択し、帝国の宗教として都合がいいことだけを書き残し、他は異端とした経緯をはっきり述べていて、よろしいのじゃないかと思いました。

 しかし、最近のアメリカでの進化論教育拒否など、一部の宗教が先鋭化していくことは、これからもっと広がってくるだろう。
 人はなぜ存在するか、生きて死んでいくのか、この答えに対して宗教にすがる以外に自分で回答を考えられない人、考えたくない人は増える一方だろうから。
2006-05-21 00:21:55 |

 ダビンチコード、初日、行きましたかぁ!!って、私もネッ。
いつもは初日になんか絶対見ないんだけど。混むから。

 今日午後、東京芸大美術館でエルネスト・バルラハ展を見に行った。
6時ごろから雨がふってくるって、天気予報で言ってたので、雨が降り出す前に帰ろうと思って、4時半に美術館を出ました。
 もう、ふっていた。

 百円傘、小さめなので、上野駅に戻るまでにかなりぬれました。
昨日、東西線の電車のなかに傘わすれた。これは、500円の傘。私にしては、高い方。今年になってなくしたの何本目になるか。

バッグに百円傘を入れてある。すぐなくすのだから、百円以上の傘はつかわないようにしているのに、500円とか1000円の傘もっていると、電車の中においてくる。

 ま、それで、雨宿りがわりに上野から川口まで行った。
川口に去年暮れにできたショッピングモールの中に、シネマコンプレックスがあって、そこでダビンチコード見ました。

 初日、17:40の回だけど、私が切符を買った17:45にまだ98席残っていた。
まえから3列目のはじっこで、見やすい席ではなかったけれど、昔の田舎の映画小屋からみたら、トイレもきれいだし、座席もゆったり目だし、はあ、こういうのがシネコンっていうものなのか、はじめてはいってみたんです。

 ダビンチコード、学生のひとりが原作読み始めたっていうので、「私は映画みてから読もっと」って、言ったの。学生より先に読んでないなんて、「映画を先に見るから」とでも言っておかないと。

 それで、初日に見る気になりました。明日の授業で顔あわせたら「見たぞお!」と言わなくちゃ。

Re:やわらかい生活、薔薇の名前、ダ・ヴィンチ
haruniwa
 「薔薇の名前」のとき、修道僧が自分で鞭打って「キリストの受苦」を自分の体で実感するっていうシーンが出てきた。
ああいうのは、中世の修道院のことだろうと思っていたのだけれど、被虐嗜好って、宗教的にであれ、純粋に性的快楽であれ、現代だってあるよねぇ。
あのモンク、あれは苦行だったのか、快楽だったのかと、どっちだったんだろ。

 カフェのアクセス順位マニアの人の日記に「ああ、またリスカしたくなっちゃった」なんてこと書いてる人がいるので、私にはわからないけれど、我が身を切り刻んだりむち打ったりしたい人はしたいんだろうなあと、思います。

 うう、私は痛いのだめっ、と思いつつシオンモンクのむち打ち見てました。

 キリスト教美術のほとんどが、悲痛な顔のマリアだったり、苦痛にゆがみつつ法悦みたいなイエスの顔だったりすること、いつかゆっくりイコンコードを解読してみたいです。
2006-05-21 00:26:14


第五福竜丸
2006/05/27
(Kitchen Works 牧野光永bbsより転載)

まっき〜bbs No.2059 - 2006/05/27(Sat) 22:37:24
新藤兼人 / HAL ♀ [関東]                                          
京橋フィルムセンターで、4月5月と2ヶ月連続の新藤兼人の全シナリオ上映、終了まぎわになって、やっと行ってみました。
まっき〜師匠スジにあたる人だと思うので、ちょこっとご報告を。

27日土曜日の最終回、『第五福竜丸』を鑑賞
観客は圧倒的に年寄りばっか。私が一番若いくらい。
っていうのも、デートに向く作品じゃないし、映画研究の若い人なら、DVDもでているのだから、わざわざ雨の中、京橋までこないだろう。
年寄りは、映画はDVDとかじゃなくて、暗い中で椅子に座ってみたいのよね。
土曜日の「銀ブラ」に来たついでに見ているっていうような老夫婦などもいた。

新藤兼人作品だから足を運んだというより、「自分にとっての現代史のヒトコマである第五福竜丸事件を確かめるため」という感じの観客が多かったと思います。

私が5歳のころの、ビキニ沖水爆実験による被爆。
記憶には残っていないのですが、夢の島に展示館ができてから、何度か福竜丸を見ました。

新藤作品、ドキュメンタリータッチで、ヒロシマナガサキに次ぐ日本人の被爆と放射能症による死を描いていました。

被爆の悲劇は、胸にしみたけれど、それはそれとして、それ以上に、50年以上も前の木造140トンの漁船がマグロ延縄漁を行う冒頭シーンにみとれていました。
福竜丸事件から5年後の1959年の制作。高度成長期に突入前の、日本の日常光景、女達が割烹着に下駄をつっかけている姿とか、そういう細部に心ひかれました。

先週の土曜日5月20日にフィルムセンターで開催されるはずだった、新藤監督の講演会は、監督体調不良のため、中止。
なにしろ93歳ですから、心配ですね。人間国宝的存在ですから、100歳めざしてほしい。


天空の草原のナンサ
2006/06/13 「The cave of the yellow dog」
  『天空の草原のナンサ』は、ドイツ映画大学で学んだモンゴル出身の監督が、モンゴルに伝わる昔話をモチーフとして、モンゴルの一家の日常をドキュメンタリー的な手法で描いた映画。
 モンゴル出身の女性監督ビャンバスレン・ダバーの『らくだの涙』に続く、モンゴル大草原を舞台にした作品だ。

 仏教の思想が残るモンゴル社会。
 町の学校で学ぶため、家族と離れて暮らし、長期休暇で家に戻ったナンサ、6歳。ナンサの下に幼い妹とよちよち歩きの弟がいる。ナンサは、洞穴で犬を拾った。
 しかし、「おおかみを呼び込みかねない」と心配する父に、飼うことをゆるしてもらえない。ナンサは、犬にこっそりツォホールと名付け、捨ててこいという命令にそむいた。

 父が町へヒツジの皮を売りに行った留守、ナンサは母を助けて、ヒツジの番をする。
 はぐれてしまったツォホールを探していると、あたりは暗くなり、雨がふってきた。雨やどりをさせてもらったゲルのおばあさんは、「洞窟の黄色い犬」の伝説をナンサに語る。
モンゴルの人々は輪廻転生を信じており、人と仲良く暮らした犬は次は人に生まれ変わると思われてきた。

 町から帰った父のおみやげ。子どもたちにはスイッチを押すと動く犬の人形。犬を飼わせてやれないことの父なりの心遣いなのだろう。長年使い込んだひしゃくがこわれてしまったと言っていた母へのおみやげは、黄緑あざやかなプラスチックのひしゃく。だが、ひしゃくは、目をはなしたときに、かまどの熱でぐんにゃりとけてしまった。
 ゲルを移動する時期になった。放牧の間暮らしてきたゲルを解体し、次の牧草地へ大草原を移動するのだ。

 ナンサはつながれたまま残されたツォホールが気になり、両親にしっかり見張っているように言われた弟から目を離す。
 弟は、荷馬車からおりていたのに、気づかなかった。
 空には死骸を求めて飛ぶはげわし。近寄ろうとするはげわしから、ツォホールは吠えて赤ちゃんを守った。

 やがて赤ちゃんをさがしに戻った父は、ツォホールがはげわしから赤ちゃんを守ったことに気づく。
 父はツォホールをいっしょに連れて戻り、ナンサはツォホールとともに草原を移動していった。

 「軽くて使いやすそう」と母が喜んだプラスチック製のひしゃくが、すぐに熱でひしゃげてしまったのは、都会の消費文明使い捨て文明の象徴であるだろう。

 ゲルを中心に自給自足の遊牧生活、厳しい大自然の中で、父はたくましく母はチーズ作り洋服作り、きびきびと家事をこなす。子どもたちはお手伝いをしっかりしている。モンゴルの精神的背景も語られて、人の幸福の原点が示される。

 モンゴルに生まれ、モンゴルウランバートル大学で法律や映画について学んだ後、ダバーはミュンヘンの映画大学でドキュメンタリー映画の制作を学んだ。ドキュメンタリー『らくだの涙』で、一躍国際的な監督として認められた。
 プロデューサーはじめ、主なスタッフは、大学の先輩後輩。制作費を自分たちで調達しながら、モンゴルの奥地でナンサの一家といっしょに過ごし、映画を完成させた。
 モンゴルの大草原、青い空や白い雲、ナンサと妹弟の自然な表情。どれもダバー監督のモンゴルへの愛情が感じられるつくりだった。

 私にとっては、今年のベストワン。


南極物語
2006/06/13

 『南極物語』は、「太郎と次郎」が南極で生き残っていた実話を「ディズニー動物物語」として、大甘な作品に仕上げたもの。
 犬の擬人化がいかにもディズニー風のうそっぽい仕上がりになったけれど、デイズニーだから、許す。

運命じゃない人
2006/07/04 

 『運命じゃない人』、タイムスパイラル物で、同じシーンを繰り返しながら3人の男の視点で描いていく。少しずつ時間が巻戻っているところが仕掛け。
 半年前の失恋をふっきれない「いい人サラリーマン」の宮田、宮田の中学時代からの親友、私立探偵神田、宮田をふった女あゆみの現在の男、浅田組の組長。三人がすごした一晩の出来事が、同じシーンで別の視点から繰り返される。

 宮田にとっては、失恋をふっきり、神田がナンパして自分にあてがってくれた桑田真紀の電話番号を聞き出すまでの一晩。
 神田にとっては、親友宮田の元カノあゆみにふりまわされた一晩。
 あゆみの現在の男、ヤクザの組長にとっては、見せ金2千万のゆくえを追う一晩。
 面白かった。監督内田けんじの才気が小気味よかった。


ALWAYS三丁目の夕日
2006/07/04

 『三丁目の夕日』西岸良平の漫画はビックコミックオリジナル連載でずっと読んできた。
 予告編を見て、だいたい内容はわかっていたけれど、これほど予想した内容から一歩もはみださない、予想通りの展開で予想通りの終わり方をする映画もめずらしいなあ。

 みどころは、30年代再現のCGだけだったが、それを楽しめたのだから、いい映画でした。はい。
 昭和35年、小学校5年生の「東京見学旅行」で、完成2年目の東京タワーに登ったのだけれど、東京タワー以外の見物場所を覚えていない。バスの車窓から「ここが吉展ちゃん事件のあった、吉展ちゃんの実家です」と、バスガイドが案内したことだけ覚えている。

 小雪が30年代の水商売の女には見えないって評もあったけれど、私には吉岡秀隆、堤真一よりはずっと気分良く見ていられた。原作では鈴木オートの社長はもっとほのぼの系だったと思う。ホットテンパーの設定は映画的ではあるのだけれど。
 演技としては、空襲で妻子を失った医者宅間を演じた三浦友和が一番落ち着いてみていられた。


ゲルマニウムの夜
2006/08/01


東京国立博物館西門(国際こども図書館の向かい側)に立っているプレハブ「一角座」での上映。東京国立博物館の中に専用映画館(プレハブだけど)を建てた、という時点で、凡百の映画をぶっとばせる。

 日本アカデミー賞総取りの『〜三丁目〜』を見てCGだけが日本映画のいいところと、思ってしまう人に、日本にはこういう映画をつくる人もいるのだ、と胸張れる。

 以下、まっき〜映画bbsへの書き込み(No.2093 - 2006/08/02(Wed) 15:14:36

 映倫を通さずに、一般館での上映をしなかったという志やよし、です。
 映倫のお墨付き待ちつつ役立たないペニスをぶらさげておくくらいなら、この映画のように、入れられないペニスはちょん切ってしまう過激さを、ほかの映画ももってほしいよ。
 って、ちょん切られた豚さんはとってもかわいそうだとおもいます。

 見たはしから映像が消えていく昨今の映画に比べれば、ふりしきる雪をおして進む黒牛の列や、雪のなかの十字墓標の映像、これだけ見るとこれみよがし映像にもうけとられかねないですが、1時間45分の中の流れの中では、とてもよい絵になっていて、大森立嗣の才気を感じました。

 1998年に花村萬月が「ゲルマニウムの夜」で芥川賞をとったときに読んで、口の中に石を含ませてけっとばすシーンがあまりに痛そうだったので、映画は見ないでもいいやとおもっていたのだけれど。

 8月15日に一角座での上映が終わるというので、そんじゃ、終わる前に見ておこうと、博物館へ行ったついでに見たんですけれど、まったく期待していなかった分、すごさ倍増に感じました。

 ラストの神父から犬への奉仕シーンは、まあ、犬にとってはあんまりうれしくもないだろとは思いましたが、「今までの映画がうつさなかったことを映したい」という大森監督のことばに対して、「はい、今までの映画ではうつっていなかったことをみせていただきました」

 19時上映開始の部は、観客は10人足らずでした。一角座上映でどれくらい、全観客数があったのか知りたいところです。

 客をなめたような日本映画がせっせと量産されるなか、なかなか志をもって、なめられたらなめかえす、または、なめられそうになったら蹴っとばす、という映画です。

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 映画見て、原作をもう一度読み直すってのはめったにしない。映画は映画、原作は原作。

 でも、映画と原作を比べたくなったのは『ジョゼと虎と魚たち』以来。
 原作には「犬と神父」シーンはなし。
 原作で「中三の三浦」が映画では、インパクト強すぎる顔の大楽源太演じる「隊長」になっている。
 「隊長」の顔は、すごい。絵になる顔である。

 新井浩文がベッドでぼうっとゲルマニウムラジオを聞いている半白眼むいている顔もいい。
 浩文はホンムンだね。「Go」に元秀(ウォンス)役で出ていたときは、クボヅカ君しか見ていなかったから、目に入らなかったけれど、いい役者と思います。

 やはり、映画は役者の存在がとても大きい。シスターテレジアの広田レオナが美人すぎたけれど、まあ、映画だから美女をださないことにはね。

 アフリカのシスターたちの危機のうわさ。ほんとかどうかなんてわからないうわさだけど、信憑性ありそうにうけとってしまう無責任な話だけれど。
 アフリカで宣教奉仕活動に従事しているシスターたちの妊娠が増えている。それというのも、今まで現地黒人女性に奉仕させていた神父たちが、現地女性のエイズ罹患率の高さにおそれをなし、現地の男性と交わっていないシスターたちに奉仕を求めるようになったからだというのだ。

 まあ、ありそうな話、と思ってしまう。夫妻で教会しきるプロテスタントや仏教のように妻帯認めてしまえばいいのに、カソリックもたいへんですね。

 でも、おかげで、聖歌隊の少年に奉仕させる神父が親から訴えられた裁判沙汰やら、ニュースネタはいっぱい生まれるので、禁忌こそ神の御わざに近づく道と思える人にとっては、禁忌はやはり必要なものであり、、、花村萬月も『王国記』を書き続ける意欲を持てたってわけで。

ゲド戦記
2006/08/08
 ゲド戦記』見てきました。
原作を知っている人たちにとっては、賛否両論があるみたいだけれど、私は映画は映画で楽しんできました。

夕焼けのシーンが何度も出てきて、印象的。
草原を風が渡っていくシーンとか、ジブリっぽい描写です。
(hawk bbsへの 書き込みより)

こぎつねヘレン
2006/08/22

22日、映画を見てきました。
2番館の2本だて。「有頂天ホテル」と「こぎつねヘレン」

公開から半年もたてば、ビデオも100円で借りられる。「有頂天ホテル」も8月からレンタル開始なのだけど、往復400円の地下鉄代はらって、映画館で見ました。

家のテレビでビデオ見るのと、映画館で暗い中、いすにすわってみるのと、好きずきなのだけれど、ビデオだと「日常生活」の楽しみであり、映画館だと「お出かけ気分」になるってことが違うかな。

有頂天ホテルはおもしろかったし、ヘレンは「耳もきこえず目も見えない子狐」の役の狐がうまい演技?だった。

脳の病気のため苦しんで暴れ回るシーンが二回でてきたのだけれど、このシーンをとるために、子狐は何度注射かなんかを打たれて、暴れ回らされたのか、かわいそうに思った。
狐は、一匹だけでなく、たぶん何匹もの「子狐」が使われているんだろうなあ。

「動物感動もの」は、「子猫物語」以来、「これを撮影するために、何匹が苦しい思いをさせられたのか」と考えるクセがついて、素直にみられなくなっちゃった。
6月にディズニーの「南極物語」を見て、9匹だか、シベリアンハスキーがでてきたときも、9匹画面に映っているってことは、犬が20匹くらい、南極でいろいろたいへんな演技をしたのだろうなあと思った。
動物タレントも、たいへんです。

息子娘は「家で、のんびり見たい派」なので、映画館へいくときはたいてい一人。
(ミクシィ日記より)

有頂天ホテル
2006/08/22
 
 楽しい映画、という評判で、おもしろくて笑えるという批評で、まあ、その通り。笑えて、ホロリとしたし、三谷幸喜ワールドは絶好調です。「みんなの家」よりは、わたしにはおもしろかった。

 唯一、納得できないとしたら、篠原涼子のコールガールヨーコ。何度もホテルマンに外部へ連れ出され追い払われる身ゆえ、ホテルの構造、近道を熟知しているという設定が、ストーリー進行上、ぜったいに必要なのだけれど、この若さと美しさで、やくざのヒモがついているようすもないのに、フリーランス張っているのは、日本のホテルでは考えられないもん。もうちょっとうらぶれていそうな、横浜メリーまでとはいわないが、ふけていないと、

ぼくを葬るLe Temps qui Reste
2006/09/04

 ジャンヌモローのしわのひとすじひとすじが、この映画の価値である。

 飯田橋ギンレイの2本立ては、たいてい2本の映画には、「主演俳優が同じ」とか「監督が同じ」「2本とも韓国映画」「2本ともフランス映画」というような共通点がある。

 「ぼくを葬るTime to leave」と併映のブロークバックマウンテンの共通点は、何か。
 フランス映画とアメリカ映画、現代のパリと1960年代から80年代にかけての西部。
 共通点をあえて探すなら、「主人公がゲイである一般映画」。

 薔薇族御用達のAV専門館とかでなく、一般上映館でこれだけ堂々ゲイベッドシーンが画面にでるのは、「太陽と月に背いて」以来じゃなかろうか。って、私が見たのがこれくらいしかないから、珍しく思うだけで、もしかしたら、もうゲイベッドシーンなど珍しくとも何ともない映像なんだろうか。

 主人公ロマンは、31歳。売り出し中のファンションフォトグラファー。恋人はサーシャ。まだ少年の雰囲気を残す、ニート青年。家の中でゲームをしてロマンと性交するほかは、何もしない。

 不調を感じたロマンが医者へいくと、診断の結果は、「余命あと3ヶ月。抗ガン剤治療を受けた場合、治癒する確率は5%。

 ロマンは、5%の確率にすがって苦しい治療を受けるか、あと3ヶ月を自由に思い残すことなくすごすか、選択をする。ロマンの選択は「自由な残り時間」

 ロマンは、サーシャに別れを告げ、仕事をみつけてやる。サーシャが自分で仕事を得たのだと、自信をつけられる方法で。

 幼い頃は大の仲良しだったのに、ゲイであることを自覚してからは疎遠になり、会えばいがみ合ってしまう姉。
 公園ですごす姉と姉の赤ちゃんに、それとなく別れをつげる。

 両親には自分がまもなく死ぬことはうちあけられなかったけれど、「自分と同じ運命=まもなく死ぬ」祖母ローラには自分の余命を告白し、甘える。
 ジャンヌモローのローラばあちゃんはとてもいい。毅然としていて、しかも愛情深い。そのしわからは、過去の男女問題ではひとかたならぬ苦労をしたことが、にじみ出ている。

 ジャンヌおばあちゃんの家へ行く途中で知り合ったのが、ウエイトレスのソフィ。不妊治療がうまくいかず、夫の許可のもと精子提供者を探していた。ロマンを見て、子供の父になってくれるよう頼み込む。
 女性との性交を考え最初はことわったロマンだったが、ソフィの夫と3Pならできる、とうちあけて、3人でベッドイン。ソフィ首尾良く妊娠。
 ロマンはソフィ夫妻たちあいのもと、法律事務所で書類を作成する。8ヶ月後に生まれる子供に自分の財産のすべてを残す遺言書を。

 もう、「自由な残り時間」は使い切った。やせ衰えた体で、ロマンは幼い頃の思い出が残る海辺へ。
 静かに海辺によこたわり、夕暮れをみつめ、永遠の夜をむかえる。

 あと残された時間は3ヶ月という設定、自分の死を受け入れるまでの葛藤。これは、もうベタな展開。
 いい映画だったけれど、デジャブのように、今まで見たり読んだりした「死んでいく人」の話と重なる。
 ラストシーン、海辺に横たわるロマンには、「ちゃんと死ぬ準備できてよかったね」と言ってやりたい気分。

 私にとって、主題の「死を迎える人の生き方」以上に印象に残ったのは、「死のような」快楽について。
 「死」は、母の死も父の死も姉の死も見てきたけれど、ゲイのベッドシーンなんて、日常では見ないからなあ。

 サーシャとのベッドシーン。サーシャはコカインによって性的興奮を得るM。
 クライマックスで、ロマンはサーシャの首をしめる。

 この、首締めオーガスム達成、阿部定と愛人の石田吉蔵の好みとして世に喧伝された。
 私は「なんで首締めて苦しいのが快楽につながるのか」と不思議に思っていたが、宗教的法悦の一種と同じものだとわかって納得。脳内ドーパミンがどどっと出るらしい。宗教は、この修行の結果得られた感覚を「解脱」という。
 
 宗教修行の一種に、「低栄養状態で狭い場所にこもり、低酸素状態におかれる」というのがある。山伏修行でも「穴ごもり」がある。
 どの宗教にも似たような修行があり、麻原彰晃のオーム真理教の修行にも取り入れられていた。

 人は低酸素状態におかれると、脳内物質の変化で、強い光を感じ、「この世ならぬ」平安と快楽を感じる。これは、人が死ぬときに低酸素状態になり、天国極楽を感じるのと同じ。(らしい。一度死んで蘇生した人のインタビュー集によると、幽体離脱現象のあとは、この光の中に入っていく感覚。「平安と快楽」だという)

 サーシャも、首締めの低酸素状態において、この「解脱」快楽を得たのだろうと思う。
 LSDを飲んでみたインドの高僧が、「これこそ解脱だ」と叫んだという。数十年の修行を行って、解脱の境地に達した高僧が、LSDトリップを「解脱」と同じものと認定したと知って、私は宗教の修行とはどんなものかわかっちゃったね。
 法悦とはナチュラルハイです。
 
 それでもって、どんな快楽であろうと、私は首しめられて苦しいのはいやだ。脳内ドーパミン、どどっと出なくてもよい。

 それでもって、5%の生存率といわれて、私の場合。5%の確率にすがって抗ガン剤をげーげー吐きながら点滴されて、じたばたとしぬのだろう。

ブロークバックマウンテン
2006/09/04/
haruniwa bbsへの書き込みto mackychan

昨日9/04は、「ブロークバックマウンテン」を見てきました。
冗長というレビューも見たけれど、私にはおもしろかった。

親同士が仇敵って間柄でも、それぞれに家庭をもつ男女でも、会いたいのに会えないせつなさがリアルに見えない現代。
禁断の恋にするなら、この設定。

現代において「せつない禁断の恋」を描こうとすれば、60年代西部のこの恋になるしかないか、と目のつけどころのよさにまずは拍手。原作の短編を見つけだした人が、功労者。

ストーリー的には。
イニスが、こどものころ父に見せつけられたゲイの惨殺のトラウマを越え、社会から抹殺される恐怖を振り捨ててしまえば、物語は違う転回になるわけで。

ロデオボーイジャックの提案するように、ふたりで牧場を経営するという人生を選べれば、「せつなく」はなくなってしまう。

「男は子供を一人前になるまで養う」という社会規範、「うしろ指さされる父親を子供にもたせたくない」という子供への愛情をふりすててしまえば、イニスは自分を肯定できなくなる。

恋か、人間としての立ち位置か、という二律背反にしばられた人間のせつなさ、悲しさを描いたお話として、受け取りました。

そういえば、前に「ガラスの動物園」評論を書いたときに、テネシー・ウイリアムズが、死ぬまでゲイを否定し、自分がゲイであることを死後もかくそうとしていたことを思い出して、神は死してもキリスト教のゲイタブーが死ぬまでにはだいぶかかったなあ、と思ったことでした。

ゲイタブーニ千年の歴史をもつ地域では、タブーがたかだか最近の百年だけだった日本では考えられないことがいろいろあるのでしょうね。

 2006年1月に「BROKEBACK MOUNTAIN」の公式HP英語版の作品紹介をYahoo翻訳ソフトで翻訳したとき、日本語になったあらすじは以下のとおり。

haruniwa
 公式サイト、英語版、自力翻訳めんどうなので、yahoo翻訳を利用。いつも笑える日本語にしてくれてたのしめるのだけれど、まあ、なんとなく内容はわかりました。
==================
 Signalの1つの朝前半、地元の牧場主ジョーアギーレ(ランディクウェイド)と仕事のために一列に並んでいる間、ワイオミング、エニスDel Mar(ヒースLedger)とジャックTwist(ジェイクGyllenhaal)は会います。エニスとジャックが生まれた世界は、すぐに速く変わっていて、これまでにほとんど進化していません。両方の青年は定まった仕事を得ていて、結婚していて、家族を上げている中核地帯で彼らのセットされたところを確実にするようで、彼らが明瞭に表現することができるものを越えて、まだ何かに飢えています。アギーレが彼らを堂々としたBrokeback Mountainの上で羊飼いとして上で働くように派遣するとき、彼らは友情とそれからより深い親交に引きつけられます。

 夏の終わりで、二つはBrokebackから降りなければならなくて、方法を分けなければなりません。ワイオミングの中に残って、エニスは彼のあなたアルマ(ミシェルウィリアムズ)と結婚します。そして、彼が生計をかろうじて営んで、その人で、彼には2人の娘がいます。ジャックは、テキサスで、ロデオ女王Lureenニューサム(アンハサウェイ)の目をつかみます。彼らの求愛と結婚は、息子(彼女の父のビジネスでの仕事と同様に)に終わります。

 4年が過ぎます。ある日、アルマはジャックからエニスに葉書を持ってきます。そして、その人はワイオミングを訪問するために途中の。エニスは期待して彼の友人を待ちます、そして、ジャックがついに到着するとき、ちょうど1つの瞬間には、時間の経過が男の付属品を強化するだけだったことは明らかです。あとに続く年に、エニスとジャックは、彼らの秘密の絆を生きていておくのに苦労します。彼らは、毎年何度か会います。彼らが別々のときでも、彼らは忠実度、関与と信用の永遠の問題に取り組みます。最後に、彼らの命の1つの定数は、自然界の力愛です。
2006-01-12 23:56:03 |
haruniwa

Ultimately, the one constant in their lives is a force of nature ? love.
この文を
「最後に、彼らの命の1つの定数は、自然界の力愛です。」

と、翻訳するセンスってのは、絶対に人間にはできないことだと思う。

「自然界の力愛」ってとこが気にいった。
2006-01-13 00:00:30


手紙
2006/11/23
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ラストサムライ
 2006/12/10
 
 テレビ地上波放映があったので見た
 見るまえの娘の評「スピリチュアルにいれあげているトム様、自分も精神的にブシドーやってみたかったのだろうね。クロサワ映画にあこがれて、殺陣をかっこよく決める姿をスクリーンに残したかったんだと思うよ。だから、これは、トム様、かっこいい!って思える人じゃないと、映画館でお金払っちゃだめ。そうじゃない人は、こうやってテレビをタダでみながら、ツッコミいれて、いちゃもんつけながら見ないと楽しめないよ」

 つっこみどころ満載でワイワイ楽しんだ。「小雪は、ミトコーモンの由美かおる位置なんだから、ここらで温泉入ってくれないとなあ」と、言ったとたん、小雪が温泉の前で髪を洗っている。そこへトム登場。「ほうらぁ、早く脱げ!」とつっこんであげているのに、小雪は品よく髪をふいて「もう、すみました」なんて、すましている。おお、スピリチュアルトム様、小雪とはライトキス1回のみでおわりました。

 カツモトの国元は、「吉野の国」となっていた。それで、トム様は、吉野=奈良、吉野ヶ里=佐賀、西郷出身地=鹿児島のどこをイメージしたのか、と推測しあったのだけれど、よくわからなかった。馬で駆け戻っていくところをみると、鹿児島じゃ遠すぎるよなあ、と思ったのだけれど、娘のいうように、「これはファンタジーなんだから、昔々、あるところで、で、いいんじゃないの」ということになった。

 日本人には、渡辺謙のカツモトが、1878年西南戦争のときの西郷隆盛をモデルにしていることはわかるのだけど、アメリカの観客にはいったい、カツモトはなにしようとしてたのかって思うだろう。大村ひとりを敵役にしても、ちょい、わかりにくかった。

 エンペラ・ムツヒトが、カツモトの刀を見たら日米和親条約締結をやめちまうってのもわかんなかったのだけれど、まあ、そんなことはよろしい。七之介のエンペラは、なかなかよろしかった。26歳くらいになっているはずのムツヒトが、線の細い優男型お公家風から、「帝国の生神様」になっていくあたりの雰囲気がでていたと思います。

 トムのイメージの中の「サムライの国、ニッポン」がどんなファンタジーとなって表現されているのか、田舎の光景や、剣術訓練のようすなんかは、よい絵になっていたと思うし、かってのアメリカ映画が描くサムライよりはよほどマシなんだけれど。

 どうにもこうにも、見たあとで娘いわく「2時間40分もの長さ放映して、これほどドラマのない、スカスカの映画もそうはない。コップ1杯の水にカルピス一滴たらして、はい、カルピスウォーターって差し出されたのと同じくらい、薄かった」
 うまいネッ。ざぶとん1枚。超薄いカルピスウォーター時代劇。飲んだあと、さわやかってわけにもいかないし。

2006/12/23
北の零年

 ロードショウ公開時に、招待券を3枚もらったけれど、招待券有効期間にながいこと娘とケンカしていて、ついにいっしょに見にいくことができなかった。
 ある日、娘がひとりで家からでかけていった。あっと気づいたときには、上映期間がおわっていた。招待券有効最終日に娘がひとりだけで見た映画。
 それで、なんだか気になって、いつかは見ようと思っていたので、テレビ放映されたので、娘息子といっしょに見た。

 静内町に移住させられた淡路稲田家の家臣団が苦労して開拓していく話。
  新聞連載しはじめたときは読んでいたが、途中で読まなくなったので、どんな話なのかも知らなかった。

 ただひたすら吉永小百合だけがりりしくしゃんとしていて、他のちょんまげ切った元オサムライたちは、しょうもないっていう映画。トヨエツの「元会津藩士、今はアイヌのアシリカ」が一番かっこいい。
 北海道開拓史の一端を知ることと、北海道の景色を楽しめれば、OK。

 吉永小百合の志乃が娘の多恵と雪のなかを歩いて、札幌の夫の元へ行こうとするシーン。こんな格好で雪のなかに出てきたってことは、雪中行軍心中をやる気なのかなあと思ったが、もしかして、ほんとうに札幌まで行く気だったのか。そりゃ、ないよ。とか、渡辺謙と夫婦役とは、年の差ありすぎって気もするが、とか、いろいろつっこみどころはあるのだが、サユリストはだまって、りりしい小百合サマが馬を扱う所など見てうっとりしていんしゃい。

 小百合さまが、映画のなかに十数年の年月が流れる間少しもふけもせずに、ラストシーンではりんとしてのたまわく「生きている限り、夢見る力がある限り、きっと何かが私たちを助けてくれる」セリフの上に、ポンと「文部科学省選定映画」というハンコが押されそうな、清く正しい映画だった。
 
 ひたすら耐えて夫を待ち続ける小百合さまのところに戻ってきた夫は、東京で新しい妻子と政府高級官僚という新しい身分を得ている。それで、「家を出ていってすぐに病気になっちゃって、治療のために東京へいくことになって、看病してくれた女性は政府高官の娘だったので、うんぬん、、、」と、言いわけする。

 ええい、見苦しいぞ、妻子を捨てて自分だけ安穏と暮らした男は、男の風上におけぬ。小百合様に「なぜ戻ってきた」となじられたら、恥じて切腹してもいいくらいじゃ。

 唯一、文部省選定っぽくない倉蔵(香川照之)が憎まれ役一手引き受け。それで、一番演技がうまくみえる。得したね。
 小百合さま、日本アカデミー賞を『三丁目の夕日』が総ざらえしたなか、主演女優賞を死守。でも、他の作品に比べ、そんなに上出来の演技ではなかった気がする。
 「被爆者芸者」の役とかだと、そこに小百合が立っているだけで、もう作品の雰囲気ができあがった気がするし、小百合以外のキャストは考えられなかったけれど、志乃は、他のだれかが演じても、作品の雰囲気はかわらなかったろうと思える。

 北海道開拓民は、運がいい。アイヌから奪った土地を自分のものにできた。
 静内町は、牧場経営に成功し、競走馬輩出の地となった。
  それにひきかえ、満州開拓民は、やっと開墾した土地に作物ができるかと思ったら、国に捨てられ、おおかたは死に、かろうじて生きて帰った人は、何もかも失い我が子をその地に捨てて逃避行を重ねた。

 ここに語られる「開拓民の苦労」に私が入り込めないのは、北海道へ行ったことがないのに比べ、旧満州に半年住み、残留孤児と知り合ったことがあるからかもしれない。
 厳しい冬の寒さやイナゴの襲来など、厄災を語られるたびに、そんでもあんたたち、満州開拓民に比べれば、運がいいよ、と思ってしまう。
 そんな映画の見方は邪道なんだろうけど。

 で、映画自体の出来として、「これはスターと北海道の景色をながめるための映画です」という以上の評価はむずかしい。



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