Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
| 2005 日付 |
タイトル |
監督 |
主演 |
| 01/12 |
AI |
スピルバーグ |
ハーレイ・ジョエル・オスメント |
| 03/29〜04/02 |
アビエイター |
M・スコセッシ |
レオナルド・デカプリオ |
| 03/11 |
猫の恩返し |
森田宏幸 |
|
| 03/19 |
あずみ |
北村龍平 |
上戸彩 |
| 04/22 |
紅の豚 |
宮崎駿 |
|
| 05/22 |
イブラヒムおじさんとコーランの花 |
フランソワ・デュペイロン |
オマー・シャリフ |
| 05/22 |
靴に恋して |
ラモン・サラサール |
アントニア・サン・ファン
ナイワ・ニムリ |
| 05/23 |
グリーンマイル |
フランク・ダラボン |
トム・ハンクス |
| 06/06 |
シルヴィア |
クリスティン・ジェフズ |
グウィネス・パストロウ |
| 06/06 |
君に読む物語 |
ニック・カサヴェテス |
ライアン・ゴズリング |
| 06/10 |
ジャズ大名 |
岡本喜八 |
古谷一行 |
| 06/10 |
ダイナマイトどんどん |
岡本喜八 |
菅原文太 |
| 06/18 |
モーターサイクルダイアリー |
ウォルター・サレス |
ガエル・ガルシア・ベルナル |
| 06/25 |
海猿 |
羽住英一郎 |
伊藤英明 |
| 06/27 |
四日間の奇蹟 |
佐々部清 |
吉岡秀隆 |
| 06/28 |
エレニの旅 |
テオ・アンゲロプロス |
アレクサンドラ・アイディニ
ニコス・プルサニディス |
| 07/11 |
サマリア |
キム・ギドク |
クァク・チミン |
| 07/11 |
パッチギ |
井筒和幸 |
塩谷瞬 沢尻エリカ |
| 08/13 |
シャルウィダンス |
ピ−ター・チェルソムー |
リチャード・ギア |
| 10/03 |
蝉しぐれ |
黒土三男 |
市川染五郎 |
| 10/17 |
ミリオンダラーベイビー |
クリント・イーストウッド |
ヒラリー・スワンク |
| 10/30 |
LOVERS |
張芸謀(チャン・イーモウ |
チャン・ツッイー 金城武 |
| 11/04 |
さよならさよならハリウッド |
ウディ・アレン |
ウディ・アレン |
| 11/04 |
ウィスキー |
ファン・パブロ・レベージャ |
アンドレス・パソス
ミレージャ・バスクアル |
| 11/19 |
フライダディフライ |
成島出 |
岡田准一 堤真一 |
| 12/03 |
ヴェラ・ドレイク |
マイク・リー |
イメルダ・スタウントン |
| 12/03 |
ラヴェンダーの咲く庭で |
チャールズ・ダンス |
ジュディ・デンチ
マギー・スミス |
| 12/27 |
皇帝ペンギン |
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| 12/27 |
大いなる休暇 |
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2005/01/12 水
夜、テレビ放映の「AI」を見た。
ブライアン・オールディスの短編「スーパートイズ」を原作としたSキューブリック原案、スピルバーグ脚本監督制作。
ワカの感想。氷河期の海に沈んだディビッドとテディベアが「そのまま2体はブルーフェアリーを待ち続けた。The end」のほうがよかった、エピローグは必要ない、という。もっともな感想ではある。
私は、SFおとぎ話なら、救いのないまま終わるより、無理矢理でもエピローグがあったほうがよいと思うが、このSF版ピノキオ物語、半分楽しめて半分後味悪い。
SF映画の画面作りとしては、ルージュタウンの描写、ジャンクフェアの描写などもととてもよくできていると思う。ストーリーは、SFオタク的整合性を求めるなら、破綻が多いのだが、これ、近未来の地球という設定にしたから悪いのだ。地球が舞台だと「アリエネー」というツッコミが入るので、思い切って、スターウォーズみたいに宇宙のどこかの星の話にしておいたらよかったんじゃないだろうか。スターウォーズだって、SFコアおたくに言わせると宇宙物理学からみて矛盾することは山ほどあるけど、皆文句言わずに楽しんで見ているもの。
ワカが、「いらない」いうエピローグ。髪の毛からクローン再生したモニカママ。脳内にディビッドの記憶装置の中にあったファイルを転写させた(らしい。そうでもしなくちゃ、髪の毛から記憶つきクローンが再生できない)
一日限りの命しかないママの胸の中で永遠の眠りにつくディビッド。それまでは「永久機関」的にエネルギー補給なしに動いていたのを、どうやったのかかわからないけれど停止できるようになったみたい。これも、「髪の毛からのクローン再生は無理だ」とかつっこミ入れる必要もない。おとぎ話はなんでもアリだ。
SF的整合性からいうと、わざわざクローン再生などさせる必要はない。ディビッドの記憶装置にちょちょいと細工してやれば、ディビッドの意識内では、「人間の子になれて、母と再会して永遠に仲良く暮しましたとさ、めでたしめでたし」というバーチャル世界を完了させて終わることもできた。
ソラリスのラストシーン。記憶の海のなかで、海が作り出した幻想の故郷の中にいる主人公を、ゆっくりとひいていくカメラで見せて終わるのは、秀逸だった。愛情の喪失と幻想による対象復活をいうなら、AIはソラリスを超えていない。
問題は中途半端に母子相互関係を捉えているシナリオにある。「母が子どもを愛するのは、子どもが母を慕うからだ」という一方的「母子相互関係観」しか持てなかったのは、スピルバーグにとって、「母への愛情」を子の立場から描くしかないからだろう。スピルバーグは母親になったことないから。
人間の側に「育てゲー」要素をいれなければダメって、たまごっち開発者ならずとも日本の観客はみんな知っているのに。アメリカの観客には、育てゲームが浸透していないのか。
「AI」は、何よりスーパー子役ハーレイ・ジョエル・オスメント(Haley Joel
Osment)の存在感を楽しむ映画だろう。
演じるハーレイの実年齢が撮影時12歳なので、ロボットディビッドの年齢設定もギリギリ10歳くらいの想定らしかったが、10歳の人間の坊やが、ひたすら「ママ、ママ」と、ママのあとをおっかけて、母の愛を得ることだけが目的で生きていたら、こまったチャンだ。5、6歳までの設定にしてほしかったけど、ちょうどいい子役いなかったんだろう。
スタンドバイミーのリバーフェニックやホームアローンのカルキンの轍をふむのかと心配していたオスメント君、『ウォルター少年と夏の休日』では及第点で大人の俳優へと脱皮できそうなので、めでたしめでたし。ただ、あの垂れ目童顔では、役柄が限られてしまうか?
ジュード・ローもすごいな。「ロードトゥパーティション」の殺し屋兼新聞写真記者と同じ人とは気づかなかった。
ロボット問題。ジゴロジョーにつき。どんなにハンサムで性能よく、最高の快楽を与えてくれるジゴロより、多少性能悪くても自分を唯一無二の存在として愛し抜く愛人ロボを女性は買うんじゃなかろうか。射精なしには快楽を得られない男と、ヨン様に幻想を投影すれば満足できる女のちがいか。
ディビッドにつき。母と子の愛情に関しても、男と女の愛情に関しても、まだまだ人工知能よりも人工無能のほうが、人間にとってはまともな存在になっている。
ディビッドは、多少はものまねによって人間らしさを学べるようにインプットされている。本物の息子マーティンのまねしてほうれん草食っただけで故障しちまうロボットは、欠陥品である。ドラエモンはドラヤキをのび太と競争して食っている。さすが22世紀制作のすぐれものだ。
胚芽細胞による再生医療とクローン技術は、あと50年でアンドロイドを作り出すだろう。それにしては、人間の側のアンドロイドへの意識が遅れている。そろそろアンドロイド倫理委員会で検討に入ってもいいころだ。
映画のシーンで言うなら、ディビッドにインプリンティングを行ったモニカは、マーティン回復によって、ディビッドを手元に置けなくなったのなら、ディビッドをきちんと廃棄処分すべきであった。飼えなくなったペットを山に捨てるような人は犬を飼うべきでないのと同じ、手元に置けなくなったロボットを捨ててはいけないと考えられるくらいの常識ある人に、未完成の試作品は貸与すべきなのだ。開発費用を考えるなら、モニカに貸し出すような杜撰な会社は早晩ぶっつぶれるだろう。
もっとも、開発者はボビー博士は、モニカがディビッドを捨てることまで計算ずくで貸し出したことになっている。ディビッドが自力でニューヨークまでたどり着く間に、プログラミングが進化することを計算して。自分のコピーをぶっこわすディビッドをみて、ロボットアイデンティティが進化したと賞賛するホビー博士。この人も、自分の息子なくしてトチ狂っちゃったひとり。
ディビッドが自己破壊を選択できるまでAIを進化させたとしても、ディビッドのような欠陥ロボットを作っておいて、得々としているホビー博士は大バカのマッドサイエンティストだ。大量生産されたらえらいこっちゃだった。その前に人類ほろびちゃったから、いいみたいだけど。
最後までディビッドを見捨てずに助けたジゴロジョーと、ディビッドを見守り続けたテディが一番ヒューマニスティックだった。ジョーがニューヨークで警察に捕まるときのセリフ「I am. I was. 」は、テレビの吹き替えでは「私は存在した」となっていた。ジョーは他者への自発的感情や愛着を自主的に育て、自己認識アイデンティティを獲得している。きっとジョーの種族は進化する。ラストエピローグの、未来人みたいなロボットみたいなのが、ジョー型ロボットの子孫であることがわかるエピソードが入っていたら納得なのに。
人工知能ロボットものをつくるには、最新の脳科学と発達心理学臨床心理学の成果が必要と思うのだけど、2005年から2000年制作2001年公開の映画を見ると、人工知能に関してもはや「古い」と感じさせるシナリオであった。
2005/03/28 月
渋谷に出て、『アビエイター』を見てかえる。雨だし、3時間の長編でデートコースに組み入れるには、不向きだし。うしろで見ていたカップル女の子は「イミワカンナイ」とツレに言い、男の子は「ぼくにはおもしろいんだけど」と、解説を始めてうるさいし。
ハワード・ヒューズの伝記を元にした作品。前評判は高かったのだが、アカデミー賞作品賞監督省主演男優賞を逃した。しかし、脚本賞美術賞衣裳メイク賞など2005年最多受賞の画面はみごたえあった。私にはおもしろかった。
少し気分もちなおす。
セレクト解説はこちら2005年に見た映画セレクト アビエイター&ウイスキー
2005/03/11 金
『猫の恩返し』を借りてきたので、ヒメワカといっしょに見た。光線の入り方や風のそよぎ方は、ジブリの手法をよく学んだ生徒さん、という感じがしたが、シナリオはあまり面白くなかった。ビデオ屋会員権の更新につき一本無料サービス券で借りたのだけれど、これ、お金払って劇場で見たのなら文句つけるかも。
2005/03/19 土
ヒメが漫画連載を読んでいてよかったというので、『あずみ』をみたが、オダギリジョーの殺人依存症みたいな白装束の男「美女丸」が不気味だったのが際だっていた他は、なんだか血糊がバンバン飛び散るだけの暗い画面で、気分が悪くなった。
原田芳雄演じるじいにそれほどのカリスマ性もないのに、幼いときから育て上げた子どもたちがひたすら「じい」の言うことをきいて、刺客に徹するところ、サリン10周年のときも時だから、いっそう哀れ。いっしょに育ってきた仲間とふたり組になり、その組を闘わせて生き残った方を刺客として連れて行くというじいに誰も反発もせず、疑問も感じず、兄弟のように育った相手の死にトラウマも受けずにじいに従うところが、冒頭からして感情移入できない原因。
あとの殺しは、もうどうでもいい。野武士同士が闘おうと、ラストに福島政則をしとめようと、最初に仲間を殺すところから、もう私には合わない話。
ただ一人、小橋賢治のヒューガが、好きになった八重を守ろうとして死ぬところだけが、唯一人間としての闘いであって、あとは、殺人マシーンだもの。
あずみ役には上戸彩の単調さ無表情さを押し通し、原作の「あずみの成長話」としての映画なら、物足りない演技だろうけど、映画は漫画とは別と考えれば、あの演技力なさかげんが、殺人マシンとしては合っていたのかもしれない。
それに、人間を人間と思わずに殺していく描写がイラクでの闘いとかぶるので、戦争とはこんなものなのだと若い人に教えるにはいいのかもしれない。
あずみは「何故殺す」「殺した相手は本当に平和な世のじゃまになる悪者だったのか」と、最初は悩むが、映画ではそれを深く追求するところへはいかない。仲間の死に出会う中、身を守るために相手を殺す刺客に徹していく。「使命」を全うせよとじいは教え込んだが、う〜ん、使命っていうものへの懐疑は、今も昔もあったろうに。洗脳はこわいってことか。
2005/04/22 金
『紅の豚』を見る。複葉機シーンなど、思う存分ジブリ空っぽい。
2005/05/20 金
ギンレイで『イブラヒムおじさんとコーランの花』『靴に恋して』を見て帰った。
『イブラヒムおじさんとコーランの花』は、パリのブルー街に住むユダヤ少年モモ(モイーズ)と向かいの食料品店を営むトルコ移民のイブラヒムの交流を描く。イブラヒムを演じるオマー・シャリフを見るための映画。トルコの風景もよかった。
ストーリーは、いまひとつ胸に響いてこなかった。モモは赤ん坊のころ母親に去られ、男手で育ててくれた父親からも愛されていない。父親は自分の書斎に引きこもり、職を解雇されると自殺してしまう。イブラヒムはモモの願いを受け入れ彼を養子にする。フランス人とトルコ移民、ユダヤ教とイスラム教という違いをこえて、ふたりの間に通い合う愛情がポイントなんだけど、イブラヒムのトルコ望郷も娼婦との交渉によって少年から脱皮しようとするモモの姿も、なんだかピンとこない。なぜかな。
1960年代のパリの光景、ビンテージの車(60年代には最新の)、懐かしのアメリカンポップス、フレンチポップス、こういうものに限りない郷愁を感じる人には、ピンときて、モモに感情移入出来るのかも知れない。
トルコの光景のなかで、モモがもっとイスラムの精神に触れ合うのかと思ったのに、そうでもなく、イブラヒムは馴れない車の運転であっけなく死亡。モモは食料品店を受け継いでつつましく商売を続ける。これだと、「親はいなくたって、親の愛情を受けられない子どもだって、だれか自分を認めてくれ愛してくれる人との出会いがあればめでたしめでたし、孤独な移民イブラヒムが死ぬ間際に愛情を注ぐ対象を得られてよかったね、みたいな「家無き子」ストーリーなんだけど。
モモがユダヤの教えとイスラムの違いに悩むこともなく、トルコの文化に心引かれることもなく、というストーリーがこれほど欧米社会で受けたってことは、それほどユダヤとイスラムが出会って仲良くなる話がめずらしいってことなのかもしれない。
宗教ちがったって文化ちがったって、仲良くなるさ、なんてのは、ユダヤ社会を内部に抱えておらず、イスラム社会との軋轢もない日本の脳天気な観客の見方かな。
エンドタイトルに流れる歌の歌詞に、この映画の主張が述べられているなんているレビューを見るとちょっとお怒りモード。映画の主張は、映画のラストシーンまでにすべて映像と音でしめせ。エンドタイトルに流れる歌は、歌であり、映画じゃない。
2005/05/22 日
イタリアのコメディかと思って見たら、スペインの「さまざまな女の生き方」を描いたものだった。どこの国にもよくある「女の人生いろいろ」だけど、エピソードがうまい具合につながっていて、おもしろかった。
アデラ=マドリッドに住んでいるが、バイクで郊外にある淫売宿へ通勤。自分はもう体を売る商売は卒業して、女達を仕切る方の仕事をしている。知的障害がある25歳の娘アニータを育てている。接待でやってきた高級官僚レオナルドに交際を申し込まれる。
アニータ=絵が好きで、毎朝の犬の散歩のほかは一日の大半を家の中で絵を描くことで過ごしている。世話係のホアキンは、看護士をめざす学生。アニータが飛行機にあこがれていることを知り、外の世界へ踏み出そうとしないアニータを空港見物に連れ出す。アニータが恋するホアキンの恋人はクン。バイセクシャルのクンは、元カノのレイレに新しい恋人が男だとは言えない。
レイレ=高級靴店の売り子をしながら、靴デザイナーをめざしている。5年間同棲したクンが自分を捨てて出ていったことに打ちひしがれている。店の靴を盗んでディスコで踊り、束の間の充足感を得る。唯一の理解者である同僚のハビエルはゲイ。
マリカルメン=レイレの継母。夫の長女レイレが家を出ていったあと、夫は急死。夫のタクシーを引き継いでいる。継子の次女ダニエラは空港掃除人の仕事を解雇され、薬物依存症。末っ子のビクトルはサッカーをしたいが、サッカー靴を買ってほしいと言い出せず長靴を履いている。
イザベル=レオナルドの妻。子がないまま夫との仲も冷え、浮気と万引きとブランド靴を買いあさることでむなしさを埋めている。
マルティナ=テレビの司会などをこなす女優。夫のDVを受けながらも夫から離れられない。
マリカルメンはずっと家においていた夫の遺灰をレイレといっしょにリスボンの海に撒く。レイレはリスボンで新しい生活をはじめる。イザベルは夫との離婚を決意する。それぞれが何かを捨て去ることで、新しい人生をめざす。
マドリッドの街とスペイン語の響きがとてもよかった。まったく映画の内容を知らず、イタリア映画だと思って見始めたので、最初は街がブエノスアイレスかと思った。イザベルの家の晩餐会で招待客が「階級の低い人たち」と自分たち上流のちがいを主張しているのを見て、あれ、アルゼンチンの上流階級も「階級差」を口にするのか、と思った。貧富の差はあれども階級差別はないと思ったので。スペインでは、王制にもどったあと、「爵位を持つ貴族階級」などが復活しているのだろうか。
2005/05/23 月
スティーブンキング原作。トム・ハンクス主演。癒しの力を持つジョン・コフィ。いかに1930年代の話とはいえ、彼が冤罪であったことへの異議申し立てがどこにもできないというのは、間違ったことだというやりきれない思いが残る。アメリカの裁判制度では、一度確定した刑を覆すことはできない、と聞いたことがある。でも、それってやっぱり間違っている。
ジョン自身が「世の中の苦しみ悲しみを全部引き受けて感じてしまう自分の力」に疲れ切り、平安な死の世界を望んでいたのだとしても、看守達が泣きながらも彼の電気椅子刑を実行することに、強い違和感を感じてしまう。
何の証拠もないとはいえ、ジョンを無実とわかっていながら、一言も彼の無実を表明せずに電気椅子刑を執行してしまった人々は、神の前で最後の審判を受けるときに、やっぱりつらい思いをしなければならないだろうなあ。
死に至る通路「グリーンマイル」は皆に平等にあり、みなその上を歩いているのだとしても、その路は、不公平であったり不正であったりしては納得できない。
キリスト教社会では、イエスのような癒しの力を持った人間が、イエスのように冤罪で死刑になることを、「神の意志」と受け止めることができるのかも知れないし、ジョン・コフィにイエスの再来のような気持ちを持てるのかも知れないけれど。ジーザス・クライストと、ジョン・コフィはおなじ「JC」のイニシャルであり、JCといえば、キリスト教徒にとっては、イエスを重ねるのだという。
看守ポールは、初期キリスト教伝道のパウロ。ねずみのミスタージングルスに芸を仕込んだデルの名はデ・ラ・クロー。デルはフランス語でメルシーなんていっていた。彼の名、英語ならthe cross。十字架だ。
寿命が1年から3年のねずみが60年以上も生き続けているというラストのミスタージングルスから考えると、ラストで108歳の元看守ポールはこれから先5000歳以上にも生き続けなければならない計算になる。映画では「死ねないポールの苦しみ」はラストシーンにもそんなに強調されていなくて、「108歳、わぁ、私も長生きしたいな」と、思っちゃうくらい。どうせのことなら、いっそ場面を未来に設定して、586歳とかだったら、ポールの死ねない苦しさがわかったかもしれない。
ヒメが「スピルバーグがこの映画で3回泣いたって言ったそうだから、見てみよう」というので、見たのだが、どうもジーザスの奇蹟と縁の薄い仏教徒には泣けない話だった。
2005/06/06 月
ギンレイでグウィネス・パストロウ主演『シルヴィア』とライアン・ゴズリング主演『君に読む物語』を見た。
005/06/10 金 岡本喜八
池袋新文芸座で、岡本喜八特集最終日を見た。
筒井康隆の『ジャズ大名』が今日上映されるのに気づいて、雨の中見に行ったのだ。原作読んで、ジャズ大名の音を聞いてみたかった。
漂着したアメリカ黒人に習って、大名家老お小姓牢番おはした女中も姫君も、みんなそろってジャズ狂い。大政奉還も薩長も「捨て置けすておけ」で、ジャムセッションしているうちに、時代は幕末から明治へとかわっている。ほんとにばかばかしいエネルギー放出で、「ええじゃないか」といっしょになって、「つついワールド」が音になっていた。う〜ん、こんなジャズ大名が本当にいたのなら、明治新政府がひたすら富国強兵領土拡張へと突っ走ることもなかったのかもしれないが。
6時から岡本みね子さんの舞台挨拶。2月9日に亡くなってから4ヶ月、涙ながらに観客へのお礼を言っていた。客席は前の回の人もこれから見る人もまじってほぼ満席だった。
6:30から『ダイナマイトどんどん』博多のヤクザたちが、抗争を「民主的」に納めるための野球試合をするというストーリー。9時まで2時間半。菅原文太主演。
これがまた、はちゃめちゃなエネルギー爆発でおもしろかった。途中ちょっともたつくので、ほんとはこの部分を刈り込んで2時間にまとめたほうがいいのだろうが。
「ニンキョー!!」と叫ぶ嵐寛寿郎の大親分、敵役親分の金子信雄、フランキー堺の元プロ選手傷痍軍人、岸田森の橋傳代貸、みんな死んでしまった。沖縄で強制労働させられているラストまで、ほんとみんな個性的。
カラーについて。フィルムが劣化して色が褪めているのか、戦後の雰囲気を出すためにセピア色がかって仕上げたのかがわからなかった。
岡本夫人、文芸座連盟のミニワンカップのおみやげつき。
2005/06/18 土
午後、ギンレイで『エターナル・サンシャイン』と『モーターサイクルダイアリー』を見た。
『エターナル〜』は、つらい記憶を消す商売の話。結局どんなつらい記憶でも記憶としておく価値があるってな話だったけれど、途中眠くなったから寝た。
『モーターサイクルダイアリー』は、チェ・ゲバラの若い頃の旅の話。南米大陸を最初はオートバイで、オートバイが壊れてからはヒッチハイクと徒歩で歩く話。
ゲバラはハンセン病の専門医をめざし、旅の途中でハンセン病隔離病院での研修も行う。チリの鉱山労働者の話とか、ロードムービー風に話がすすむ。
エンディングロールに、この旅で撮影された本物のチェの記念写真が数葉うつる。映画と同じくらいハンサムな若いエルネストの姿に、チェ・ファンだった私は大感激。
南米のチェ、アフガンのマスード、戦い続けて非業の死をとげる男が好きって、義経判官贔屓からの伝統的心情なのかな。
2005/06/25 土
『海猿』テレビ放映を、ヒメが見たいというので見た。
2005/06/27 月
6時すぎ、新宿紀伊国屋で待ち合わせて、ヒメと『四日間の奇蹟』を見た。老人福祉施設の看護師と、知的障害のある少女ピアニストの肉体と意識が交換する話。
かえりのエレベーターで、中年女性が「なによ、こんなベタな話。ピアノだって、ベッタベタな選曲で、これじゃ中学生レベル、いや、小学生レベルだっ」とガンガン怒っている。連れの男性は「いやあ、でも、景色がきれいだったから、いいしゃないか」とか、言ってフォロー。
たしかにストーリーはよくある肉体と魂とりかえっこだし、ピアニストは指を怪我する定石だし、吉岡秀隆の演技は、いつもの通りの表情とセリフ回し。どんな役柄を演じても「吉岡秀隆」が画面にいる。
「泣ける」なんていう前評判で見に行った人には「なんじゃこれ!」っていう人もいるのだろうけれど、タダ券もらって見て、原作にも映画にも何の期待もしていなかった私は、これはこれでいいんじゃないの、ってとこ。
学校の「映画観賞教室」などで上映するにはとてもよい内容だと思う。過激なラブシーンも暴力シーンもないし、心温まるおはなしだし。ベタなファンタジーが嫌いだって人にはすすめないが、見てソンした、無駄になった私の2時間を返せ、とまでは思わない。ただ券で楽しめた。でも、これ、1800円だして見たのなら、怒るな。
2005/06/28 火
午後、渋谷へ行って、ユーロスペースで『エレニの旅』を見た。
監督テオ・アンゲロプロス。字幕が池澤夏樹。
途中、映写機故障で、ずっと音声だけで映像が出ない部分などがあったし、前半寝たことこがあったので、ストーリーが理解できないところがあった。エレニの生んだ私生児の父親が誰なのかわからずに見ていたし、なぜ、エレニが投獄されたのか、途中の真っ暗画面の部分で説明されたようで、わからなかった。
ギリシャア悲劇のようなストーリー。ギリシャ現代史、そして音楽。長回しの画面づくり。印象的な画面が多かったが、なぜか感動は薄味だった。
だけど、こういう映画にお金払うのは納得。タダでも見ない映画、タダなら見る映画などあるなかで、これならお金払ってみてよい。
2005/07/11 月
飯田橋ギンレイでキム・ギドク『サマリア』と井筒和幸『パッチギ』を見た。
韓国映画『サマリア』ベネチア国際映画祭銀熊賞(監督賞)受賞作品。女子高校生の援助交際。女子高校生の父親警察官による、娘を買った客への復讐。娘を買った客を殺す父親も理解できなかったし。最後は父娘が湖に車ごと沈むのかと思ったら、そうじゃなかったし。
韓国映画で未成年の売春を扱ったところが画期的なのだろうが、私には、あまりあわなかった。体を男に与えることで仏教へ帰依させる聖娼婦パスミルダ、キリストに水を与えてキリストに帰依するサマリアの女。
第三章のタイトル「ソナタ」は、韓国の代表的な車の名前でもあるという。
『パッチギ』おもしろかった。京都を舞台に在日の朝鮮高校生とイムジン川を歌ったりするフォーク高校生たちの青春映画。井筒和幸監督。
一ヶ所だけ気になったシーン。ケンカの果て死んでしまうチェドキの家。掘っ建て小屋のような貧しい家。せまい入り口のためチェドキの柩が家の中にいれられない。アンソンたちは泣きながら、入り口を壊して柩をいれる。笹野の絞り出すような日本への恨(ハン)語り。涙さそうシーン。
60年代の在日の家庭には、このような貧しさも現実にあったとは思うが、それにしてもあの貧しさの中で、チェドキはアルバイトもしていないようで、よくも高校へ行けたなあと思う。当時、日本人の生活でも、東北などでは、金の卵として中卒で働きに出る時代だった。チェドキの家を貧しい小屋として描くのはいいのだが、高校の費用は誰がどのようにして出していたのか、気になったのだ。
チェドキの母親が「息子だけはなんとしてでも高校を出してやり、一人前にしてやらなければ」と思って進学させていたのなら、チェドキはケンカなんぞしている間もなく、母親を助けて働かにゃならぬだろうが。でも、若い人達が在日差別のこととか帰国船のこととか、この映画を通して知ることができたなら、結構なこと。
井筒監督のリズムがとてもよかった。60年代の青春のひとつが鮮やかに画面に定着している。
2005/08/13 土
ヒメと、『Shall we dance?』を見た。日本版周防正行監督の『シャルウィダンス?』のリメーク。日本版のほうが面白いというおおかたの評だが、アメリカ版もそれなりに面白かった。ギンレイの初日だから、混んでいるのかと思ったら、館内スキスキ。さすがお盆休みは、みんな東京脱出か。
| 微笑みに出逢う街角Between Strangers |
『微笑みに出逢う街角Between Strangers 』ソフィア・ローレン100作目という映画。夫カルロ・ポンティとの間に生まれた息子の監督デビュー作品でもある。
トロントの町。怪我をして車椅子生活となった元陸上選手ジョンとの褪めた結婚生活を続けているオリビアがローレン。食品スーパーでのパートで得た給与を、夫の年金とは別にしてへそくりしている。人生のすべてをあきらめきったような初老の生活感をよく出している。実生活では大富豪で、何不足ない生活をしているのだろうに、すごい演技だなあ。オリビアの唯一の楽しみは、スケッチブックに描く「夢のなかに出てくる像」幼いころは画家になりたかった。
ナタリア(ミラ・ソルヴィーノ)は、新進報道カメラマン。有名カメラマンの父親がプロデュースし、若くしてタイムの表紙を飾った。父は娘の将来のためにさらなる階段を用意する。しかしナタリアは報道写真を続けていく自信が持てないでいる。タイム表紙を飾ったのは、「爆撃を受けて死ぬ直前のアンゴラの幼女」
カメラを構え、シャッターを切る前に、女の子を家から連れだして逃げるべきだったのではないか、自分が報道カメラマンとしての階段を上ることを優先してしまえば、彼女の死を防げなかった自分を人として許せなくなるのではないか、という「報道か人助けか」というジャーナリストによくある悩みを抱えている。彼女が選んだのは「アンゴラへ行って子どもの世話をするボランティア」
報道を志す人に用意されている解答は「一枚の写真が千人の人を救う手だてになる」だ。私は、彼女が結局はこの「正解」を選ぶことになるのだろうと予測したから、予測が裏切られて、
キャサリン(デボラ・カーラ・アンガー)。世界中を演奏し、夫と幼い娘と別居中のチェリスト。幼い頃、父は母へ暴力をふるい、あげく母を死に至らしめて服役中。両親の不仲がトラウマとなって、娘を愛してやれない。父が服役を終えて、トロントへ戻ってきた。父は、ならず者に襲われた女性を救い、自分は殴り殺されてしまう。父の死によって、キャサリンは娘のところへ戻る決意をする。
トロントの町で擦れ違うこともあるけれど、まったく生活では関わりを持たない三人の人生が描かれ、最後にそれぞれが新しい旅立ちを決意して空港にきたとき、ひとつのテーブルに相席する。
同じ「ひとつの町に暮らす数人の女の生活と人生、再出発」を描いた映画、5月に見た『靴に恋して』と対比される。『靴〜』は、5人の女達が鎖のように互いにつながりあっている構成だったが、『微笑み〜』は、最後の空港シーンで三人が出逢う。オリビアがスケッチしている公園をナタリアが通りかかったり、すれ違いはあるけれど、関わりはない。だから、3人の物語同時進行がバラバラで、そのあたりは『めぐり逢う時間たち』みたい。『めぐり逢う〜』は、登場人物が関わり合うほうが、わかりやすくて好き。私の好みは『靴〜』『微笑み〜』『〜時間〜』の順
2005/10/03 月 蝉しぐれ
10月3日、池袋駅まで自転車で行く。映画「蝉しぐれ」みて、明治通りを通って帰宅。
2005/10/10 月 寺山映画
池袋新文芸座で『田園に死す』と『書を捨てよ町に出よう』を見た。寺山ワールドなつかしい気がしたが、『書を捨てよ〜』を見たのは初めてのような気がする。
<まっき〜bbs往復より>
83年5月4日に寺山が亡くなったとき、私は娘を実家で生んで、実家の元の自分の部屋で赤ん坊といっしょに寝ていました。
赤ん坊はこのとき「胎毒が出た」という状態だったらしく、髪の毛が全部抜け、顔には吹き出物ができて、『田園に死す』の中で、川に流される「まびき子」のようでした。
まびき子のまどう真昼野
修司死す(春庭)
たった今即興でひねった一句、うまいね!
死ぬ少し前、下町の路地を歩いていた寺山は、家の中をのぞき込んだ「不法侵入」のカドで訴えられたりの警察沙汰をおこしたことを思い出します。下町散歩の好奇心が強すぎただけであって、「のぞき」やったっていうニュアンスの新聞報道はちがうと思った。立件はされなかったと思う。
わたしにとって、寺山は第一に歌人でした。つぎに劇作家でした。
第三に寺山は、タモリによってその青森なまりをパロディとして模写されるネタでした。
演劇に関しては「天井桟敷」の同時代に生まれて、リアルタイムで劇を見ることができたことを、喜ぶ者です。
中学校の演劇部を指導していたとき、演劇部員だった教え子が、寺山に抜擢され、『中国人の不思議な役人』に出演した。
フリークが大好きだった寺山は、彼女の異常にガリガリにやせた体に対して、「ぜったいに太るな」と釘をさしたのだって。太る場合なら、『田園〜』のなかの春野ますみが演じた風船女みたいに小錦より太く太ればいいんですけど。フツーはダメ。
2005-10-11 20:09:55 | ページのトップへ |
寺山の映画
haruniwa
映画作家としては、評価したいと思ったことが有りませんでした。たぶん、『田園に死す』を見た頃、このような表現の方法をこそばゆく感じるような気分が自分にあったのだろうと思います。
それで、寺山が死んでから一度も映画を見直したことはなかったのです。まっき〜さんが言うように
>
パンクがもはやパロディにしか成り得ないように、アヴァンギャルドと呼ばれる表現も、もはやパロディだ
としか感じられない時代でしたからね。
数年前にビデオで『上海異人娼婦館/チャイナドール」(1981年)』を見て、ああ、機会があったら、寺山の映画、劇場で見たいなあと思っていました。
池袋新文芸座でやっていたので、10/10、雨の中、見にいってきました。
映画の細部などまったく忘れていて、ところどころの画面で、あ、このシーン見たよな、とおもいだすくらい。
『田園〜』のなかの短歌朗読は、寺山自身の声らしい青森なまりのアクセントであるのが、とてもいい感じ。
最後の1971年の東京の町のシーンが、30年以上たってみると、すごくなつかしいので、自分の感じ方がおかしかった。
そして、『書を捨てよ〜』は、初めてみたの。
エンディングロールに、クレジットがでないで、役者スタッフ全員の顔が延々と続いて、最後に寺山の顔と美輪明宏が映った。あの、照れたような斜めから視線をなげる寺山の顔なつかしかった。
寺山修司、46歳の死は早かったけれど、早世は伝説のモト。
2003年10月に詠んだ、寺山修司オマージュの春庭の句です。
我も手に釘打ちぬいてみる修司の忌(春庭)
2005-10-11 20:10:01 | ページのトップへ |
2005/10/17 月
ヒメと『ミリオンダラーベイビー』を見た。女ロッキーみたいな話かと思っていたので、ラストシーン安楽死にふたりともショック。カソリック信者が安楽死を肯定するっていう結末に、とっても複雑。
マギーは、拳闘協会の保険によって病院で手当をうけるが、その病院は、寝たきりの病人の介護ひとつまともにできず、褥創を作ってしまうような、程度の低い病院。あげく、足は壊疽にして切断。なんてひどい病院。マギーにとって父がわりだったフランキーは、アイルランド詩人の詩集を読みこなすくらいインテリなのに、マギーの病気について、何一つ学ぼうとせず、みすみすマギーの状態を悪くしてしまい、あげく安楽死。
カソリック教義の神と死について、どれほどの葛藤があろうと、こういう状態で死なせて欲しくない。マギーは生き続けていくべきだった。クリントイーストウッドは短編原作をいくつか組み合わせた脚本を採用したのだというけれど、もとの原作が死で終わるとしても、脚本はせめて、マギーの車椅子を押して、フランキーがレモンパイの店へ向かうシーンなんかで終わって欲しかった。
2005/11/04 金
飯田橋ギンレイで『ウィスキー』と『さよならさよならハリウッド』を見た。
ウディ・アレンの『ハリウッド・エンディング』笑えたけど、心因性で目が見えなくなった落ち目映画監督が巻き起こすドタバタ喜劇。ラストは、ハリウッドの昔の映画みたいな、とってつけたようなハッピーエンドってとこが、アレン流の皮肉なのかもしれないけど、老いた感じのアレンが寂しい。
2005/11/04
セレクト解説はこちら2005年に見た映画セレクト アビエイター&ウイスキー
2005/11/19
娘に嫌われたくない中年お父さんのためのファンタジー。
岡田准一カッコよすぎ。リアリティはないけどおもしろかった。
2005/12/03
一番強く感じたのは、イギリスの階級社会の不平等について。堕胎も下層階級の女がやれば犯罪で、上流の娘がうまいこと金で解決すれば「やむを得ない措置」で、終わる。
もちろん、そんな階級社会を告発するための映画じゃないんだけど、そこが一番強く感じられたところなので。
2005/12/03
やはりイギリスの階層社会が印象に残った。たぶん、そういう気分の日に見た映画だったからだろう。マギースミスのジャネット、ジュディ・デンチのアーシュラの演技のうまさとか、何より、はっきりと階級がわかれている社会の抑圧感が残る。
たぶん、日本がはっきりした階層社会になったとき、下層でうめくしかない自分たちの将来がどんより重いからだろう。
2005/12/30 金 00:06
皇帝の行進
忘年会もそろそろおひらきになり、正月を迎える支度に忙しい時期ですね。
我が家は、娘息子といっしょに映画を見て「年忘れ」にしました。
年忘れの映画なんだから、深刻だったり悲劇的ラストだったりではなく、ほのぼの母子で楽しめそうな映画、ということで『皇帝ペンギン』を見ました。原題は『La Marche de L'empereur (The March of Emperer)=皇帝の行進』
氷の上ですべってコケるペンギン君に思わず笑ったり、ペンギンの赤ちゃんをねらう猛禽にはらはらしたり、ペンギンの夫婦愛や親子愛にしんみりしたり。
南極の白い大陸と氷山浮かぶ海がほんとうに美しく、詩的な光景だった。
白い世界を、どこまでも続くように一列になって、ペンギンが行進する。100km先にある営巣地まで、20日かけて、南極大陸のあちこちから、行進が始まり、ほぼ同じ日に営巣地に集合する。
数千羽の皇帝ペンギン、人間からみるとどの顔も同じに見えるけれど、ペンギン同士は区別ができるのだろう、ちゃんとなじみの顔を探し出し、去年のパートナーとめぐり逢う。
メスの数のほうが多いため、新カップル誕生には、悶着も起る。カップルが決まり、求愛ダンスがはじまる。愛の交歓を経て、大きな卵が産まれた。
卵は足の上におかれ、親のお腹の暖かい羽毛に包まれる。母ペンギンは、卵を父の足の上に移し、20日かけて海まで戻る。
父は飢えに耐えながら、卵の孵化と妻の帰りをひたすら待っている。ブリザード吹き荒れ、夜が100日続く。
雛が生まれても、餌を体内にため込んだ母ペンギンが戻るのが遅れると、雛は育てられない。母ペンギンは、生まれた雛を父からバトンタッチし、父ペンギンが海へ餌を取りに行く。
雛は母や父から餌をもらい、しだいに大きくなっていく。よちよと歩くペンギン赤ちゃん、とてもかわいらしい。
娘は動物大好きで、「どうぶつ奇想天外」とか、「地球ふしぎ大自然」などもよく見ていた。映画やテレビを見るときは「完全同化主義」、主人公になりきって見るのだ。
娘は、「やだ、自分のことペンギンだと思い込んで見ていたのは、私だけだったみたい。私ひとりで、ペンギンが襲われそうになると、キャア食われたらどうしようって心配して、吹雪のシーンではすごく寒くなって。まわりの人はみんなクールに見ているのに。ペンギンの映画見ているとき、私は自分がペンギンになっちゃうんだよ」と、言う。
息子は「皇帝ペンギンの生態を動物学的にはぜんぜん説明しようとせずに、ひたすら親子愛とか光景の美しさを徹底して撮る。
こういうのもありっちゃありだけど、動物ドキュメンタリー撮るなら動物の生態をきちんと報告して欲しいって思う人には、こういう撮り方はいやだろうな。
擬人化ペンギンに感情移入できる人にはおもしろい映画だと思うけど。ま、ペンギンのこと知らない人にはこれでいいんじゃないの」とクールな見方。
ヒナのために餌をとる母ペンギンに、アザラシが牙むき出して襲いかかるシーン、娘は「食われちゃったらどうしようって、ハラハラした」という見方だし、息子は「あのアザラシは、動物園育ち。または動物プロダクションのスター。あざらしシーンは別撮りだろうね」と、言うんです。
私は、2時間楽しかったです。南極の営巣地は何カ所くらいあるのか、とか、ペンギン個体数は減少しているのか増えているのか、とか、どうやってほかの個体と区別して去年のパートナーにめぐり逢うのか、とか、いろいろ知りたいことは出てきたが、それはきっとほかのペンギン本を見れば、わかるだろうから、この映画はひたすら美しくてよい映画でした。
厳しい冬の寒さの中で子育てを続け、雛を守るために必死のペンギンを見て、まあ、すきま風くらいでネをあげちゃいけないなあ、と思いながら今年を締めくくることができてよかったよかった。よい「年忘れ」に、なりました。
皇帝の行進、とはいかないけれど、庶民のひと足、一歩一歩、前へ向かっていきたいです。
2005/12/27
カナダケベック州のフランス語映画。
ケベック州の小さな島。漁の不振で島中の人々は生活保護で暮らし、働くことの誇り、生きる意欲を失い書けている。島の村長は、工場を誘致して働く場を作り出そうと必死。
工場誘致には条件がある。人口が220人以上あること。島に医者が常住していること。
島に医者を常住させるために、島中が一丸となって作戦を練る。都会から島にやってきた医者の周囲で、爆笑連続の事件がおこる。
楽しく笑えて、悪人はひとりも出てこないコメディ。年忘れに笑うにはもってこいだった。

