芸術学とギリシア陶器

美術品としてのギリシア陶器の価値は、何よりもその美しさと多様さにあるでしょう。もちろん、すべての陶器が優れているわけではなく、像の描かれた陶器は当時使用された陶器のほんの一部であって、素焼きの土器や黒く塗りつぶしただけのものがほとんどでした。また像の描かれたものでも美術品と呼べる高い品質を誇るものは僅かで、そのほとんどは雑であったり、優れた先輩の作品を模倣しただけの個性のないものだったりというのが実状です。しかしその僅かな優秀な作品は海外ではまさに一級の美術品として扱われ、近年では赤像式初期の陶器をメトロポリタン美術館が陶器としては破格の値段で落札しています。

年代を追ってギリシア陶器を見ていくと、その発展過程を理解することができます。紀元前9から8世紀頃の幾何学様式時代後期に初めて登場した人物像は小さく、シルエットのみで描かれたもので、表情もなく、極めてシンプルなものでした。それが黒像式の誕生によって表情が生まれ、装飾もより繊細なものになりました。さらには人体の構造をより正確に捉えようとする努力がなされ、ぎこちない姿勢から自由なポーズへと発展しました。赤像式の誕生によってもっと自由な描写が可能になり、筋肉や衣服のひだまでが丁寧に描かれ、それまで顔は常に横向きで描かれていたのが正面や斜め前を向いたものまでが試みられました(そのほとんどはあまりうまくいっているとはいえないものでしたが)。
赤像式の誕生後、特にアテネでは壁画が盛んになり、様々な公共建築の壁面を飾っていました。画面構成はより複雑で、様々な色彩が用いられていたことが古代の歴史家の記述によって明らかになっています。そして陶器画もその影響を強く受けるようになっていきました。その結果壁画の一部を切り取って張り付けたような印象の陶器が目立つようになり、壁画に用いられたとされる遠近法なども取り入れられて技術的には向上していながら雑な作品が多くなり、美術としては二流に成り下がってしまいます。
ただその中にあっても、葬礼用に用いられた、地を白で塗りつぶして輪郭線によって像を描く白地レキュトスなどは美術品としての価値を保持するものでした。紀元前四世紀の前半を最後にアテネでは像を描く陶器は生産されなくなりますが、南イタリアやシチリアへ移住したギリシア人たちによってこれを模倣した作品が制作されました。しかしそれらも四世紀末には製作されなくなり、またその品質もアテネのものには及ばないものでした。
先に述べた壁画は現在すべて失われましたが、その影響はエトルリアの墳墓の壁画やポンペイの壁画に残されているといわれ、いうなれば西洋絵画史の始まりに位置しているわけです。そのためにギリシア陶器を研究することは、失われた壁画の復元に役立つというだけではなく、西洋絵画の始まりを探ることにもなるわけで、ギリシア陶器が単なる工芸品では片づけられない理由の一つとなっています。