3 - 2 - 1 南イタリアの赤像式(概説)

 六世紀の前半にエーゲ海の制海権を勝ち取ったことによってコリントス式陶器を打ち負かし市場を独占したアテネの陶器は以後百年以上もの間その支配を続けていたが、五世紀の後半になると南イタリアのギリシア植民都市においてアッティカの赤像式陶器を模倣した陶器が生産されるようになった[1]。その原因としては、アテネとペロポネソス同盟との長く苦しい戦いと、それに伴う貧困によってアテネの陶工あるいは画家たちがこれらの都市に移民したためではないかと考えられている[2]

これによってアッティカ陶器はその重要な市場であったイタリアあるいはイベリアなど地中海西岸地域の市場を失い、黒海沿岸地域に市場を求めざるを得なくなった。一方で南イタリアではますます生産が盛んになっていったが、その生産地はイタリア半島の爪先にあたるルカニア、踵にあたるアプリア、すねの部分のカンパニア、ルカニアとカンパニアとの中間に位置するパエストゥム、そしてシチリア島であった。これらは大きくルカニアとアプリア、カンパニアとパエストゥム及びシチリアとに分けられ、四世紀の半ば頃からはアプリア式が盛んになってほかの地域に強い影響を与えるようになる。

[1] 南イタリアの陶器については、Trendall, A. D., South Italian vase-painting, (1966), Trendall, A. D., The red-figure vases of Southern Italy and Sicily, (1989), Mayo, M. E., The art of South Italy: vases from Magna Graecia, (1982)参照。
[2] アテナイからの陶工の移民の問題については、MacDonald, B. R., "The emigration of potter from Athens in the late fifth century B.C. and its effect on the Attic pottery industry", AJA 85, pp.159-168参照。