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初期ルカニア式

 南イタリアで最初に赤像式陶器が生産されたのがルカニアである[1]。その最初の画家と考えられているのがピスティッチの画家(Pisticci Painter)で、アプリアに近い都市メタポントの西に位置する、その工房があったと思われる街の名前から名付けられている。彼の陶器はアッティカ式陶器とほとんど区別がつかないほど似通っており、その様式がポリュグノトスやそのグループなどと近いことから初期の作品は430年代に製作されたと考えられている。

 アッティカ式との違いは衣服の描写にあらわれており、特にしばしば裏面に描かれる外套をまとう若者の像で区別がつく。またアッティカ式に比べて光沢がなく、鈍い色彩であることも特徴といえる。その画題はアッティカ式に頻繁に描かれた女性を追いかける神のほか、アッティカ式には見られないラオコオンの死の場面が描かれるなど独自の解釈もあらわれている。

 彼よりやや若い人物としてキュクロプスの画家(Cyclopus Painter)があり、その名前の由来となっている陶器には一つ目の巨人キュクロプスとその目を潰そうとするオデュッセウスとその仲間のほかにサテュロスが描かれていることから、彼が当時上演されていたサテュロス劇を題材としたのではないかと考えられ、南イタリア陶器と演劇との密接な関係が既にこの時代にあらわれている。

 初期のルカニア式において最も重要なのがアミュコスの画家(Amykos Painter)で、彼もピスティッチの画家に学んだと考えられるが、彼に同定されている陶器は二百を越える。その初期には師匠の様式が色濃くあらわれているが、この頃に登場したアプリア式の影響も見られるようになり、既にアッティカ式との様式的違いは明白になっている。また大型の陶器を好むようになって、ネストリスと呼ばれるアッティカにはない器形まで用いている。

 これは球形に近い胴部の左右につく水平の把手の上に垂直の把手がついたもので、その用途は陶器画からオイノコエのように酒を注ぐものであったと考えられる。彼の平凡な作品の多くは外套をまとう若者や女性などを描いたものだが、優れた作品ではアミュコスを罰するディオスクウロイなどやはりアッティカ式には見られない画題にもチャレンジしている。

 彼の後継者として挙げられるのがパレルモの画家(Palermo Painter)、カルネイアの画家(Karneia Painter)、ポリコロの画家(Policoro Painter)の三人で、P.K.P.グループとも呼ばれる。パレルモの画家は師匠に最も近い様式を持ち、正面を向く人物を描くのを好んだ。カルネイアの画家は最も優れた画家であり、特に衣服の描写に対してかなりの注意を払い、細かな装飾を加えている。ポリコロの画家はやや斜めを向いた顔を描くことを好み、その表情はほかの二人に比べてグロテスクな印象を受ける。また彼はサルペドンの死やメデイアの復讐といったエウリピデスの悲劇を題材にしたと思われる作品が多いことも特徴といえる。

ルカニア式

 P.K.P.グループに遅れて登場したのがアナバテスの画家(Anabates Painter)、クレウサの画家(Creusa Painter)、ドロンの画家(Dolon Painter)で、彼らもアミュコスの画家の影響が強かったが、アプリア式からの影響がさらに明確になってもいた。アナバテスの画家の特徴は堅く閉じた口の描写と裏面に描かれる若者の外套の黒い縁の描写である。クレウサの画家は多作で、その様式の発展をたどることができるが、活動の後期になると雑な描写が目立つようになる。

 彼の特徴は裏面に描かれた二本線の装飾を持つペプロスをまとう女性や、腰に手を当てた裸の青年などである。画題は風俗画が多く、神話を描く場合も従来からのテーマを繰り返すのみであった。ドロンの画家はアプリア式とのつながりが最も深く、アプリア式の生産地であったタラントで活動したことがあったのではないかとも考えられている。彼の人物像は頭が大きく、正面に描かれた人物の衣服はしばしば懲りすぎの傾向が見られる。

 彼らとほぼ同じ時代で、同じくアミュコスの画家の影響を受けた画家がブルックリン・ブダペストの画家(Brooklyn-Budapest Painter)だが、アプリア式の影響も強く、当初はアプリア式だと考えられたほどであった。彼の人物像は頭が小さく、裏面の若者は腹が出っ張り、腕を怪我したときのように布で腕を吊っているのが特徴である。画題はディオニュソス関連のものや風俗画などが多いが、のちの時代になると複雑な構成のものを好み、ネストリスにもしばしば描いている。彼に近い様式を持つのがシドニーの画家(Sydney Painter)であるが、彼はルカニアで活動したのちにパエストゥムに移住したのではないかと考えられている。

 先の三人の画家やブルックリン・ブダペストの画家の後継者がコエフォロイの画家(Choephoroi Painter)で、ほつれた髪や見開いた目、懲り過ぎともいえる衣服の描写が特徴である。この頃、つまり四世紀後半にはそれまでルカニア式の中心地であったメタポントでの生産は廃れ、その中心はアルメントやロッカノーヴァなど内陸地方に移ったが、その品質は急速に低下していった。

 こうした後期ルカニア式を代表するのがロッカノーヴァの画家(Roccanova Painter)、ナポリ1959の画家(Painter of Naples 1959)、プリマトの画家(Primato Painter)の三人である。ロッカノーヴァの画家の作品にはブルックリン・ブダペストの画家とともにアプリア式のプレーンスタイルからの影響がうかがえるが、その画題は風俗画がほとんどであった。彼の用いた陶器の陶土は淡い色彩にしか焼成されないためにピンクや赤の上塗りが施されている。彼の装飾の特徴はしばしば円錐形の花の文様が用いられることで、アプリア式には見られないものであった。

 彼と同じくルカニアとアプリアとの影響を受けたのがナポリ1959の画家であるが、その陶器がロッカノーヴァの画家のものとは異なりオレンジ色に焼成されていることからその生産地が異なることが考えられ、アンツィやアルメントが候補に挙がっているが確証はない。その特徴は重く丸いあご、大きな目、開いた口とかなり小さな上唇などである。プリマトの画家はルカニア式の重要な画家としては最後の人物で、その作品は250を越える。特にその初期の段階ではアプリア式のリュクルゴスの画家からの影響が強く、ルカニアで活動する以前にこの画家のもとで働いていたのではないかと考えられている。

 しかし後の作品は雑な描写のものが多くなり、彼以降の画家はもはや見るべきところのないものとなっている。彼の特徴はアプリア式の影響からナイスコスなどの建築物を好んで描いたこと、精巧な植物文やメアンダー文を用いたこと、神話の描写を好んだことなどが挙げられる。また彼の劣った作品は女性の頭部のみを描いたものだが、これを模倣した彼の後継者の作品はもはや美術とはかけ離れたもので、320年頃にはその作品でさえ姿を消し、百年あまり続いたルカニア式は幕を閉じた。

[1] ルカニアの陶器については、Trendall, A. D., The red-figure vases of Lucania, Campania and Sicily, (1967 and the first, second and third supplements, 1970, 1973 and 1983)参照。
[2] ネストリスとその起源については、Schneider-Hermann, G., Red-figured Lucanian and Apulian Nestrides and their Ancestors, (1980)参照。