初期アプリア式
アプリア式陶器の生産はルカニア式に僅かに遅れてアプリア南部のタラントで始まったが、その様式は既にルカニア式とは異なるものであった[1]。それは特に画題の選択において顕著で、ルカニア式が風俗画や神による追走の場面などを好んだのに対し、アプリア式では神話の描写が好まれた。アプリア式最初の画家はベルリン・ダンシングガールの画家(Berlin
Dancing Girl Painter)で、その初期の作品にはアッティカ式の影響が強いが、次第に独自の様式を生み出していった。彼の描く人物は厳格な印象を持ち、顔は痩せている。また様々な神話の場面を好んだが、その登場人物の多くには銘が添えられている。
彼よりやや年少で初期アプリア式において重要な画家がシシュフォスの画家(Sisyphos
Painer)で、ヴォルトクラテルなど大型陶器に二段の画面を配することを好んだ。また彼はオスカンと呼ばれる、装飾豊かな土着民の衣服を描いた最初の画家でもあった。ベルクラテルなどの裏面には全身に外套をまとった若者たちが頻繁に描かれたが、後期の作品の描写は雑になった。
彼の作品はアッティカ式のコドロスの画家やポリオンとの結びつきが強く、その活動は420年頃から四世紀初頭に当てはめられる。ベルリン・ダンシングガールの画家の作品とシシュフォスの画家の作品を比較すると、既にこの時代において後のアプリア式を代表する二つの様式の起源があらわれていることがわかる。前者の作品の多くはベルクラテルで、人物の構成は単純であり、付加的な色彩も少なく装飾も簡素であって、後の「プレーンスタイル(Plain
Style)」の先駆けとなっていることがわかる。
一方後者の作品にはヴォルトクラテルなど大型のものが多く、構成も複雑で、多用な色彩が用いられるとともに装飾も派手なものが多く、後の「オーネイトスタイル(Ornate
Style)」の先駆けとなっている。しばらくの間はプレーンスタイルが優勢だったが、370年頃からはオーネイトスタイルが一般的になった。それでもプレーンスタイルが消滅したわけではなく、この二つの様式はアプリア式の消滅まで存在し続けた。
プレーンスタイルはハーストの画家(Hearst Painter)に、オーネイトスタイルはアリアドネの画家(Ariadne
Painter)やグラヴィーナの画家(Gravina Painter)に引き継がれたが、後者の様式の中で重要なのがディオニュソス誕生の画家(Birth
of Dionysos Painter)であった。彼はヴォルトクラテルを好んだが、シシュフォスの画家のものが下膨れであったのに対し、彼のものは卵形で、後の時代の標準となった。彼は複雑な画面構成を用いただけでなく、特に神殿などの建築物を描く際に短縮画法や遠近法を用いている。後期の作品には白や黄色、茶色など様々な色彩が用いられる一方、特に四分の三正面を向いた人物の顔の描写などは雑になっていく傾向が見られた。
アプリア式
初期プレーンスタイル
描写はシシュフォスの画家に学んだがプレーンスタイルを好んだのがタルポルレイの画家(Tarporley
Painter)で、その特徴は細かく描かれた衣服とやや下を向いた卵形の頭部であり、画面の中に蔦などの植物や岩などを描くことを好んだ。彼はベルクラテルを好み、ディオニュソス関連や演劇の場面を頻繁に描いた。また彼はこの後頻繁に描かれるようになる喜劇役者(Phlyax)を描いた最初の画家でもあった[2]。
彼の作品とルカニア式のドロンの画家の作品には類似点が多く、後者が彼のもとで学んだことが予想されている。彼の後継者は数多く、大きく三つのグループに分類される。そのいずれも正面にはディオニュソス関連のものや演劇、風俗画などが好まれ、裏面はほぼ普遍的に外套をまとう若者が描かれている。
最初のグループはフリュアクスの場面を好み、シラーの画家(Schiller
Painter)やアドルフゼックの画家(Adolphseck Painter)などがいた。ロング・オーヴァーフォールスの画家(Long
Overfalls Painter)は最も多作で、裾の長いペプロスをまとう女性が特徴であった。彼らの後継者としてヨークグループ(York
Group)とエウメニデスグループ(Eumenides Group)があり、特に後者はプレーンスタイルとオーネイトスタイルの中間的な位置に立つグループであった。
第二のグループはホッピンの画家(Hoppin Painter)やトゥルローの画家(Truro
Painter)およびレッチェの画家(Lecce Painter)によって代表される。ホッピンの画家の描写の特徴は破線で描かれた衣服の襞で、裏面の若者の衣服にはしばしば卍型の文様が施される。トゥルローの画家の衣服の襞は多数の短い線によって表現される。レッチェの画家の描く人物は下太りで頭が大きく、しばしば下を向いている。また彼はほかの二人が静的な場面を好んだのに対し動的な場面を描いている。彼らの後継者であるロハンの画家(Rohan
Painter)やイリスの画家(Iris Painter)は特に目や衣服の描写が雑になる傾向が見られた。
第三のグループはタルポルレイの画家の後期の作品と近い様式を持つカールスルーエB9の画家(Karlsruhe
B9 Painter)と、後のオーネイトスタイルを代表するイリウペルシスの画家(Ilioupersis
Painter)との関係がうかがえるディジョンの画家(Dijon
Painter)が中心となる。前者はアプリア式に初めてリュトンとパテラの形式を導入したが、画題は平凡なものであった。その描写は簡素で、柔和な表情が特徴といえる。また裏面の若者が描かれる場面の背景にはしばしば幅跳び用の重りが吊り下げられ、窓のようなものが描かれるようになるが、これらは後の時代まで引き継がれた。
ディジョンの画家はその初期の描写においてはカールスルーエB9の画家の影響が強かったが、その画題の幅は彼のほうが広い。彼の特徴は裏面に描かれる若者にあり、右を向く人物はしばしば手を衣服の中に隠す一方、左を向く人物は右手を左に差し出す姿で描かれた。彼らの後継者であるグラーツの画家(Graz
Painter)は裏面の若者を裸に描くことを好んだ。
プレーンスタイルの次の世代としてはロング・オーヴァーフォールスの画家の影響が強い審判の画家や、レッチェの画家の後期の作品を思わせる描写のテュルソスの画家(Tyrsos
Painter)などがいたが、その描写は雑になり、プレーンスタイルは活発になったオーネイトスタイルに圧迫される格好になった。
オーネイトスタイルの発展
四世紀初頭のオーネイトスタイルの作品はプレーンスタイルの流行に圧され、ディオニュソス誕生の画家の後継者の作品は現存する数が極めて少ない。しかしその中でもブラック・ヒューリーグループ(Black
Fury Group)は優れていて、プリアモス王を描いた断片などはアプリア式の中でも最高水準の技術と丁寧さがうかがえる傑作である。こうした初期のオーネイトスタイルと後にあらわれるイリウペルシスの画家との間の時代に位置するのがフェルトンの画家(Felton
Painter)である。彼の描いた大型陶器では色彩が多用され、二段の構図が用いられるなど典型的なオーネイトスタイルだが、彼はオイノコエなどの小型の陶器も好み、喜劇の場面や小人などを描いている。
オーネイトスタイルを確立した画家であり、後のアプリア式に強い影響を残したのがイリウペルシスの画家(Ilioupersis
Painter)で、彼の登場を境にアプリア式は中期の段階に入る。彼はこれまでオーネイトスタイルで用いられていた白や黄色に加えて様々な明度の赤、茶色を導入し、遠近法や短縮画法をこれまでよりも正確に用いた。また神話の場面などを頻繁に取り入れて画題の幅を大きく広げた。
ヴォルトクラテルの頚部などの二次的な画面にはこれまで動物などが描かれていたのを女性の頭部に変え、画面をそれまでの二段からしばしば三段の構図を用い、渦巻状の把手の部分に浮彫状のメドゥーサの頭部を張り付けた。さらに死者を題材とする陶器では正面にナイスコスを、裏面に墓碑を描いたが、以上のような改革は後のアプリア式に長く引き継がれるとともにアプリア式の特徴ともなった[3]。
彼は多作の画家であり、百点以上が彼に同定されている。描写そのものはディジョンの画家の影響が見られ、彼の描く女性は長いペプロスをまとい、腰のあたりを黒い紐で結び、髪は長くカールしていて、胸は大きく、しばしば爪先で立つというのが特徴であった。
彼の後継者は多いが、ほぼ同年代の画家の中で重要なのがアテネ1714の画家(Athens
1714 Painter)で、彼はプレーンスタイルとオーネイトスタイルの両方を試み、前者ではU字型に描かれた衣服の襞が特徴である。またこの時代には後のアプリア式で頻繁に描かれるアカンサスなどの派手な植物文様が登場している。
次の世代のリュクルゴスの画家(Lycrugos Painter)とその後継者たちによってアプリア式は一つの頂点を迎える。彼は画面を広げて構成をさらに複雑なものとするとともに、遠近法や像の重なり、奥行き表現などに深い注意を払っている。画題としては正面に神話や演劇の場面を、裏面に葬儀の場面を描くことが多い。
その人物像はしばしば四分の三正面向きの顔で描かれ、やや首を傾げ、全体的にマンネリ化したポーズを取る。頚部の画面に対しては、初期には古い伝統に従って動物などを描いていたが、後には女性の頭部を描くようになった。彼の後継者にはミラノ・オルフェウスグループ(Milan
Orpheus Group)などがあるが、彼の作品はイリウペルシスの画家のものとともに後のアプリア式の指標となるものであった。
プレーンスタイルの発展
四世紀の半ばに近づくとアプリア式陶器の生産は急速に増加したが、それに伴って大量生産的な作品が多くなり、特に小型の陶器では個々の画家の特定が困難なものが目立つようになった。この時代のプレーンスタイルはディジョンの画家の後継者によるものであるが、これらは大きく二つの流派に分けられる。
第一の流派はヴァチカンV14の画家(Vatican V 14
Painter)とジュネーヴ2754の画家(Geneva 2754
Painter)によってスタートしたが、その画題は限られていて、構成も二人の人物からなる単純なものが多い。アテネ1680の画家(Athens
1680 Painter)はアテネ1714の画家の影響とともにルカニア式とのつながりもうかがえる。メイプルウッドの画家(Maplewood
Painter)はディジョンの画家の影響が強く、描写もシンプルにまとまっている。彼らにやや遅れて登場するのがヴェローナの画家(Verona
Painter)で、彼の場合はディジョンの画家の劣った作品とのつながりが強い。このほかにも個人の特定が不可能な小型陶器が数多く存在するが、その描写はかなり雑で、単なる工芸品でしかないものが多い。
第二の流派は獅子鼻の画家とそのグループによって始められ、360から340年頃までの間に500以上の作品を残している。その多くはベルクラテルで、描写はディジョンの画家の影響が直接的にあらわれている。レッチェ660の画家(Lecce
660 Painter)やH.A.の画家(H. A. Painter)はナイスコスを描くなどオーネイトスタイルとの融合的な作品を残しているが、裏面の描写は純粋なプレーンスタイルの若者像である。彼らの後継者としては裏面の若者の衣服の襞を波線で表現したシュルマンの画家などが挙げられる。
彼らによるプレーンスタイルを受け継ぎつつもオーネイトスタイルを積極的に取り入れたのがヴァレーゼの画家(Vallese
Painter)で、その様式はダリウスの画家(Darius Painter)やその先駆者たちに強い影響を与えた。彼の作品は二百点近くに達し、小型のものほどプレーンスタイルの要素が強い。彼の描く人物にはいくつかの特徴があり、腕に衣服を巻き付けた裸の若者、外套をまとい片足を僅かに引いて立つ女性、片足を岩などの上に乗せてその上にひざをつく女性、足を組んで腰掛ける女性など決まりきったポーズの人物が頻繁に描かれ、その表情は厳格な印象を受けるものが多い。彼の後継者は多いが、その中でも重要なのがバリ12061の画家(Bari
12061 Painter)で、古い伝統に従って描く画家であった
ダリウスの画家
ダリウスの画家(Darius Painter)は後のアプリア式の展開を決定づける画家であり、アプリア式を代表する画家であるが、彼と中期アプリア式の画家とをつなぐダリウスの画家の先駆者たちについて説明する必要があるだろう。このグループは葬儀の場面を好んだものと神話の場面を好んだものとに分けることができる。
前者の中で重要なのがコペンハーゲン4223の画家(Copenhagen
4223 Painter)で、イリウペルシスの画家によって始められたナイスコスと墓碑との構図を好んで描いている。このほかにも頚部に花に囲まれた女性の頭部を描いたり、把手にメドゥーサの頭部を張り付けるなど従来の伝統を保っているが、ナイスコスはより正確な遠近法によって描かれ、その中に描かれた人物は彫像のような印象を強めている。二つのグループの中間に位置するのがベルリン・ブランカグループで、葬儀と神話の両方の場面を描いている。特にブランカの画家は野心的で、神話の描写に対してこれまでにない解釈を見せている。
神話を好んだグループはよりダリウスの画家とのつながりが強いが、その中でもヒッポリュテの画家(Hippolyte
Painter)とラオダメイアの画家(Laodameia Painter)はアプリア式には珍しい繊細な描写を見せている。このほかにもあまり作品の伝わらない画家が何人か存在するが、彼らやダリウスの画家はギリシアの神話や文学をしっかりと理解していたのは確かで、彼らの描く人物は微妙な表情や身振りなどによって生き生きとした印象を与える。
ダリウスの画家はその先駆者たちが作り上げた伝統をより確かなものとするとともに、数多くの改革をも成し遂げた。まず陶器そのものに手を付け、彼のヴォルトクラテルの中には一メートルをゆうに超えるものも多く、その構図もかなり複雑化している。また画題の幅はこれまでになく広がり、神話一つにしても叙事詩だけでなく比較的新しい悲劇や喜劇からも採り入れ、さらにはその名前の由来ともなっているペルシア王ダリウスを描くなど史実を描き出すというこれまでにない試みも見せている。
彼の優れた作品のいくつかには人物の名前が記されており、時には扱うテーマのタイトルが記されたものまである。装飾についてはこれまでのものをより複雑に、かつ精巧に描いたものだが、新しく魚介類を装飾要素として取り入れている。その描写の特徴としては頻繁に描かれた四分の三正面の顔や逆三角形の額、独特の目と口の描写などが挙げられる。彼の工房からはこうした大型陶器のほかにも魚介類を描いた皿(Fish
Plate)がいくつも生産されている[4]。
彼の後継者は多いがその中で最初に挙げられるのが冥界の画家(Underworld
Painter)である。特に初期の作品はダリウスの画家の影響が強いが、その描写はやや正確さに欠ける。その画題は師匠に比べれば限られているけれども、ディオスクウロイとアファレウスの息子たちとの争いやメラニッペの物語など陶器画には極めてまれなテーマを取り上げている。彼の人物像の特徴は凝った装飾の衣服ややや細い足、しばしば浮彫状に描かれる髪などである。
ダリウスの画家や冥界の画家を中心とする工房からは大型陶器のほかにも多数の中型・小型陶器が生産され、プレーンスタイルの伝統がはっきりとあらわれている。その中でルチェーラの画家はアプリア化したカンパニア式とのつながりがうかがえて興味深い。プレーンスタイルはその後フォルリの画家などに引き継がれるが、その描写はかなり雑で、ひどいものになると何が描かれているのか識別できないものさえある。このほか彼らの工房からは女性の頭部のみを描いた陶器が数多く生産されるようになり、後の時代に引き継がれた。
カノーサの工房
ダリウスの画家とほぼ同年代で、大型の浅鉢であるパテラを好んだ画家がパテラの画家(Patera
Painter)である。彼はコペンハーゲン4223の画家の影響が強く、この画家かその周辺で学んだことは確実だが、タラントで学んだ後にルーヴォへ移住し、さらにカノーサに活動の場を移したことが考えられている。これによってアプリア式はダリウスの画家の系統を引くタラントの工房とパテラの画家からボルティモアの画家へつながるカノーサの工房に分かれた。
パテラの画家は多作で、パテラのほかにも様々な器形を好んだが、大型陶器の場合正面にナイスコス、裏面に墓碑を描く従来のものののほか、裏面に簡単な若者の像を描くこともしばしばあった。彼は動きのある人物像を好み、優れた作品では衣服もその動きを感じさせる描写となっている。その人物像の顔は顎が角張っているのが特徴で、全体的に様々な色彩が用いられている。また彼は中型の陶器の裏面にしばしば女性の頭部のみを描いたが、この様式を真似た二流の画家が数多く存在した。
彼とともに活動したのがガニュメデスの画家(Ganymede
Painter)で、その様式は似通っているが、彼のほうがより野心的であった。その構図はパテラの画家よりも複雑で、通常のナイスコスや墓碑の場面に神話の人物を登場させている。また彼は植物の装飾に力を注ぎ、同僚よりも丁寧に描いている。彼の人物像はパテラの画家よりも顎が丸くなっているが、それ以外はかなりに通っている。またこの頃には中型から小型の陶器にエロスを描くことを好んだグループも存在している。
ボルティモアの画家(Baltimore Painter)は後期アプリア式の重要な画家で、その構図や画題、装飾などは冥界の画家の影響が強いものの描写の特徴はかなり異なっている。彼は様々な器形を試みているが、ヴォルトクラテルでは頚部の画面を二段に分け、狭い上段にいくつもの女性の頭部を、広い下段に像や女性の頭部を描いている。胴部の装飾はナイスコスと墓碑をそれぞれ描くものが多いが、神話の場面を描く場合も裏面に墓碑を描くことが多い。
彼の初期の人物像はパテラの画家との類似点が多いが、後には自らの様式を産み出した。彼は四分の三正面の顔を好み、頭を傾け、目と鼻は大きく、下唇が厚く、女性の衣服の襞が胸の部分で縦ではなく横に描かれていることなどが特徴である。彼と同一人物かかなり密接な関係にあったと思われるのがストーク・オン・トレントの画家(Stoke-on-Trent
Painter)で、中型から小型の陶器に女性の頭部を描くことを好んだ。
ボルティモアの画家の後継者が白サッコスの画家(White Saccos
Painter)であり、その初期の段階においては両者の様式は区別がつかないほど似通っている。彼はその名前の通りに白いサッコスを被った女性像を好み、素早い筆遣いで描かれた頭部が特徴である。彼は大型陶器に対しては葬儀の場面や神話などを描いているが、小型のものも好み、エロスや女性の像、あるいはその頭部、また戦車なども描いた。彼の周辺には特にカンタロスに対して女性の頭部を描くことを好んだカンタロスグループがあった。
彼らの後継者はカポディモンテの画家やヘルメットの画家、ベルリンF3383の画家(Berlin
F3383 Painter)、アルピの画家(Arpi Painter)など数多いが、そのいずれも師匠の様式をただそのまま受け継いだだけでもはやこれを発展させる力はなかった。四世紀末になってこうした平凡な画家たちの後継者の時代になるとアプリア式はついにその終末を迎える。彼らの作品は古い伝統をただなぞるだけのもので、美術としての意識は全く感じられず、最終的には描かれているのが人間なのかどうかも判断できないものとなってしまう。その後様々な色彩を多用したポリュクロームの陶器が短期間製作されたが、装飾陶器は全く製作されなくなってしまった。
[1] |
アプリア式陶器については、Trendall,
A. D. and Cambitoglou, A., The
red-figure vases of Apulia 1,
2 and index, (1978, 1982
and 1982, and the first and
second supplements, 1983, 1991)参照。 |
[2] |
喜劇役者を描いた陶器については、Trendall,
A. D., Phlyax vases, 2nd
edn, (1967)参照。 |
[3] |
アプリア陶器における墓碑の図像については、Smith,
H. R. W., Funerary symbolism
in apulian vase-painting,
(1972)参照。 |
[4] |
魚文皿については、McPhee,
I. and Trendall, A. D., Greek
red-figured Fish-plates,
(1987)参照。 |
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