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初期シチリア式

 シチリアで初めて赤像式陶器が生産されるようになったのは五世紀の末で、この時代に行われたアテナイのシチリア遠征とその敗北と関係していると考えられている[1]。シチリア式最初の画家とされるのがチェッカーの画家(Checker Painter)で、画面の装飾としてメアンダー文と市松文とを組み合わせたものを用いた。彼の初期の作品はアッティカ式のポトスの画家に、後期の作品は同じくイェナの画家に近いが、陶器の質が異なり、シチリア式のものは陶土がアッティカのような赤ではなくピンク色に焼成され、黒も光沢がなくて鈍く剥がれやすいために区別できる。彼はエロスを好んで描き、描写の特徴としては尖った鼻と太い線で描かれた髪などが挙げられる。

 彼の後継者がディルケの画家であり、後のシチリア式だけでなくカンパニア式とパエストゥム式との先駆けとなった。彼は特に神話の場面を好み、その名前の由来ともなっているディルケを罰する場面はまれにしか描かれない画題である。彼と同年代のナポリ2074の画家(Naples 2074 Painter)はシチリアで活動した後にカンパニアへ移住したと考えられている。彼らの後継者にはプラード/フィエンジャの画家や酒盛りの画家などがいた。これらの流派のほかに、作品の多くがヒメラで発掘されたヒメラの画家(Himera Painter)や、ロクリで活動したと思われるロクリの画家(Locri Painter)などがいる。四世紀の第二四半期になるとシチリア式の影響を受けた作品がカンパニアやパエストゥムで生産されるようになったが、これはシチリアから移住した陶工や画家によって始められたと考えられている。

シチリア式

 ロクリの画家以降のシチリア式は生産が低下し、その後の系統を探ることが困難になっている。しかし340年頃になるとシチリアの西部地域を支配していたカルタゴ系住民の勢力が低下したことが影響したのか、再び生産が増加した。この時代のシチリア式は大きく二つの系統に分けることができるが、それぞれの様式はかなり密接な関係にある。その両者に共通するのがほかの地域と異なりベルクラテルをほとんど描かなかったことで、そのためその裏面に頻繁に描かれる若者の像も見られない。第一の様式がレンティニ・マンフリアグループ(Lentini-Manfria Group)で、シュラクサやその周辺地域、あるいはゲラの支配地域を中心としている。第二の様式がエトナ山周辺を中心とするエトナグループで、その生産地はチェントゥリペではないかと考えられている。

レンティニ・マンフリアグループ

 レンティニの画家はレカニスなどを好み、ほかのシチリア式の画家と同様に腰掛ける女性やエロスを好んで描いている。その空間に描かれているパルメットと渦巻の文様は初期パエストゥム式のアステアスのものに近い印象を受ける。彼の描く女性は上半身が裸で、髪はサッコスを被るか後ろで束ねるかし、衣服には黒の縁取りがあるのが特徴である。エロスの翼は黒と白で塗られることが多い。マンフリアグループはレンティニの画家の影響とともにカンパニア式のCAの画家の影響も見られる。このグループはスキュフォスを好み、画題としてはしばしば演劇の場面が見られる。

 レンティニグループの後継者たちはカリュクスクラテルを好み、中でもアドラストスグループ(Adrastos Group)は優れた作品を残しており、遠近法や短縮画法がより適切に用いられるとともに装飾も丁寧に描かれている。このほかジブル・ガビブグループ(Gibil Gabib Group)やマロングループなどもカリュクスクラテルを好み、ギリシア悲劇を題材とした作品をいくつも残している。ロイドグループ(Lloyd Group)はこれらのグループの影響だけでなくアッティカのケルチ様式とのつながりもうかがえる。

 ボレッリの画家(Borelli Painter)とそのグループはこの様式の後期に属し、その年代は四世紀の第四四半期に位置づけられる。その初期の作品には丁寧なものも見られたが、次第に描写が雑になってスケッチのような印象を受ける。レンティニ・ヒュドリアグループ(Lentini Hydria Group)は彼らとほぼ同年代で、その作品にはやや丁寧なものも見られるが、女性の頭部のみを描いたものも多い。この流派の最後に位置するファルコンの画家の作品はもはや赤像式ではなく後のポリュクロームを思わせるもので、人物像にはすべて着色が成されている。

エトナグループ

 エトナグループ(Etna Group)はレカニスやピュクシスなど小型の陶器を好み、ほとんどが風俗画で描かれるのも女性やニケ、エロスなどに限られ、その頭部のみを描いた作品も多い。その描写には白のほか赤や黄色が用いられている。その初期に位置するのがZAの画家(ZA Painter)やビアンカヴィラの画家(Biancavilla Painter)で、レカニスを好み、蓋の部分のほかにも大きなつまみの上面にも女性の頭部を描いている。彼らよりやや年少なのがモルミノの画家(Mormino Painter)で、大きな目と尖った鼻、堅く閉じた口が特徴である。チェファルの画家(Cefalu Painter)は後のリパリグループへの橋渡しをした画家で、このグループにしては珍しく神話の場面を好み、人物像も丁寧に描かれているほか構成もやや複雑なものとなっている。

 またエトナグループやその後継者たちは女性の頭部を描いた陶器を数多く製作しているが、これらはその様式によってプレーンスタイルとオーネイトスタイルに分けられる。前者は簡素な描写で描かれて付加的な色彩も白に限られている。後者は様々な装飾が施され、多用な色彩が用いられている。後の時代ほど派手なものが多くなるが、それと同時に描写も劣ったものとなっている。

リパリグループ

 リパリグループ(Lipari Group)はシチリアの北に浮かぶリパリ島から発掘された陶器からなり、その初期のものはシチリアのエトナグループとのつながりが深いものの、後にはカンパニア式やパエストゥム式からの影響が強まる。その陶器は淡い黄色や茶色に焼成され、時代とともに様々な色彩が多用されてその末期にはポリュクロームに近いものとなった。このグループの陶器に描かれるのはエロスを除けばほとんどが女性で、その用途はほとんどが葬儀に関連する目的であったと考えられている。

 リパリの画家は最も重要な画家で、その描写にはしばしば同じような人物を繰り返し描いた。その典型といえるのが肘掛けのある椅子に腰掛けて白か青の外套をまとい斜め正面を向く女性像、短いチュニクをまとってその女性の側に立つ女性像、青い翼のニケなどである。彼より年少なのが白スフェンドネの画家で、その名前の通りその人物像の髪は白いスフェンドネでまとめられている。このグループの最後に位置するのが三人のニケの画家(Nike Painer)で、その名前の通りにピュクシスの蓋にニケを描くことを好んだが、その描写は雑なものになっている。

[1] シチリアの陶器については、Trendall, A. D., The red-figure vases of Lucania, Campania and Sicily, (1967 and the first, second and third supplements, 1970, 1973 and 1983)参照。