3 - 2 - 5 カンパニア式


 カンパニア式は大きく三つの流派に分かれ、その二つはカプアとその近郊に、一つはクマエにあった[1]。前者の陶器は淡黄色に、後者は淡い橙色に焼成され、いずれもその色調を補うために赤い上塗りが施されることが多い。付加的な白は女性の肌などにしばしば用いられ、特に中期から後期に顕著であった。また後期から末期にはパエストゥム式と同様にアプリア化が進み、アプリアからの移民が考えられている。

 器形としては吊り把手を持つベイルアンフォラ(Beil Amphora)が特徴的で、ほかの地域には見られないものである。またアプリア化が進んだ時代でもヴォルトクラテルは製作されなかった。カンパニアで赤像式陶器が生産されるようになったのは四世紀の第二四半期で、カプア第一様式のカッサンドラの画家(Cassandra Painter)に始まる。第二様式はこれにやや遅れる形で始まり、AVグループを中心に発展し、クマエの流派は世紀の半ば過ぎに始まった。

カッサンドラの画家とその流派

 カンパニア式の歴史は事実上カッサンドラの画家に始まるが、パエストゥム式が初期シチリアのディルケの画家やナポリ2074の画家の影響下に始まったのに対し、カンパニア式はその後継者であるプラード/フィエンジャの画家や酒盛りの画家の影響を受けて始まった。カンパニア式は彼らやその流派の画家の移住によって始まったとも考えられる。カッサンドラの画家はこうした画家たちの影響が強く、描写は丁寧で、頭の小さな人物像が特徴である。また彼やそのグループは角張った月桂樹の環状文や扇形の花を持つパルメットと渦巻の複合文を好んだ。

 パーリッシュの画家(Perish Painter)は彼の後継者であるが、描写は雑であり、人物は痩せていて、特に斜め正面を向いた顔の表情はかなり劣っている。彼のパルメットと渦巻の複合文には縦に伸びた大きな花が描かれている。カッサンドラ・パーリッシュの工房にはネックアンフォラやベイルアンフォラなどの陶器を好んだ画家が数多く存在し、頚部には女性の頭部を、胴部には女性やサテュロス、若者などを単独で描くことが多かったが、いずれもその描写は劣っている。その中でスリードットグループ(Three Dots Group)はパルメット・渦巻文に黒い三つの点の記された扇形の花が描かれるのが特徴であった。こうした様式はカプア・セイレーンの画家(Capua Siren Painter)に引き継がれたが、その描写は雑でスケッチのような印象である。

 このような様式を生み出したパーリッシュの画家とは別に、同じくカッサンドラの画家に学んでまた異なる様式を生み出したのがラゲットの画家であった。彼は白のほか赤や黄色の色彩を多用し、彼のパルメット・渦巻文の花にはCの字型と>型の組み合わせの文様が見られた。彼の後継者のカイヴァーノの画家はCの字型に三つの点を組み合わせた花を用い、溶岩流でできたような横線のはいった岩を好んで描いた。彼らの工房はパエストゥム式とのつながりが深く、特にパエストゥムのナポリ1778の画家は彼らの弟子と考えても良いかも知れない。

 B.M.F63の画家やエレラの画家はカイヴァーノの画家の弟子であるが、その描写はやや雑であった。この工房の中で重要な最後の画家が四世紀の後期に活動したイクシオンの画家(Ixion Painter)で、その師匠たちだけでなくアプリア式やアッティカのケルチ様式からの影響も見られる。彼はアンフォラやベルクラテルなどやや大きめの陶器を好み、しばしば神話の場面を描いている。彼は従来の色彩に加えて青や緑、ピンクなども用いており、そのパルメット・渦巻文の花は扇状で赤に白の縁取りがある。彼の後継者の時代には描写が極めて雑になり、何が描かれているのかわからないものさえあった。

 最後にカッサンドラの画家の流派からは数多くの魚文皿が生産されており、初期のものはシチリア式と、後のものはパエストゥム式との関連が考えられている。

カプアの画家とAVグループ

 カプアの第二の流派はカプアの画家によって始まるが、その先駆けとなったのがマッド・マン(マドリッド・マンチェスター)の画家と、NYN(ニューヨーク・ナポリ)の画家である。彼らはシチリア式に学び、プラード/フィエンジャの画家などとの関連をもつ画家たちだが、その後カンパニアへ移住してきた可能性が考えられている。カプアの画家は多作だがあまり独創性のない画家でもある。その女性像には特徴があり、首は長くて黒いネックレスを付け、後ろに突き出たサッコスを被り、鼻は尖って下唇が厚い。

 彼の後継者がAVグループであるが、これは大きく三つの流派に分かれ、それぞれホワイトフェイスの画家(White Face Painter)、神酒の画家(Libation Painter)、ダナオスの娘の画家(Danaides Painter)によって代表される。ホワイトフェイスの画家は多作で、その活動は360年頃から330年頃までと考えられている。その作品には神話を扱ったものも多く、その女性像は肌が白く塗られ、首には黒のネックレスをしている。彼のパルメット・渦巻文の花は菱形かいくつかの白い曲線かのいずれかであった。

 神酒の画家及びその流派は最も特徴的で、その戦士像や女性像はしばしば原住民の衣服をまとって描かれる。また赤でも様々な明度のものが使用されるのもこの流派の特徴といえる。神酒の画題は大きく三つに分類される。一つはその名前の由来となっている神酒を注ぐ場面であり、オイノコエを持つ人物とフィアレを持つ人物が描かれる。もう一つは葬儀に関する場面で、中央に描かれた墓碑の周りに墓参者が捧げものを持って描かれることが多い。

 最後は神話の場面で、悲劇や喜劇から影響されたものが多い。彼のパルメット・渦巻文の花は扇形に白の縁取りを持つもので、その画面の背景には窓や盾、フィアレなどが描かれることが多かった。彼の同僚がアスタリタの画家(Astarita Painter)で、その描写は神酒の画家よりも正確であり、神酒の画家の人物の瞳がしばしばずれた位置に描かれるのに対して彼は正確に描き、小さな口と厚い下唇、丸い顎が特徴である。彼らの後継者がマンチェスターの画家(Manchester Painter)で、描写はやや雑になり、女性的な若者像や尖った冠などが特徴である。

 ダナオスの娘の画家はほかのAVグループの画家だけでなくパエストゥム式との関係も深く、特にボストン・オレステスの画家との類似に注目すべきであろう。彼の用いた陶器の陶土はかなり淡い黄色で、赤い上塗りが施されている。付加的な色彩は白や黄色が中心で赤はあまり用いられていない。その画面には動物や鳥のほか、様々な装飾が施されており、あまり空間を好まなかったようである。その鼻は尖り、口は小さくくぼんでいて、顎は丸く、瞳は黒い点で描かれる。また彼の陶器の頚部などの二次的な画面にはしばしば女性の頭部が描かれている。

 以上のようなAVグループの後継者にはカタニア737の画家(Catania 737 Painter)や髪紐の画家などがいるが、いずれも劣った画家であり、特に後者の像はかなりバランスの悪いものとなっている。彼らの特徴はパルメット・渦巻文に用いられた三枚の花弁を持つ花である。

クマエの流派

 クマエ地域で生産されたカンパニア式陶器はその発展によってA,B,Cに分けられている。この地域の陶器の特徴は明るいオレンジ色に焼成されるその陶土であり、白や黄色、赤やピンクなどの色彩が多用されることも挙げられよう。また画題の幅も狭く、神話が描かれることはまれであった。

 クマエAを代表するのがCAの画家で、その女性像のほとんどは白い上塗りが施され、画面の背景にはフィアレや窓など様々な装飾が施される。またその装飾は丁寧に描かれることが多く、パルメット・渦巻文のパルメットは縦に長くてパルメットというより櫛のような感じである。また彼は女性の頭部のみのものも描き、その描写は美しいものが多い。彼の工房にはロビンソンの画家(Robinson Painter)を中心に魚文皿が数多く生産され、特に鯉科の魚が好まれた。ニューヨークGR1000の画家(New York GR 1000 Painter)は彼の活動の後期に活動を始めた画家であるが、特に裏面の若者の描写などはアプリア式の強い影響を受けている。彼もまた女性の頭部を描いているが、鼻と唇の輪郭の内側に三つの点が記されるのが特徴である。

 彼らの後継者でありさらにアプリア化が進んだのがAPZの画家で、ナイスコスなどの装飾要素をアプリア式から取り入れたが、ベイルアンフォラを用いたり、女性の肌を白で塗ったりとカンパニア式の伝統も保っている。彼は多作の画家で、200点以上が彼に同定されているが、その多くは小型の平凡な描写のものである。

 ニコルソンの画家(Nicorson Painter)の登場によってクマエB様式が始まる。彼はAPZの画家によるアプリア式との同化の道をたどるが、その描写は悪化し、画題の幅もせばめられて、同じような人物像が繰り返し描かれるようになる。彼はカリュクスクラテルを導入したほか、色彩の使用を制限している。彼には数多くの同僚がいたが、その描写は彼よりも劣るものであった。

 彼らと同じ年代に位置するのが平行四辺形グループで、その名前の通りに画面の背景に平行四辺形の装飾を用いている。このグループを代表するのがブラニキの画家で、太ったパルメット・渦巻文が特徴である。彼やそのグループは画題の幅が広く、しばしば神話の場面も描いている。彼の描く女性の頭部像は網目状の文様が特徴である。彼の後継者がB.M.F229の画家で、やや大型の陶器を好み、師匠よりも複雑な構成を好んだ。

 四世紀末から三世紀初頭に位置する、クマエ式最後のクマエC様式はB様式で一時制限されていた色彩の使用が再び盛んになり、女性の頬にはピンク色の上塗りが施されている。描かれるのはほとんどが女性で、男性は二次的な役割を演じるのみである。ホワイトバードグループ(White Bird Group)の作品はまだB様式の特徴を残しているが、それでも衣服の描写などはかなり単純化されている。その末期に位置するテアノ・チュービンゲングループ(Teano Tubeingen Group)の作品は色彩がふんだんに使用され、人物像のプロポーションはかなり崩れている。

 カンパニア式の最後に位置するのがケマイグループで、女性の頭部などを描いているがその描写はもはや見るべきところはない。ヴィトゥラズィオの画家の作品はもはや赤像式と呼べるものではなく、黒の輪郭線で女性の頭部を雑に描いているのみであった。

[1] カンパニアの陶器については、Trendall, A. D., The red-figure vases of Lucania, Campania and Sicily, (1967 and the first, second and third supplements, 1970, 1973 and 1983), Beazley, J. D., "Groups of Campanian red-figure", JHS 63, pp.66-111参照。