3 - 2 - 6 パエストゥム式


 パエストゥム式の陶土には雲母が多量に含まれ、オレンジから茶色の色彩に焼成される。またパエストゥム式は南イタリアの生産地の中で唯一画家のサインが記されたものが存在する[1]。コラムクラテルは全く生産されず、ヴォルトクラテルも後期のアプリア化した時代の例が数点あるのみである。最も好まれたのはベルクラテルで、画面の両脇を囲うように縦長のパルメットが、画面下には波状文が描かれることが多かった。女性の衣服はしばしば線と一列の点で縁取られる。画題としてはディオニュソス関連のものが多く、特に喜劇を扱ったものが多い。一方神話や葬儀関連のものは少なく、墓碑はしばしば描かれるもののナイスコスが描かれることはない。

 パエストゥム式はカンパニア式と同じく初期シチリア式から派生したもので、特にディルケの画家(Dirce Painter)などの影響が強い。パエストゥム式の先駆者といえるのがルーヴルK240(Louvre K 240 Painter)で、パエストゥム式の特徴である画面両端のパルメット文や衣服の列点文などが既に見られるものの、彼は純粋なパエストゥム式の画家ではなく移住者であったと考えられる。

 事実上最初のパエストゥム式の画家がアステアス(Asteas)で、十点以上の作品に画家としてのサインを残している。その初期の作品は正面にディオニュソスともう一人の人物を、裏面に外套をまとう二人の若者を描くのが一般的であった。サインのある作品の多くは彼の活動の中期に位置し、大型のものが多く、神話の場面を描いた場合には人物に名前を記した例もしばしば見られる。

 神話や劇を扱った場合、画面構成は主要な画面で起こる出来事を胸像として描かれた神々や補助的な人物が上から眺めるといったものが多い。後期の作品は数が多く、その様式は初期に見られる簡素なものと中期のサインのある陶器のような複雑なものとに分かれる。彼と同世代で同じようにシチリア式からの影響を残しているのがジュネーヴ・オレステスの画家(Geneva Orestes Painter)であるが、その作品は少ない。

 彼よりやや若いのがピュトン(Python)で、同じくいくつかの陶器に画家としてサインを残している。両者の様式は似通っていて、特に劣った作品には両者の区別のつかないものもある。しかし彼のほうが色彩の使用を好み、画面構成という点では劣っている。アステアス・ピュトンの工房からは多数の作品が制作され、ヴュルツブルクH5739の画家(Wurzburg H 5739 Painter)や倉敷の画家(Kurashiki Painter)などがいるがいずれも二流で、師匠の様式を模倣したものであった。この工房の後期になってあらわれたのがアフロディテの画家(Aphrodite Painter)とボストン・オレステス(Boston Orestes Painter)の画家である。

 前者は装飾要素などから見てアプリア式との結びつきが強く、アプリアでの活動の後にパエストゥムへ移住したのではないかと見られている。彼の様式はカンパニア式のAPZの画家とのつながりが見られるものの、後期パエストゥム式のアプリア化した画家たちの作品との共通性は少ない。その描写の特徴は長い鼻と厚い唇、三本の線で描かれた瞼、長くカールした髪などであった。後者はピュトンの忠実な後継者で、両者の類似は特に彼の初期の段階の作品に顕著である。このほか多くの魚文皿が工房から発見されていて、まれにみられる大型のものは美しい描写で装飾されている。

後期パエストゥム式

 四世紀の第四四半期に始まる後期パエストゥム式はナポリ1778の画家(Naples 1778 Painter)とナポリ2585の画家(Naples 2585 Painter)によって始まる。両者はその初期においては似通った様式を用いていたが、後にはかなり異なった特徴を示すようになった。ナポリ1778の画家はカンパニア式の画家であるカイヴァーノの画家に学び、長く伸びた若者の髪や女性の衣服のパターン、画面の背景に用いられる窓枠やフィアレなどの装飾モチーフなどにそれがあらわれている。特に白い茎の先に付いた白い葉脈を持つパルメットの葉は彼の特徴である。初期の作品はピュトンの画家やボストン・オレステスの画家の後期の作品の影響下にあるが、彼の後期の作品はかなり劣ったものが多くなり、女性の頭部のみを描いたものもいくつか見られる。

 ナポリ2585の画家の初期の作品は特にディオニュソスにアステアスの影響が見られるが、裏に描かれた若者像は彼のもので、片足に体重を乗せて立つ裸の若者や、片足を何かに乗せて女性に何かを差し出す裸の若者、あるいは頭と右手の先を除いて全身を外套で覆った女性などは頻繁に描かれた。後期の作品では神話を描くことを好み、女性の肌は白で描かれることが多くなった。彼の後継者である花の画家の作品ではその描写はかなり雑なものとなり、末期的な様相を示していた。ナポリ1778の画家もナポリ2585の画家も魚文皿を描き、前者の魚には目の回りに環状の点が描かれるのが特徴であった。

 彼らとほぼ同じ時代に位置し、アプリア式の強い影響を受けていたのがアプリア化グループで、中にはほとんどアプリア式と変わらないものまである。アプリア式の中でも特にヴァレーゼの画家やその後継者たち、ダリウスの画家やパテラの画家の工房の作家などとのつながりが深く、これまでパエストゥム式にはなかったスキュフォス型ピュクシスを導入しているのもこうした影響による。このグループの後を受けたスピナッツォグループはアプリア式の影響も残しながら自らの個性も生み出した。このグループの後期の作品には正面向きの女性の頭部が好まれて頻繁に描かれたが美しいものとはいえず、赤像式はこのグループや僅かな後継者を最後に、ほかの南イタリア地域と同様四世紀末から三世紀初頭にはその歴史を終えた。

[1] パエストゥムの陶器については、Trendall, A. D., The red-figure vases of Paestum, (1987), Trendall, A. D., "Early Paestan Pottery", JHS 55, pp.35-55, Trendall, A. D., "Paestan pottery", BSR 20, pp.23-参照。