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エトルリアはギリシア陶器の最大の顧客であり、極めて多数が出土したことから、アテネの陶器が当初エトルリア製だと思われていたほどである。それだけの数を輸入していれば当然のようにこれを真似た製品も作られるようになった。コリントス式の陶器が市場を独占していた時代、彼らはその陶器をかなり輸入していたが、それと同時にその様式を真似た陶器を数多く生産していた。これらはエトルスコ・コリンシア式(Etruscocorinthian)、イタロ・コリンシア式(Italocorinthian)、あるいはエトルリア・コリントス式などと呼ばれ、南エトルリアの沿岸地域で630年頃から530年頃まで製作された[1]。
その後カエレにはカエレ式が、また恐らくヴルチにはポントス式が生まれたことは先に述べたとおりである。エトルリアではこのほかにも独特の様式を持つ工房がいくつか存在した[2]。五世紀の中頃にはアテネの赤像式を模倣した製品がヴルチやファレリイなどで生産されるようになり、さらに四世紀半ばにはキウジで、後半にはヴォルテッラでも生産が始まったが、いずれにしてもその生産数は少なく、恐らくほとんどは国内で消費され、またその描写もアテネの製品には及ばないものではあったが、独特の魅力を持つものともいえる。
[1] |
エトルスコ・コリンシア陶器については、Szilagyi,
J. G., Ceramica Etrusco-Corinzia
Figurata: Parte 1,650-580 a.C.,
(1992), Szilagyi, J. G., Etruszko-Korinthose
Vazafesteszet, (1975)参照。 |
[2] |
その他のエトルリアの黒像式陶器については、Dohrn,
T., Die schwarzfigurigen
Etruskischen Vasen, (1937),
Beazley, J. D., La Raccolta
B. Guglielmi 1, (1939),
Beazley, J. D., Etruscan
vase-painting, (1947), Hannestad,
L., The Paris Painter,
(1974), Hannestad, L., The
followers of the Paris Painter,
(1976), Spivey, N. J., The
Micali Painter and his Follower,
(1987)参照。 |
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エトルリアの赤像式陶器については、Beazley,
J. D., Etruscan vase-painting,
(1947), Pianu, G., MEFRA
1978, pp.161-195, Pasquinucci,
M. M., Le Kelebai Volterrane,
(1968), Del Chiaro, M. A., Etruscan
red-figured vase-painting at
Caere, (1974), Del Chiaro,
M. A., "The Genucilia Group",
Univ. of California Publications
in Classical Archaeology
3, (1957), pp.243-372参照。 |
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