3 - 1 - 7 四世紀


四世紀前期

 この時代は特定の器形を専門とする画家が多く、個々の役割が分化するとともにその描写はさらに低下し、赤像式の終末へと続く時代であった。この時代の最初にあらわれるのがプロノモスの画家などから続く華麗で派手な様式を好んだメレアグロスの画家(Meleager Painter)で、クラテルを中心に描いたもののそのほかの器形にも興味を示している。彼はその登場人物に東方的な衣服を着せることを好んだが、これはこの時代の流行の一つでもあった。

 また同じ時代のクセノファントスの画家(Xenophantos Painter)は像を描くのではなく浅い浮彫にすることを好み、ほかの画家たちもしばしばこれを試みている。このほかテロスの画家(Telos Painter)やオイノマオスの画家(Oinomaos Painter)、イフィゲネイアの画家(Iphigeneia Painter)や黒テュルソスの画家(Black-Tyrsos Painter)などは女性だけでなく男性像などに対しても白の色彩を多用している。またアンテステリア祭において子供たちにワインを入れて配られたクースと呼ばれる小型のオイノコエが数多く生産されるようになったのもこの時代である。

 この時代になってキュリクスが盛んに製作されるようになったが、その中心となったのがイェナの画家(Jena Painter)である[1]。彼は五世紀末のステムレスカップの画家の伝統から生まれ、内面の描写にはしばしば丁寧なものが見られるものの、外面の描写は雑なものが多い。ディオメデスの画家(Diomedes Painter)はしばしば彼と同一視され、様式的にも似通っている。このほかの画家にはQの画家(Q Painter)がいるが、やはり様式的には近いもので、いずれの画家もトンドの周囲に蔦の文様を描くことを好んだ。

赤像式の終末

 この時代になると描写の質の低下は著しく、ついには終焉の時を迎えるが、中には優れた陶器も存在した。この時代を代表するのはケルチ様式(Kerch)と呼ばれるもので、その様式を持つ陶器が多数発見された黒海沿岸の遺跡から名付けられた。その描写には五世紀末から続く白の色彩の多用の伝統が見られ、陶器のそのものも長大化する。しかしその描写は個々の特徴に乏しく、個人の特定が成されているものはほかの時代に比べて少ない。クラテルを好んだトーヤの画家(Toya Painter)やペリケを好んだヘラクレスの画家(Herakles Painter)などは数少ない特徴ある画家の一部である。

 マルシュアスの画家(Marsyas Painter)はこの時代の最高の画家で、その描写には五世紀末の赤像式への回帰とも取れるような丁寧さがある。彼もまた女性などに対して白い色彩を用いているが、ほかの画家のものがごちゃごちゃした印象を与えるのに対し、彼の場合はこの白の色彩が効果的に用いられている。エレウシスの秘儀の画家(Eleusinian Painter)は彼に匹敵する技能を持ち、その描写に気を配った最後の画家といえるかも知れない。

 同じくケルチ様式を持つものがこの時代になって特に盛んに製作されたピュクシスやレカニスで、その画面が小さいこともあってその描写は極めて雑で、見るべきところは少ない。このほかイェナの画家の伝統を受け継いでステムレスカップを好んだのがYZグループで、その描写もイェナの画家の特徴を受け継ぐものであった。

 赤像式もその末期になるともはや個々の画家の特定は極めて困難なものとなり、いくつかのグループが識別できる程度である。Gグループはペリケを好み、アマゾンやアリマスプとグリフィンの戦いなど東方的な主題を好んだ。LCグループはカリュクスクラテルを好み、その長大化した胴部に細長い人物像を描いている。オイノコエを好んだのがFBグループで、その名前の由来ともなっている太った少年を描くことを好んだ。530年頃に誕生した赤像式もついにその終焉の時を迎え、二世紀も続いたその伝統に幕を閉じた。またアッティカの影響を受けて南イタリアの各地で誕生した赤像式も四世紀の末あるいは三世紀初頭には姿を消してしまう。

[1] イェナの画家については、Paul-Zinserling, V., Der Jena-Maler und sein Kreis, (1994), Der Jenaer Maler (catalogue), (1996)参照。