1 - 2 原幾何学様式


 11世紀になるとミュケナイ文明が崩壊し、ギリシアいわゆる暗黒時代(Dark Age)に入る。栄華を誇った宮殿は放置され、絵画をはじめとする美術は衰退の一途をたどった。しかし陶器のみは前代のものを継承しながらまったく新しい様式を確立していった[1]。その中心的役割を果たしたのが混乱期に大きな被害を受けなかったこともあって他の都市に先駆けて復興を果たしたアテナイを中心とするアッティカ地方であった[2]

 ミュケナイ時代の陶器から次代の幾何学様式の橋渡し的な役割を果たしたこの時代の陶器は原幾何学様式(Protogeometric style)と呼ばれ、文明の衰退に反してその製作技術は向上している。ろくろの性能が向上して回転速度が速まり、以前よりも薄手に仕上げられるようになった。装飾はその名前が示すとおりに幾何学的な文様が多くなるが、画面いっぱいに文様を描く後代のものと異なり、この時代の陶器は画面の多くを黒い帯状に塗りつぶすことが多く、装飾は肩や胴部などの一部にかぎられている。

 その装飾も適当に配されたものではなく、陶器そのものが持つリズムに調和し、陶器のプロポーションを強調する役割も果たしている。装飾のパターンは限られているが、その中で最も頻繁に登場し、この時代を象徴しているのが同心円の文様(Concentric circles)で、半円状に描かれることもある。コンパスに複数の筆を取り付けた道具で描いたと考えられてきたが、これには異論もあり、最近の研究では一本の縦軸の横に複数の筆を取り付けたものを回転させて描いたという説が有力になっている[3]。この同心円文の起源はミュケナイ時代の植物文であって、すでにミュケナイ末期には極度に様式化されていた。その他にはミュケナイ時代から続く波線、ジグザグ文、ハッチングの施された鋸歯文、市松文などが用いられている。

 一方その器形の多くはミュケナイ末期から引き継いだものである。アンフォラには三種類あり、古典期以降まで引き継がれた、頚部と肩をつなぐ把手のついたいわゆるネックアンフォラ(Neck-handled amphora)、丸い胴部の側面に横向きの把手のついたアンフォラ(Belly-handled amphora)、肩に小さな縦の把手がついたアンフォラ(Shoulder-handled amphora)が制作された。アルカイック期以降盛んに生産されるヒュドリアはこの時代に誕生したがまだ希な存在であった。混酒器のクラテルはやはりミュケナイ時代から引き継いだもので、胴部側面にM字型の把手のついたものと、後のコラムクラテルに発展する鐙状の把手のついたものが存在する。

 オイノコエにはすでに口縁部がクローバー型ものものと丸いものがあり、ピュクシスには左右にM字型の把手がついた大型のものも見られる。スキュフォスもミュケナイ時代から続くもので、円錐形の脚を持つ。

 アッティカに遅れて、ギリシア各地でも原幾何学様式の陶器が生産されるようになる。アッティカの北東に位置するエウボイア島は幾何学様式の陶器の生産の盛んな地域の一つであるが、レフカンディ(Lefkandi)からは特に原幾何学様式の陶器が数多く発掘されている[4]。特に好んだ装飾は垂れ下がった半円の同心円文(pendent semicircles: PSC)で、スキュフォスなどの外面に二つの同心円が重なり合うようにして描いたものが多い。この文様は地中海全域に広まり、エウボイア人がこの時代に広く活躍していたことを示すと共に、ギリシア人が居住していたか否かの判断基準の一つとなっている[5]

 エウボイアではアッティカが幾何学様式に移行してからも原幾何学様式的な陶器の生産を続けており、この時代の陶器は亜原幾何学様式(Sub-protogeometric)とも呼ばれる。テッサリアやキュクラデスなどではエウボイアの影響を受けて半同心円文を描いた陶器が生産されたほか、シリアでも同様の例が多数発見されている。この地域ではこうした把手や脚の付いたカップを用いる伝統はなかったため、ギリシアからの影響であることは間違いない。

 ペロポネソス半島では各地に原幾何学様式陶器を生産する工房が誕生したが、その様式は大なり小なりアッティカからの影響を受けている。東部ギリシア地域でもアッティカの影響は色濃く現れており、イオニア植民の中心的な役割を果たしたとされる記述を裏付けるかたちとなっている。

 クレタ島ではこれらの地域とは一風違った様相を示している。クレタ文明の特徴でもあった自然主義的な嗜好がわずかながら存続していたこともその要因の一つではあるが、キュプロスとの深い交流も見落とすことはできない。クレタが原幾何学様式に移行するのはすでにアッティカが幾何学様式の初期から中期にかかる頃であった。ただ同心円文の使用などには原幾何学様式の影響が見られるものの、本土ではすでに消滅していた鐙壷をはじめ、器形そのものは前代と代わらぬものが多い。最大の特徴は図像の装飾が依然続いていることであり、ライオンと戦士の戦いやスフィンクスなど東方的なモチーフがシルエットで描かれている[6]

[1] 原幾何学様式については、Desborough, V. R. d' A. Protogeometric Pottery (1952), Desborough, V. R. d' A. The Greek Dark Ages (1972), Murray, R. L. The protogeometric style: the first Greek style (1975)参照。
[2] アッティカの原幾何学様式陶器は、Kraiker, W. and Kubler, K. Kerameikos 1 (1939), Kubler, K., Kerameikos 4, (1943)参照。
[3] 同心円文の描法については、Eiteljorg, H. "The fast wheel, the multiple brush compass and Athens as home of the Protogeometric style" AJA 84 (1980) pp.445-452 及び J. K. Papadopoulos他、"Drawing Circles: Experimental Archaeology and Pivoted Multiple Brush" AJA 102 (1998) p.509-529 参照。
[4] レフカンディ出土の原幾何学様式陶器については、Popham, M. R. and Sackett, L. H., Lefkandi 1, (1980), Popham, M. R. et al., Lefkandi 2.1, (1990)参照。
[5] PSCカップについては、Kearsley, R, The pendent semi-circle skyphos, (1989)参照。
[6] クレタの原幾何学様式陶器については、Brock, J. K., Fortetsa, (1957)参照。