1 - 1 ミケーネ様式から幾何学様式へ


 ギリシアにおいて本格的な装飾陶器が焼かれるようになるのはミケーネ時代に入った紀元前十六世紀頃からである[1]。その様式は地中海に栄えていたクレタ文明の様式(図1)に強い影響を受けたものであるが、クレタ様式の自然主義と流動性に対しミケーネ様式には抽象化と安定性が見られ、すでにギリシア的な精神がここに現れている(Corinth / OD)。紀元前十二世紀頃にミケーネ文明が崩壊すると、ギリシアはいわゆる暗黒時代を迎え、遺跡や遺物は急激にその数を減少させるが、陶器はミケーネ時代から引き続き作られていたことがアテナイのケラメイコス地区の発掘によって明らかになっている[2]



図1

 その新たな様式は幾何学様式と呼ばれ、その装飾は、まず陶器をいくつかの文様帯に区分し、それぞれを格子文や菱形文、メアンダー文など幾何学紋様で装飾するものであった[3]。この幾何学様式はアッティカをはじめとしてギリシア各地で生産されたが、いずれも同じ様式を備えている。幾何学様式時代も終わりに近づくと葬儀の場面[4]や様々な人物・動物像が簡単なシルエットによって描かれるようになる(図2, 図3, 図4, Athens 804 / OD)



図2


図3


図4

 そしてギリシア人が海外への活動を活発に行うようになる八世紀末頃になると、幾何学様式は崩れ、オリエントの影響を受けた東方化様式の陶器が生まれてくる。その中でかなり早い段階から東方化の様式を受け入れて市場を独占していったのがコリントス式陶器であった。その一方でオリエントに近い小アジアやキュクラデス諸島などの東方ギリシアもかなり早い時期から東方化様式に入っていた。

[1] ミケーネ時代の陶器については、Furumark, A. "The Mycenaean Pottery and The Chronology of Mycenaenean Pottery" (1941)を参照。
[2] ケラメイコス出土のミケーネから幾何学様式への発展については、"Kerameikos I" (1939), "Kerameikos IV" (1943)参照。またミケーネ末期から原幾何学様式の美術については、Desborough, V. R. d' A. "The last Mycenaeans and their successors" (1964)参照。
[3] 原幾何学様式については、Desborough, V. R. d' A. "Protogeometric Pottery" (1952), Murray, R. L. "The protogeometric style: the first Greek style" (1975)参照。
幾何学様式については、Coldstream, J. N. "Greek geometric pottery" (1968), Coldstream, J. N. "Geometric Greece" (1977), Schweitzer, B. "Greek Geometric Art" (1971)を参照。
[4] 後期幾何学様式における葬儀の場面については、Ahlberg, G. "Prothesis and ekphora in Greek Geometric art" (1971) を参照。