1 - 3 - 4 幾何学様式・コリントス


 コリントスでは原幾何学様式の影響が強く残り、幾何学様式に入るのはアッティカがEG II期に移行した875年頃である[1]。器形では浅いスキュフォスなどアッティカの影響も見られるものの、半球形のスキュフォスや胴部の丸いオイノコエ、アリュバロスなど、コリントス独自の器形も多く残っている。

 装飾では左右の把手の間にパネル状の画面を配し、メアンダー文や幾重のジグザグ文を描くなど、アッティカの影響が強い。なおコリントスのEGはアッティカやアルゴリスに比べて短いこともあって、I、II期に区分されることはない。

 中期に移行するのはアルゴリスとほぼ同じ830年頃で、800年頃を境にI、II期に分類される。I期の陶器は前期と同様にアッティカの影響が見られ、器形は前期とそれほど大きな変化はなく、アッティカ的な器形と独自の器形ともに生産が続いた。装飾でもアッティカの影響が強く、その多くはアッティカのものをそのまま取り入れているが、鉤状のメアンダー文など独自の装飾もわずかに見られる。

 II期に入るとアッティカの影響を脱し、独自の様式が現れ始める。器形では伝統的な器形である半球形のスキュフォスや胴部の丸いオイノコエに加え、やはり丸い胴部を持つクラテルが製作されたが、アッティカのように円錐形の脚部を持つことはない。この器形は後にペロポネソス各地の工房に取り入れられることになる。このほかにもネックアンフォラやアリュバロス、レキュトス−オイノコエなどが生産された。

 装飾では特にマルチプルブラシが多用され、メアンダー文やジグザグ文よりもこの道具で描いた「く」の字あるいは直線的な「S」字の連続文が好まれた。クラテルなどに配された広い画面はこの文様には適さないため、縦や横のラインによって細かく区分した中にこれらの文様を描いている。

 後期幾何学様式は750年頃に始まるが、コリントスでは他の地域に先駆けて720年頃に東方化様式に移行するため、その期間は短く、I、II期と区分されることはない。器形でもっとも重要なのは半球形のスキュフォスから発展したコテュレと呼ばれる器形で、やはり半球形の胴部の左右に把手がつくが、口縁部はこれまでのようにくびれて胴部と区分されることはなく、連続したカーブを描く。クラテルも同じように半球形だが、くびれは残り、また把手は逆Uの字型の把手の上部と口縁部を板状の把手でつないで補強した鐙型のものが好まれた。ピュクシスではこれまでの球形のものに加えて偏平な器形も作られたが、アッティカと異なり常に把手が取り付けられるのが特徴であった。オイノコエでは卵型の胴部をもつ器形の生産は続いたが、頚部の細く長いレキュトス−オイノコエの生産は少なく、球形のアリュバロスも同様だが、どちらも東方化様式時代になって再び盛んに作られるようになる。

 装飾ではやはり「く」の字と「S」字の連続文が頻繁に用いられたほか、陶器の大部分は簡素なストライプ文で埋め尽くされた。また動物の図像としては唯一水鳥が頻繁に描かれ、特にジグザグ文を挟むように左右に配置したものが多い。

 これらと性格を異にするのがタプソス式(Thapsos)と呼ばれる陶器で、素地の色彩もやや灰色がかっていて、どちらかといえばアルカイック時代のコリントス式陶器に近い[2]。器形では半球形のコテュレではなく、頚部のくびれたスキュフォスが好まれ、他にもカンタロスやクラテル、オイノコエなどが生産された。

 装飾では中期に見られたメアンダー文や同じく鉤状の文様に加え、渦巻の連続文などが用いられた。水鳥の図像はそれほど多くは用いられないものの、最も頻繁に登場する図像で、他には船や戦車などもまれに描かれた。

 なおタプソス式が果たしてコリントスで製作されたのかどうかには様々な議論があり、アイギナやメガラなどで製作されたのではという意見もあるが、いまだに結論には達していない。

[1] コリントスの幾何学様式陶器については、Weinberg, S. S., Corinth VII, i, (1943), Young, R. S., Corinth XIII, (1964)参照。
[2] タプソス式については、Neeft, C. W., MEFRA 93.1, pp.7-88参照。