1 - 3 - 3 幾何学様式・アルゴリス


 アルゴリス地方の幾何学様式もやはり900年頃から始まるが、875年頃に始まるEG II期は830年頃まで続いたと考えられている[1]。EG期の陶器はどの地域にも増してアッティカの影響が強く現れており、特に器形では底の尖ったピュクシスに小さな把手が付け加えられた以外はほとんどアッティカのものと同じである。装飾法もほとんど同じだが、アッティカに比べると簡素で、スキュフォスなどは全く装飾がなく黒く塗りつぶしただけのものも見られる。

 前期から中期への発展はゆっくりと進み、その中期には徐々に独自の様式を生み出しており、アッティカの影響を残すMG I期と地域色を示し始めたMG II期とに分けられ、後者はアッティカと同じ800年頃に始まるが、やや長く750年頃まで続いた。独自の器形は既にMG I期に登場しており、ピュクシスの底は尖った形から円錐形の脚を持つものに改められた。球形のピュクシスには垂直に伸びる逆U字型の把手が左右に取り付けられた。コリントスからは球形の胴部を持つアリュバロスが取り入れられた。装飾はまだアッティカの影響を強く残し、独自の星状の装飾が用いられた程度である。

 MG II期になるとアンフォラやオイノコエはアッティカのものに比べて胴部の丸いものが好まれ、アッティカに見られる新式のカンタロスは把手の高く持ちあがったアッティカのものに比べて低い位置にとどまっている。

 装飾はMG I期よりも種類が増え、手の込んだものが多く見られるようになる。列点文や歯車文、中に点を配した菱形の連続文などが加えられ、アッティカやコリントスを真似てマルチプル・ブラシを用いた文様が取り入れられた。また他の地域に先駆けて動物の連続文を描き、水鳥を皮切りに馬や鹿の連続文を描いたが、その画面は必ずといっていいほど小さな点で埋め尽くされた。

 MG II期は750年頃まで続くが、その末期には大型の陶器にアッティカには見られない独自の装飾を施すようになる。アッティカのようにメアンダー文が画面の主要部分を占めるのではなく、画面は小さなメトープに区分された。しかしその装飾には同時代のアッティカのLG Ia期に用いられた文様を採用している。陶器の下半部は黒く塗りつぶすのではなく、コリントスの陶器に倣ってストライプ文を施したものが多い。

 LG I期はアッティカのLG Ib期にあたり、大型陶器を好む傾向が強まっている。中でも特徴的なのがジャイアント・ピュクシスで、1mを超えるものもある。胴部は卵型で、左右に把手がつき、胴部下段からは三本の板状の脚が垂直に下がって内側にカーブし、再び垂直に伸びて底部に接合して陶器を支えている。

 画面はやはり小さなメトープに分割されているが、興味深いのはその配置が左右対称ではない点である。文様にはアッティカで用いられていたもののほか、独自のものとして階段状のメアンダー文があり、また菱形の連続文が変化して木の葉状の文様になり、それぞれが独立してもはや連続文になっていない。

 図像は馬、魚、水鳥がほとんどで、かなり頻繁に描かれるようになった。人物像が主要な場面に登場することはなく、画題も馬を調教する場面が多数を占める。なおアルゴスの南西に位置するアシネではよりアッティカの強い影響を受けた陶器が作られていたが、710年頃に都市が破壊されるとともにその生産は途絶えた。

 730年頃を境にLG II期に入り、脚部の短いクラテルや大型のカンタロス、アンフォラなどが登場したほか、ジャイアント・ピュクシスに代わって偏平なピュクシスが好まれた。スキュフォスやカップ、オイノコエのほか、コリントスの影響でコテュレや円錐形の胴部を持つオイノコエも作られた。

 装飾にはマルチプル・ブラシが多用され、装飾はより雑に、機械的に描かれるようになった。水鳥も同じ道具によって簡潔に描かれている。人物像はやはり馬の調教が主だが、後期になると踊りの場面や戦闘図、スポーツ、葬礼の場面なども登場する。なお人物の上半身がしばしば菱形に描かれるのはこの地域の特徴の一つである。

 末期にはプロト・コリントス式の影響を強く示し、幾何学様式は690年頃に幕を閉じるものの、その後も簡素なジグザグ文などを用いた亜幾何学様式の陶器が生産されつづけた。

[1] アルゴリス地方の幾何学様式陶器については、Courbin, P. La c屍amique g姉metrique de l'Argolide (1966)参照。