1 - 3 - 2 幾何学様式・アッティカ

 900年頃を境にアッティカの陶器は原幾何学様式を脱し、幾何学様式へ移行する[1]。幾何学様式の前期はEG I(900-875年)とEG II(875-850年)の二期に分けられる。クラテルやスキュフォス、カンタロス、アンフォラ、オイノコエなどはそれまでのものを引き継いだ形だが、ピュクシスはそれまでの球形で平らな底の器形に加え、底の尖った卵型のピュクシスが取り入れられた。またレキュトスに代わって頚部の細いオイノコエが新たに登場している。

 器形とは違い、装飾法は大きく変化している。これまで肩や胴部の装飾帯以外は素地のまま残していたのを、黒く塗りつぶすようになる。こうした装飾法は前者のLight Groundに対し、Dark Groundと呼ばれる。装飾帯もこれまでほとんど胴部に限られていたのが、胴部と頚部にそれぞれ細い装飾帯を施すようになる。スキュフォスやカンタロスなどの装飾は帯状ではなく、パネル状の画面に施された。また用いられた装飾も大きく変化し、原幾何学様式の中心的な装飾要素であった同心円文はほぼ姿を消し、直線的な文様がほとんどを占めるようになる。代表的な文様はメアンダー文で、幾何学様式の全期を通じて頻繁に用いられた。一方でジグザグ文、鋸歯文、市松文などは引き続き用いられた例である。

 前期の第二期(EG II)に入ると多様だった器形や装飾要素がある程度固定化する一方、オイノコエには底部の広い器形が登場し、スキュフォスやカンタロスは次第に浅くなる傾向が見られる。装飾帯は広くなり、メアンダー文などで構成されるメインの装飾帯に鋸歯文などの副次的な装飾帯が付け加えられるようになる。また胴部の下半部はこれまで黒く塗りつぶされていたのに対し、シンプルな直線からなる細い装飾帯が用いられるようになった。

 中期も第一期(MG I,850-800)と第二期(MG II,800-760)に分けられる。MG I期になると、アンフォラなどの器形はややスリムになり、最大径がこれまで胴部の中央あたりにあったのが上に移動してなだらかな肩が現れる。カンタロスには縦に浮彫り状の装飾がいくつも施されたものが登場するが、これは金属器を模したものと考えられている。またピュクシスには球形のものに代わって浅く底の広い器形が登場し、底の部分にも装飾が施されている。底の尖ったピュクシスと同様、吊り下げるためと思われる穴があけられている。スキュフォスは口縁部が外反していたのが、ほぼ垂直になっている。

 スキュフォスやカンタロスの装飾はパネル状から帯状に広がり、アンフォラなどには更に装飾帯が付け加えられている。主要な装飾帯にはメアンダー文のほか、二段かそれ以上のジグザグ文が用いられ、副次的な装飾帯には新たに双斧文、列点文、歯車文が取り入れられた。またクラテルの把手の下の部分に死者を嘆く女性の姿をシルエットで描いたものが出土しており、アッティカの陶器では人物を描いた最初の例となっている。しかしこれはまれな例であって、本格的に人物像が登場するのは先のことである。

 MG II期になると把手が口縁よりも高く持ちあがったカンタロスが登場し、偏平なピュクシスの蓋には把手として馬をかたどった像が一つから四つ取り付けられたものが登場する。装飾帯は陶器の大部分を占めるようになり、胴部下半に二重、三重の黒い帯を残すのみとなった。副次的な装飾帯には金属器から取り入れたと思われる、円や菱形の中に点を配した連続文が登場する。またへの字の文様を縦に連ねた文様も流行した。この時代の陶器にはまれに馬やその他の動物の図像が登場している。

 後期幾何学様式は細かく分類され、760-750年がLG Ia期、750-735年がLG Ib期、735-720年がLG IIa、720-700年がLG IIb期となっている。LG I期の区分はこの時代を代表するディピュロン・マスター(the Dipylon Master)と呼ばれる陶器画家の活動期と、その後継者たちの活動期とによって分けられている。この時代には器形のスリム化が更に進み、特に墓標として用いられたアンフォラやクラテルなどには1mを超えるモニュメンタルなものが登場し、そのほとんどがディピュロン・マスターとその工房によって装飾されている。

 新たな器形も彼らによってもたらされ、頚部が長い大型のオイノコエや口縁がクローバー型ではなく円形の大型の水差し、タンカードと呼ばれる、頚部が胴部よりも三倍近く長いジョッキ状の陶器などが登場し、いずれも把手が高く上に伸びていて、頚部との間に支柱を設けて強化しているものも多い。また後のレカニスを思わせる蓋付の鉢も生み出され、LG II期にはピュクシスに代わって数多く生産されるようになった。

 装飾帯は陶器のほとんどすべてを覆い尽くし、底部近くに黒い帯を残すのみとなっている。円に点を配した連続文は単なる黒い固まりの連続文と化したほか、鋸歯文を上下に組み合わせた文様(wolf-tooth)が取り入れられた。装飾帯はしばしばパネル状の画面に区切られ、卍型や菱形、四枚の葉の文様などが描かれた。大型の陶器では装飾帯も拡大したため、メアンダー文はより大きなスペースを埋めるために何段にも曲がりくねった複雑な形を取るようになった。

 この時代の最大の特徴は何といっても人物像の突然ともいえる流行であり、これを代表するのがディピュロン・マスターである。そのほとんどは墓標として用いられた大型のアンフォラやクラテルに描かれたもので、いずれも死に関わるテーマが描かれている。ルーヴル美術館所蔵のクラテル(A517:図1)はその代表例の一つで、プロテシス(Prothesis)と呼ばれる、死者を横たえて嘆き悲しむ場面が描かれている[2]。それぞれの人物はいずれもシルエットで描かれ、上半身のみ正面向きでそれ以外が側面を向いた構図はアルカイック時代まで引き継がれた。両手で頭をかきむしるポーズはミュケナイ時代から古典期以降まで共通したもので、アルカイック時代以降の陶器画を見る限り、このポーズは女性のもので、男性は片手をあげたポーズが一般的であり、幾何学様式の陶器にも登場している。なおこれらの人物の上半身および曲げた両手が逆三角形を描くのはディピュロン・マスターの重要な特徴の一つである。



図1


図2

 死者の上下に描かれている人物は実際には手前遠くに位置していることを表現したものであろう。左右には戦車が描かれ、下段には葬礼行列が描かれている。同じようなプロテシスの場面はこの画家の名前の由来となっている、アテナイ市の北西の後のディピュロン門の場所から出土した巨大なアンフォラにも描かれている。

 またこの画家の工房によって描かれたルーヴル美術館所蔵の別のクラテル(A519)には弓矢や剣、槍などで戦う戦闘の場面が描かれ、横たわる死者が積み重なるように描かれている[3]。戦士の持つ盾はディピュロン式と呼ばれるもので(Dipylon shield)、左右が大きくくり貫かれた形をしており、先のクラテルの下段にも登場している。小型や中型の陶器には水鳥や鹿などの図像がしばしば描かれている。

 LG II期に入ると、その様式は明らかな退化を見せはじめる。もはやモニュメンタルな陶器は製作されなくなった一方で、アンフォラなどの口縁部や肩、把手には蛇をかたどったレリーフが取り付けられるようになったが、これも死者と関わるモチーフであったのだろう。スキュフォスには底部から口縁までほぼ連続したカーブを描きながら45度に開く新しい器形のほか、コリントス式の椀状のスキュフォス(コテュレ)が取り入れられた。

 装飾は単純なものが好まれるようになり、複数の筆を横に並べた道具(Multiple Brush)で一度に複数のラインを描く大量生産的な陶器も数多く製作された。水鳥などの図像も同じ道具で一度に描かれることもあった。

 人物の図像も描かれるが、葬礼の場面でもプロテシスよりもむしろ葬礼行列を描くことが多くなり、嘆く女性のみを描いたものも多い。またこれまでのシルエットによる図像から、女性の衣服や水鳥や動物の胴体などがハッチングによって描かれるようになり、その後の東方化様式におけるシルエットからの脱却の前段階を示している。

[1] アッティカの幾何学様式陶器については、Kubler, K., Kerameikos 5.1, (1954), Davison, J. M., Attic Geometric Workshops, (1961), Brann, E., Late Geometric and Protoattic pottery: Athenian Agora VIII, (1960)
[2] 幾何学様式後期の葬礼の場面については、Ahlberg, G., Prothesis and ekphora in Greek Geometric art (1971)参照。
[3] 幾何学様式後期の戦闘場面については、Ahlberg, G., Fighting on land and sea in Greek Geometric art (1971)参照。