2 - 1 - 3 イオニア地方南部の東方化様式


Early Wild Goat Style
(初期野生山羊様式)

 七世紀半ば過ぎから初期東方化様式に見られたシルエットにわずかな輪郭線を用いた描写がさらに発展し、頭部や四肢、腹部などにも輪郭線が用いられるようになり、ここにWild Goat Styleが誕生する。

 最も好まれた器形はやはりオイノコエで、この時代の特徴としてかなり横幅の広い偏平な胴部と、注口のないシンプルな丸い口縁部があげられる。把手は板状ではなく三本前後の粘土ひもを並列して作られていて、把手と口縁部の接合点には左右に円盤状の飾りが取り付けられた。これは把手を溶接した金属器の特徴を模したものであろう。

 その名前が示す通り、最も多く描かれるのが山羊だが、犬やライオン、グリフォン、スフィンクス、兎なども登場する。装飾では二本の線をねじりあわせた文様(fig.1)や市松文様(fig.2)が好まれた。空間充填文としては菱形を四つ十字に組み合わせたもの(fig.3)が多用された。しかしMiddle Wild Goat Styleよりも多くのスペースを残している。

fig.1

fig.2

fig.3

 その製作地はイオニア地方の南部と考えられ、その工房も一つか、複数としても緊密な関係にある工房によって作られたと推測されている。サモスやミレトスがその候補地としてあげられているが、Middle style IIが陶土分析によりミレトス産と特定されていることから、初期の例も同じ場所で作られたとするのが妥当かもしれない。

Middle Wild Goat Style I

 640年頃からは早くもMiddle Wild Goat Styleへと移行し、時代によりI,II期に分けられる。I期において、初めは初期と同じ形式のオイノコエが好まれていたが、次第にクローバー型の口縁部を持ち、やや胴部も長くなったものが流行し始める。このほかにクラテルや脚付きのプレートも作られた。

 この時代の装飾のなかで特徴的なのが一本の線が上下で交互にねじれたもの(fig.4)で、このほかにも卵鏃文(fig.5)が好まれた。時代が降るとロータス・パルメット文(fig.6)が一般的になった。また頚部には古くは幾何学様式の名残のメアンダー文(fig.7)が用いられていたが、後には連環文(fig.8)が好まれるようになった。

fig.4

fig.5

fig.6

fig.7

fig.8

 空間充填文も種類が増え、より多くのスペースを埋めるようになる。卍をベースにした装飾(fig.9)や、二重の円を四つあるいは七つ組み合わせた文様(fig.10,11)も見られる。630年頃には画面の上下の枠に沿った充填文も登場し、ロゼッタ文を半裁したもの(fig.12)や、三角形の先端に水滴状のものがくっついたもの(fig.13)が見られる。また胴部の画面中央にロータスや渦巻き、パルメットを組み合わせた大型の植物文用が配置されるようになる。

fig.9

fig.10

fig.11

fig.12

fig.13

 構図としては、肩の部分は中央の植物文を挟んで左右対称に配置され、その動物たちは中央を向いているが、最後尾の動物のみそれぞれお尻を向けている。胴部は狩猟の場面として描かれることが多く、左から右へ流れることが多いが、動きを与えるために反対側に走るものがいたり、追手を振り返って見ているものがいたりする。しかし時代が降ると山羊や鹿がゆっくりと左から右に歩く構図が多くなる。

 時代的にはコリントス式のTransitional Styleと同じだが、輪郭線と刻線というまったく異なる描法が取られている。コリントス式は金属器、Wild Goatは織物に表された像から影響を受けたとする説があるが、一概にはいえず[1]、個人的には後者はトルコの内陸部で作られていた陶器との関連も考慮に入れるべきだと思われる[2]。またより早く東方化様式に入ったアッティカ陶器にはWild Goat Styleと同じ充填文が用いられており、直接東部ギリシアには輸出されていないものの、キュクラデス諸島の陶器を通じて影響を及ぼしていたと考えられている[3]

 その出土地、出土数とも初期から急増しており、オロンテス河口のアルミナ、クレタ、イタリア半島やシチリアなどからも出土するようになる。製作地はやはりミレトスが有力だろうと考えられている。

Middle Wild Goat Style II

 625年頃からはMiddle Wild Goat Style IIへと移行するが、その違いは必ずしも明確ではない。全体的には省力化の傾向が見られ、特にメイン画面を区分する装飾には連環状の手の込んだものから、簡素なメアンダー文(fig.14)か単純な黒い太線に変わっていった。さらに動物においては次第にその胴体が間延びして、全周に6、7匹描かれていたのが、4匹程度に押さえられた。

fig.14

 空間充填文も簡略化され、三角形の文様からは水滴状のものが消えている(fig.15)。また同心円状の文様も頻繁に用いられるようになった(fig.16)。胴下半部のロータス文においても大型化したうえ葉の枚数も減らされている。頚部の連環文もメアンダー文と方形の文様を組み合わせたものに変更された(fig.17)

fig.15

fig.16

fig.17

 この時代には新しい器形も多く取り入れられ、脚付きのプレート(Fruit Dish)は既にI期に登場しているがこの時代になって流行した[4]。その装飾は内面に同心円状に表され、パルメット(fig.18)やロータスなどの文様を中央に配し、その周りに二重の太線、次にメアンダーなどの連続文、さらに二重の太線を描く。その外側がメインの画面となり、ドーリス式神殿のトリグリュフとメトープのように、六本一組程度の鋸歯文(fig.19)が等間隔に配置され、それらの間に山羊やスフィンクスなどの頭部、水鳥、大型のロゼッタ文などが描かれた。このほかにも深めのプレートやディノス、アンフォラなども登場するがその数は多くない。

fig.18

fig.19

 出土地はこれまでの地域にイスラエルなどのほか、エジプトのナウクラティスからは大量に発見され、またトクラ(Tocra)からも見つかっており、これらの都市の確立された年代との関係も注目すべきであろう[5]。II期は590年頃に幕を閉じ、イオニア北部ではLate Wild Goat Stlyeが続いていくが、南ではフィケルラ式という新たなスタイルが確立される。

[1] 織物が東方化様式に影響を与えたとする説の反論については、K.Brown, "The question of Near Eastern textile decoration of the Early first millennium BC as a source for Greek Vase Painting of the Orientalizing style" (1989)参照。
[2] 特にゴルディオンの墳墓III出土の陶器に動物文のほか、市松文や画面から下がった三角形の文様などの類似点が見られる。発掘報告については、K嗷te,G. & K嗷te,A. "Gordion, Ergebnisse der Ausgrabung im Jahre 1900" (1904)参照。
[3] アッティカ、キュクラデス、東部ギリシアの装飾文の影響関係については、Kardara, C. P., "On mainland and Rhodian workshops shortly before 600 B.C.", AJA 59, pp.49-54参照。
[4] ゴルディオンでは既に八世紀中頃から七世紀初頭に年代付けられた墳墓IIIから、動物文はないものの、同心円状の装飾パターンを持つプレートが出土している。
[5] トクラ出土の陶器については、Boardman, J. and Hayes, J., Excavations at Tocra 1-2, (1966, 1973)参照。