東ギリシアの陶器が幾何学様式から東方化様式へと移行するのはアッティカなどギリシア本土よりも早く、七世紀の第二四半期といわれている[1]。その初期においてはメアンダー文など幾何学様式の文様が残るものの、次第に連環文など東方化様式の特徴が強く現れるようになる。その最大の特徴はスフィンクスなどの怪物や、山羊、鹿、水鳥などの動物文様がフリーズ状に描かれることである。
コリントスが黒像式という新たな技法を用いたのに対し、東ギリシアでは輪郭線による描法を用い、その描写は柔らかく自由な印象を与える。とはいえ、まだこの時代の描写は幾何学様式末期のシルエットによって描かれた動物の、頭部などの一部に輪郭線が用いられる程度であった。もう一つ後のいわゆるWild
Goat Style(野生山羊様式)と異なるのは、空間充填文がまだそれほど用いられていない点である。
その後、間もなくしてイオニア地方を中心として輪郭線描写を発展させた手法が試みられ、人物をすべて輪郭線によって描き、その内側を白く塗りつぶしている[2]。しかしこうした例は極めてまれで、後世に引き継がれることなく消えていった。この時代に最も多く作られたのはオイノコエで、ずんぐりした胴部にシンプルな口縁部を持つのがその特徴である。このほかにもアンフォラなどが作られた。
七世紀の後半に入ってまもなく、東方化様式はWild
Goat Styleと呼ばれる様式へと発展し、以降六世紀の前半まで続くことになる。古くはロードス島で大量に発見されたことからここを製作地とする説が有力であった[3]。しかし近年の化学分析の結果などからロードス島での生産は否定され、複数の地域で製作されていたことが明らかになった。その中心となったのがイオニア南部地域で、北部地域やアイオリス地方などでも作られた。
[1] |
初期東方化様式についてはCook,R.M.,
East Greek Pottery (1997)pp.29-31参照。 |
[2] |
スミュルナ出土のイズミール博物館所蔵の破片など。E.Akurgal
Alt-Smyrna 1 (1983) pl.109a |
[3] |
Schiering,W.
Werkst閣ten orientalisierender
Keramik auf Rhodos (1957)や、Kardara,Ch.
Rodiaki Angeiographia
(1963)などはいずれも東方ギリシアの陶器をすべてロードスに帰している。 |
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