2 - 6 - 4 赤像式誕生後の黒像式


後期黒像式(530-500年頃)

 エクセキアスらによって高められた黒像式であったが、彼はその技術の持つ可能性を最大限に生かしきってしまったため、それ以降の画家たちは新たな可能性を求めて赤像式という新たな技術を発明した。しかしすべての画家が直ちに赤像式に移行したわけではなく、黒像式を制作し続けた画家たちもいたが、もはやエクセキアスのような偉大な画家は現れず、彼の様式を模倣し、あるいは赤像式を模倣しながら存続していった。

 赤像式誕生前後において、重要な人物の一人が陶工ニコステネス(Nikosthenes)である[1]。彼は数多くの陶器にサインを残しているが、彼の特徴はアッティカ陶器には特異な、エトルリアの形式を模した陶器を制作したことであり、これは彼がエトルリア市場をかなり強く意識していたことを意味している。525年頃の京都ギリシア・ローマ美術館所蔵のアンフォラは彼によって制作されたもので、彼のサインが記されている。描写は雑で、古風な感じがする。この形式を持つアンフォラはニコステネス式(Nikosthenic Amphora)と呼ばれ、多くの作品が残されている。

 同美術館所蔵の520-510年頃のヒュドリアはこの時代の特徴を示すものの一つである。その主題はディオニュソスとその仲間を描いたものであるが、それほど大きくもない画面に四頭立ての戦車と四人の人物を描いているので、それぞれの像は重なり合っている。しかし黒像式では重複関係の表現は難しく、さらにこれ以降の時代に装飾として好まれた蔦が画面の空間を埋め尽くしているためかなり混雑した印象を与える。なおヒュドリアはこの時代特に好まれたもので、その使用目的に適した、泉で少女たちが水をくむ場面が数多く描かれている。

 アンティメネスの画家(Antimenes Painter)はこの時代の最も優れた画家の一人で、その作品の中にはエクセキアスを思わせるものもあるが、全体として彼のような厳格さはなく、むしろユーモアを感じさせるものもある[2]。大英博物館所蔵のネックアンフォラに描かれたオリーブを収穫する場面もそうした陶器の一例であろう。

 この時代に数多くの作品を残しているのがレアグロスグループ(Leagros Group)と呼ばれる工房で、その様式はアンティメネスの画家の影響を強く受けている[3]。彼らは大型陶器に対してトロイア戦争など神話を題材とした主題を数多く描いている。ミュンヘン古代美術館所蔵のヒュドリアはトロイアが陥落した場面を描いているが、彼らの作品だけでなく、この時代の作品の多くに共通していえるように、刻線の使用は必要最低限に抑えられている上に描かれる像の数は増加しているため、画面が重苦しくなってしまっている。これは赤像式の表現を模倣し、一方で黒像式の表現の限界を忘れてこれを越えてしまったためと考えられよう。

 この時代にもう一つ特徴的に見られるのが、外面に目の装飾を施したキュリクスである。これはすでにエクセキアスによって描かれているが、特にこの時代になって数多く描かれた。これらはアイカップ(Eye-cup)とも呼ばれ、両目の間に一人か二人程度の像を描くことが多かった。古代地中海美術館所蔵のキュリクスはその典型といえよう。両目の間には一人のしゃがんだ戦士が描かれている。この時代はすでに述べたように赤像式の様式を模倣せんがために黒像式の限度を超える複雑さを導入する一方で、エクセキアスによって達成された黒像式が本来持つ可能性を生かし切れなかった時代であり、すでに主流が赤像式に移っていた時代にあって黒像式は消滅するしかなかった。

 なおこの時代には、黒像式でも赤像式でもない、シックステクニック(Six's technique)と呼ばれる装飾法によって描かれた陶器が多数生産された[4]。これは陶器を黒く塗りつぶし、その上に図像を白や赤で描いて掻き落とすという手法で、黒像式の技法を用いて赤像式的な効果をねらったものと考えられる。しかしその彩色ははがれやすく、この技法は数十年で姿を消した。ニコステネスはこの技法と関わりの深い人物である。

末期黒像式(500年以降)

 黒像式も五世紀にはいるとアンフォラなど大型陶器には用いられなくなり、中型から小型の陶器が中心となった。特に数多く描かれたのはレキュトスであったが、その描写はこれまでの黒像式とは少し異なるものであった[5]。つまりこれまでは陶器の地の上に黒で描いていたのだが、この頃から陶土の上に白の上塗りが施されるようになり、後に述べる白地陶器を生み出すことになったのである。アテナイ国立博物館所蔵のレキュトスはその一例である。白地は概して剥がれやすいものであり、ここでもやはりもとの美しさは失われている。

この時期のものとしては優れたもののうちにはいるが、もはやエクセキアスの時代の面影は見るべくもない。大型陶器が作られなくなる中で、儀式用に用いられたレベス・ガミコスなどはまだ黒像式のものが作られていた。大英博物館所蔵のものもその一例で、ペレウスとテティスの格闘及びその後の婚礼が描かれていて、儀式用ということで古い様式が保たれているためか、この時代としては優れた描写が見られる。黒像式による陶器は、レキュトスなども五世紀の第二四半期には姿を消したのに対し、これら儀式用の陶器は五世紀の半ば頃まで制作されていた。

[1] ニコステネスおよびその陶器については、Eisman, M. M., "Nikosthenic amphorai", JPGMJ 1, pp.43-54, Eisman, M. M., "The Nikosthenic workshop as the producer of Attic kyathoi", AJA 74, pp.192-参照。
[2] アンティメネスの画家については、Beazley, J. D., "The Antimenes Painter", JHS 47, pp.63-92, Burow, J., Der Antimenesmaler, (1989)参照。
[3] レアグロスグループについては、Duplan, K. B., RA 1972, pp.64-参照。
[4] シックステクニックについては、Six, J., "A rare vase-technique", JHS 30, pp.323-326参照。
[5] 黒像式末期のレキュトスを得意とした画家たちについては、Haspels, C. H. E., Attic black-figure lekythoi, (1936)参照。