幾何学様式時代になると、もともと盛んではなかった彫刻は美術全体の衰退と重なってその初期にはほとんど製作されていない。十世紀あたりから次第にテラコッタ製の人物や動物像が生産されるようになり、その終わりから九世紀にかけて、ロクロで胴体を作りそれに手足を取り付けて、当時の陶器と同じ幾何学的な文様を描いたテラコッタ像の生産が盛んになる。八世紀になると少しずつ変化があらわれてくる。

デルフォイやオリンピアなどの聖地が整備されてくるにつれて、青銅製の鼎が奉納されるようになり、その飾りとして小さな青銅の像が取り付けられるようになった。その製作法はクレタ・ミュケナイと同じであり、まだ大型の像は造られない。その像には人物も動物も見られるが、姿は様式化されていて、幅の広い肩とくびれた腰、肉付きの良い下半身など、陶器画にも登場するようになった図像との共通点は多い。

八世紀の後半になると、こうした鼎の生産が盛んになると共に、装飾品ではない独立した像がやはり青銅で作られるようになる。そのほとんどはやはり聖域から発見され、人物を型取ったものはおそらく神や英雄を表した像だと考えられる。やはりこの像も陶器画の人物と共通した特徴を持ち、陶器画と違ってその下半身は正面観で表現されているものの、正面から見るとあまり現実的な表現ではなく、むしろ側面から見たほうがそれらしく表されている。700年頃のテッサリア出土の戦士の像(Athens12831:図1)もこうした特徴を持つが、首は異様に太くて長い。背中にはボイオティア式の盾を背負い、手には槍を持っていたらしいが失われた。



図1 戦士像

動物の像もやはり陶器に描かれた図像との類似点が多く、手足や胴体が細いのが特徴といえる。中には複雑な群像もあり、母鹿の体の下に隠れて乳をすう子鹿を表したもの(Boston98.650)は、青銅器製作の技術が向上したことを伺わせる。なおその胴体に表された同心円の文様は六世紀初頭の破風彫刻のライオンの像にも用いられている。

参考文献
幾何学様式のブロンズ像については、水田徹「ギリシア幾何学様式の美術」美術史81(1971) pp.17-34