その他の地域の神殿彫刻


アッティカ以外の地域でも建立された神殿に対して彫刻が施されていった。ギリシア最大の聖地のひとつであるデルフォイでは、聖域の中心に建つアポロン神殿の彫刻が現存している(c.520-510)。東破風の中央にあらわされたのはアポロンによって御された戦車で、四頭の馬が正面向きにあらわされている。その左右にはそれぞれ三体ずつの立像が立ち、その外側には狩をするライオンの像がそれぞれ配されている。

やや古風な印象の残る、また静的な東面に対し、西破風の構図はより動的なものになっている。ギガントマキアを扱ったその中央に配されたのはゼウスの乗る戦車で、その左右にはその戦闘の場面が三角形の構図にあわせて配されたが、残念ながら欠損が多い。この神殿からはアクロテリオンとして飾られた走る(飛翔する?)ニケの像も現存しており、そのポーズはコルフ島のアルテミス神殿にあらわされたゴルゴンとほぼ同じ、ややぎこちないものである。

デルフォイには神殿以外にも多くの建築物が建てられたが、中でもギリシア諸ポリスによって建立された宝庫群に施されていた彫刻が現存している。その中で最も状態がよく、さらにさまざまな意味でギリシア美術史上重要な位置を占めるのがシフノス人の宝庫である。その建立の年代が525年前後と特定できること、ギリシア本土ではじめてフリーズ彫刻が導入されたこと、さらには赤像式の技法の発明者とされるアンドキデスの画家の様式がそのフリーズ彫刻の様式に極めて近く、その発明の年代特定に役立っていることなどがあげられる。

その柱はドーリス式でもイオニア式でもなく、女性をかたどったカリアティドで、アテナイのエレクテイオンよりも約一世紀もさかのぼるものである。その頭には円筒形のポロスと呼ばれる帽子をかぶり、そこにはレリーフが施されている。キトンの上にヒマティオンをまとったその様式は当時のコレー像と同じものである。なおデルフォイからは別のカリアティドも出土しているが、どの宝庫に属していたものかは不明である。

東破風にあらわされているのはデルフォイを舞台にしたアポロンとヘラクレスの鼎争いで、仲裁に入ったゼウスを挟んで左にアポロン、右にヘラクレスを配し、アポロンの後ろにはアルテミスが立つ。その左右には戦車がそれぞれ表されているが、中央の図像には関係なく、デルフォイで起こった第一次神聖戦争を象徴するもの、とする見方もある。それぞれの像は丸彫りあるいはそれに近い彫りになっているが、丁寧に彫られているのは正面だけである。

フリーズは北・東面と南・西面がそれぞれ異なる彫刻家によって彫られたと考えられていて、北にはギガントマキアがあらわされ、そのバランスのとれた構図はギリシア彫刻の中でも特に目を引くものといえる(図1)。東面には右側にアキレウスとメムノンの戦いがあらわされ、これを見守る神々が左側に配されている。南と西には戦車群があらわされていて、それぞれが違う場面をあらわしていることは明らかだが、その解釈はまちまちで諸説ある。

東ギリシアで発展したフリーズ彫刻が単調な図像の繰り返しが多かったのに対し、特に北・東面の構図は画期的である。その背景にはすぐ近くに立てられていたドーリス式の建築群に飾られたメトープ彫刻が影響しているといわれ、シキュオン人の宝庫のメトープでは一つの場面を複数のメトープに分割するなど、シフノス人の宝庫のフリーズを予兆するような表現も見られる。



図1 デルフォイ・シフノス人の宝庫・北フリーズ

同じデルフォイに後に建立されたのがアテナイ人の宝庫で、パウサニアスによればマラトンの戦いでの勝利を記念して建てられたとされるが、様式的に年代はさかのぼるのではないかとする説もある。パウサニアスが正しいとすれば、戦いの直後まもなくの建立であろう。そのメトープにはヘラクレスとテセウスそれぞれの場面があらわされている(図2)。テセウスがこうした建築に表されていることで、民主政を象徴しているのではないかという説もあるが、これと隣り合って僭主政の象徴ともされるヘラクレスが表されている点で説得力に欠ける。


図2 デルフォイ・アテナイ人の宝庫メトープ

アッティカに近いエウボイア島のエレトリアからはアポロン神殿が出土し、建立年代は五世紀初頭とされるが、マラトンへ向かうペルシア軍によってまもなく破壊された。破風の中央に立つのは胸に大きなゴルゴネイオンを取り付けたアテナで、その左右にはアマゾン族と戦うテセウス以下のギリシア人たちがあらわされており、アテナイの影響を強く受けたテーマといえる。現存状態はよくないが、アマゾンの女王アンティオペを抱え上げるテセウスの像は見事である(図3)。

図3 エレトリアのアポロン神殿破風

この神殿とほぼ同じ時代に建てられたのがアッティカの南西にあるアイギナ島のアファイア神殿で、アルカイックの神殿彫刻としては最も状態のよいものである。興味深いのが両面の破風の制作年代が異なると考えられている点で、西破風の年代が500-490年とされ、まだアルカイック的名スタイルを残しているのに対し、東破風は490-480年とされ、いわゆる厳格様式と呼ばれるスタイルを見せている。

西破風のテーマが何かというのには異論もあるが、トロイア戦争を表しているとするのが一般的で、アイギナ島ともかかわりの深いアイアスがその中にあらわされていると考えられている。一方の東破風もトロイア戦争を扱っていると考えられているが、こちらはホメロスの語る戦争の一世代前、ヘラクレスによって率いられたギリシア軍とトロイア軍の戦いである。どちらも中央に立つのは女神アテナで、完全武装した姿であらわされている(図4)。


図4 アイギナ島・アファイア神殿西破風・アテナ像

両破風ともその左右には戦闘の場面があらわされているが、西破風の像が中央から外側へ向かう構図で表されているのに対し、東破風では外側から中央へ向かう構図になっている。両破風の制作年代の違いはわずかではあるが、様式の違いは明らかである。もちろんこれは彫刻家の違いによる点もあるだろうが、より複雑なポーズが可能になり、また筋肉などの表現もよりリアルになっている。その違いがよく現れているのが西破風のトロイア兵(図5)と東のヘラクレス(図6)で、弓を引く両者のポーズはほぼ同じだが、その違いは一目瞭然であろう。


図5 アイギナ島アファイア神殿西破風


図6 アイギナ島アファイア神殿東破風

東破風の像の中でも特に新しいポーズが試みられているのがその左端に横たわる戦士の像で、その複雑にひねったポーズはギリシア彫刻の新しい時代を告げるものといってもいいだろう(図7)。


図7 アイギナ島アファイア神殿東破風

建築においてギリシア本土とは異なる発展を見せていた東ギリシアではそれに伴う彫刻でも異なる様式が現れている。主な装飾は梁の部分に施されたフリーズ装飾で、神話の場面があらわされることはほとんどなく、戦車競争や狩の場面、酒宴など、当時の貴族の生活にかかわる場面があらわされることが多い。アテナイ人も居住していたアッソスのアテナ神殿(c.540-520)は例外的で、こうした場面の中にケンタウロス族やトリトンと戦うヘラクレスの場面があらわされている。

後のパルテノンよりもはるかに巨大で、世界の七不思議のひとつにも数えられたエフェソスのアルテミス神殿、またこれに匹敵するディデュマのアポロン神殿、サモスのヘラ神殿にもさまざまな彫刻が施されていたが、残念ながらあまりよい保存状態とはいえない。その特徴は円柱の土台部分に彫刻が施されていることで、エフェソスの柱からはこの神殿の建立を援助したとされるリュディアの王クロイソスの名前も復元されている。ディデュマの神殿では、梁の角の部分に翼をつけたゴルゴンの像が表されている。

参考文献
J. Boardman, Greek sculpture: the Archaic Period, pp.155-161, B. S. Ridgway, The archaic style in Greek sculpture (1977), The severe style in Greek sculpture (1970)参照。メトープ彫刻については、H. K撹ler, Das griechische Metopenbild参照。東ギリシアのフリーズ彫刻については、R. Demangel, La Friese Ionique参照