中期アルカイックのクーロス像


570-560年に年代づけられるテラ島出土のクーロス(Athens 8)はやはり厳格な正面観によっているものの、顔や身体の表現はより丸みを帯びたものとなっている。前期との決定的な違いは、この時代の彫刻の象徴ともいえるアルカイックスマイルが現れたことにある。これが微笑みを意図したものでないことは明らかで、当時の彫刻家が生命観のある表情を与えようとした結果生まれたものと考えられる。

アッティカのヴォロマンドラ出土のクーロス(Athens 1906)は両手先と左の爪先を除けばほとんど完全な形で残っている。目は大きなアーモンド形からより現実的なサイズのものになっているが、側面から見ると顔と後頭部がかなり平坦で、髪の表現もかなり様式化されている。その一方で腹筋こそ縦に三つに分かれる不自然な表現が用いられているものの、それ以外の部分はかなりリアルな表現になっている。

この時代はクーロス以外にも代表的な男性の像が二点現存している。一つはモスコフォロスと呼ばれる子牛を担いだ青年の像である(Athens Acr.624:図1)。正面観であることと、膝下が欠けているものの重心は両足に均等にかけられていたと思われることはクーロスと同じだが、後ろに子牛を担い、その前後の脚を両手で握りしめ、ちょうど子牛の脚と青年の腕が×字になるデザインを取っている。体にはごく薄い衣を纏い、衣文は全く表現されず、体のラインがはっきり現れている。これが奉納用に製作されたことはその像の構図だけでなく、銘からも明らかであって、奉納者ロンボスの名前が記されており、また他の彫刻との比較などから彫刻家ファイディモスの初期の作品と推定されている。



図1 モスコフォロスの像

もう一つの彫刻がランパンの騎士と呼ばれるもので、頭部はルーヴルに、胴部と騎馬の一部はアテネのアクロポリスにある(Louvre 3104 and Athens Acr.590:図2)。その頭部の、特に髪の表現にはまだ様式化が見られるものの、極めて繊細かつ丁寧に表現されており、かなり有能な彫刻家の存在が明らかになっている。これと共にもう一体の騎士の像の一部が発見されており、偕主ペイシストラトスの息子のヒッパルコスとヒッピアスを表したのではないかと推測されている。この仮説はもしこの彫刻がペイシストラトスが権力を握った546年以降に製作されたのであれば可能性があるが、偕主政が民主政によって打倒されたあとも破壊されずに残っていたとは信じがたいとする学者もおり、この像をディオスクウロイに同定する学者もいる。



図2 ランパンの騎士

テネア出土のクーロスは頭部に壷がかぶせられた状態で埋められていたため、ほぼ完全な形で残っている(Munich 168)。年代的にはランパンの騎士とさほど変わらないが、その彫りは浅く、髪の表現もかなり単純化されている。メロス島出土のクーロスはかなり痩せており、青年というよりも少年に近い印象を受ける(Athens 1558)。

アッティカのアナヴュソス出土のクーロスは銘文からクロイソスという人物の墓標として作られたことが分かる(Athens 3851)。前髪は渦巻状の巻き毛になっていて、房状の髪が垂れるやはりまだ様式的な表現だが、筋肉は特に下半身の表現において優れている。また特徴的なのがその肉付きの良さで、これまでのクーロスに比べてかなり筋肉質になっている。

参考文献
中期のクーロス像については、J.Boardman "Greek Sculpture: the Archaic Period"(1991) pp.64-66、この時代の彫刻家については同書pp.68-77